堕落の動機と経路





待って、痛い、嫌だ、ごめんなさい。

唇を掠りもせず、喉奥で詰まり、脳裏で繰り返される言葉を込み上げてきた吐き気と共に腹の中に仕舞う。

「エース……いい加減自分の立場を考えてみたらどうだ」

酷く冷たいような、しかしまだ生温かさを持った言葉が聴覚を嬲ってきた。

もう嫌だ、でも本人は嫌いじゃない、嫌なのは、悪いのは、この行為だけ。

部屋の四つ角の一つにだるい体を預けて、未だ心が惹かれるまま顔を上げる。

「……っ、しゅ、っ……!」

シュン、と呼ぼうとする名前さえも上手く紡げなく、代わりに精一杯の喘ぎが零れた。

窓に打ち付けられた厚い木の板の間から僅かに差し込んでくる光。

それに薄く照らされた黒と緑が近づいてくる度にそよぎ、踊る。

かつん、とブーツの底と床がぶつかる音が鳴り終え、歪み始めそうになっている視界の視線の先が好みの金色とぶつかった。

いつもは優しく凛々しく上がっている眼も、今は氷のように冷たい。

「昨日、一緒にいた奴は誰だ」

シュンがおもむろに取り出した携帯機器の画面が光り、宙にディスプレイを展開する。

そこにはシュンが知らない、楽しそうに笑う男に肩を抱かれ、迷惑そうに、しかしどこか懐かしさを含んだ表情のエースの様子が映っていた。

「エース」

呼ばれた己の名にはっと焦点を合わせれば、途端に足に激痛が駆ける。

悲鳴を上げることはプライドが許さなく、唇を噛み締めて、痛みをやり過ごそうと悶絶しながら身を捩った。

痛い、シュンに踏まれた、と冷静に理解する冷めた頭とは反対に体は痛みで燃え上がる。

「……俺の質問が聞こえなかったか?」

再び靴底が汚れた足に触れて、それだけで恐怖して何度も首を横に振れば、大好きな金色の目は僅かに穏やかになった。

うっかりしたら話したいことより悲鳴が迸ってしまいそうな喉を制御して口を開く。

「むか、しの……しりあっい、っから、なんで、も、ねえ……」



これで落ち着いてくれる、と思ったのが間違いだった。



安堵の息を吐きかけた瞬間、強烈な蹴りが胃を押し上げ、潰し、鳩尾に届く。

無抵抗で蹴り上げられて体が傾いだ。

「ぐ、がはっ……!ぁっ、い、げほ、げほっ、しゅ、んっ……?」

どうして、どうしてだ?と痛みと吐き気で狂いそうな頭の中でそれだけが巡る。

「知り合い?それが何でもない、だと?勝手に判断するな、決めるのは俺だ」

穴が開きそうなほど痛んでいる腹を本能で守ろうとしているのか、無意識に手を添えてシュンを見上げた。

胃が表裏を返されたように気持ち悪さを主張し頭がぐらぐらとする。

視界がぼやけて、ちゃんとシュンと会話をしたいのに、それさえも叶わないもどかしさが全身を駆け抜けた。

シュン、シュン、シュン……。

何度も紡ぐことのできない名前を心で呼び、目で縋る。

「こんな嬉しそうな顔して……。俺には一度も見せたことがない表情だな」

愛しげに、ディスプレイをなでるように指を伸ばしたその瞳の中に、嫉妬の炎が燃えているのが見えた気がした。

意地っ張りな自分の性格がこれほど嫌いになる瞬間はこうした行為が行われる度に訪れている。

もちろん、今も。

最初から、素直な心でシュンと接していれば、きっとこんな関係にはならなかったはずだ。

愛を与えてくれるシュンが当たり前で、嬉しくて、でも愛されるなんて初めてのことで、恥ずかしくて。

その時はただ嬉しさだけで、自分が満たされていく感覚にこれで良いのだと、甘えて、シュンの気持ちの端さえも考えようとはしていなかった。



「エースは誰が好きなんだ」

「……っ、しゅ、ん……だけ、が……す、」

好きだ、と言い終える前に再び目つきの変わったシュンの手が前髪を鷲掴み、上を向かせる。

「好きだなんて聞き飽きた」

ぎしぎしと音が鳴りそうなほど強く引かれて喉から悲鳴が迸りかけた。

それを必死に飲み込んで、痛みでぎこちなくしか動かない腕を伸ばして漆黒に触れる。

悪い、悪かった、頼むから、いろいろな願いを混ぜ、震える指先に残った僅かな力を込めて引き寄せ、優しく笑みながら綺麗な唇に己のを重ねた。

拒絶される、蹴られる、殴られる、そういうこと全てを覚悟して、何度も合わせ直す。

柔らかな熱はいつもと変わらずそこにあり、安堵した。

シュン、俺はお前だけの俺だ。

過去に重ねたことがあるのは唇だけじゃあないのに、今じゃこんな幼稚なキスだけで息が上がってどうしようもなくなる。

「……」

「ごめ、わるい……っ、しゅん……」

不安にさせて悪い、ごめんなさい、と深く誤りながら薄くも丈夫な胸板にしな垂れた。



そっと、手が離れて額の痛みが薄れる。

次の痛みに備えてなのか無意識に強く目を瞑ったが、痛みなどは訪れなく、代わりに背中に優しく腕が回り、労わるようになでられた。

そうすべきなのは俺なのに。

「しゅ……」

「喋らなくていい……。痛かっただろう?」

ぎゅっと頭を抱き寄せられて、緑の肩口へ押し付けられる。

途端に視界が潤み始め、駄目だと思えば思うほど酷くなっていき、さらに体はそれぞれの箇所が我先にと悲鳴を上げようと今まで以上に軋み出した。

必死にシュンにしがみついて、耐えるために瞼を強く閉じる。

それでも溢れる涙と嗚咽に気持ち悪くなって、背中の上で触れた自分の手に爪を立てた。

久しく整えられていなかった爪は、傷ついたそこには容易く刺さり、その甘い痛みに、体がいやらしく身悶えする。

「あ、は……しゅ、ん……?」

今の表情、俺の言葉、呼ぶ声音、思う心。

俺の全ては、シュンのために存在する。

覗き込むように合わせ黄金色の中にはいろいろなものでどろどろになった自分が映り込んでいて、自分を見ていた。

「……」

「……」

「手当てをしよう」

そう言って俺を抱き上げて部屋を移動しようとするから、我侭だと知っていながら暴れる。

贅沢だと思うが、こうしてシュンに自分の足りなさを気づかせてもらったこの場所にいないと、またすぐに自分の罪の事を忘れそうなのだ。

ましてや外の世界にでも出されたら、同じ過ちをダンやバロン、キース達とすることになるだろう。

シュンを悲しませ、寂しがらせ、愛の減少感に襲わせるのはもう十分だ。

体は痛くて今にも意識が飛びそうだったが、心が満たされていればそれで良いと再び瞼を閉じる。

「あ、あり……が、とな……」

とろとろと蕩けていく思考の中が赤く染まった。





堕落の動機と経路
神は愛でもって全てを主管された

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