おとぎの国の本懐



辺りが暗くなりセミの大合唱も鳴り止んだ頃、名前は漸く佐倉たちと挨拶を交わすことができた。
「佐倉くーん!!」
「わっ、名字さん……!」
名前がイノシシのように突進すると、佐倉は難なくそれを受け止める。
「元気そうで良かったよ〜。ミニゲームが始まっちゃって挨拶もできなかったからね。ちゃんと顔見せて」
名前が佐倉の頬を両手で挟むと、佐倉は照れ臭そうに頬を染めながら名前と同じ目線になるように膝を曲げた。
「うんうん。おっきくなったねえ。おりゃおりゃ」
「うう……」
挟んだ頬をむにむにと動かすと、佐倉は困ったように眉を下げて、喉の奥でくぐもった音を出す。
「名前さーん! 俺は俺は?」
「ヒロもおいで〜」
わーい、と子どものように飛び込んできた右藤の頭をワシャワシャと撫でる。半年ぶりに見た右藤と佐倉は一回り大きくなっていた。ちゃんと話すのは世界組を引退して以来か……。
埼玉紅葉の練習着を身に着ける2人を前に目を細める。対象的に佐倉の顔はどんよりと曇っていた。

そして、深々と頭を下げる。
「名字さん。約束を守れず、すみませんでした」
ほぼ直角に腰を曲げた佐倉の頭部を前に、名前は咄嗟の言葉も出せなかった。ぐっと喉が詰まる。

王城を尊敬する佐倉は、その王城が慕う名前のことも慕っている。王城と肩を並べている人として名前と接している。
しかし、名前は佐倉がそう思ってくれていることを素直に受け入れられていない。名前だって王城のファンの一人なのだから。
彼のことを一目置いている者同士としての親近感を持っていた。
だから、名前には佐倉の気持ちが痛いほどわかる。約束を守れなかったことが申し訳ない気持ちもあるけど、悔しい気持ちの方が大きいのだろう。

目の前で頭を下げる佐倉に、名前はゆっくりと手を伸ばす。綿毛のような手つきで佐倉の肩に触れた。それは奇しくも過去に王城が手を置いた箇所と同じ位置だった。
「私ね、佐倉くんが正人と離れて良かったと思ってる」
ピクリと佐倉の肩が跳ね、ゆっくりと頭が持ち上がる。前髪の隙間から覗く目が、不安げに揺れる。
「あ、悪い意味じゃないよ。佐倉くんはいつまでも正人の背中を追ってるような人じゃない。佐倉くんのためにも、正人のためにも、2人は離れたほうがいい」
自分に言い聞かせるように語った名前の言葉に、佐倉は息を呑む。
ずっと憧れて、目標としてきた背中が目の前に見えない。それは不安であり期待であった。しかし視線をずらせば王城がいる。水に垂らした絵の具のように、名前の言葉が胸の内に広がる。

細められた名前の目が、水面に映る月のようにゆらゆらと揺れている。
同じようなプレーをし、同じようにカバディを楽しんでも、名前の視線の先にいるのは自分ではない。王城なのだ。

佐倉はもう一度深く頭を下げる。
それは謝罪ではなく、感謝だった。

「へへ、佐倉くんはかわいいなあ」
下げられた頭をわしゃわしゃと両手で撫でると、佐倉はゆっくりと顔を上げた。眉を下げ、苦笑いを浮かべている。
「名前さんって近所のおばちゃんみたいっすよね!」
「何それ! 褒めてないよね!?」
「いやいや! 褒めてますよ? 気さくだなあって」
「気さくさではヒロには勝てないけどね」
名前と右藤と佐倉は3人でケラケラと笑い合う。大会前のこの時期に佐倉と話せて良かった。この一週間の合宿で王城との関係も変わるだろう。
それでも、数年のブランクを感じさせないこの関係がずっと続くことを、名前は願う。


夕食を終えた後、王城は部長会議、他の者は風呂や自主練など各々の時間をすごしていた。
能京に充てられた部屋はチクタクという秒針の音と、時折遠慮がちに絹ずれの音がするだけだ。
名前はチラリと前に目線を上げる。
真顔でノートを見つめる井浦の顔は真剣そのものだ。前髪から覗くシャープな眉は難しげにひそめられている。
「……いいデータが取れたな」
「うん……」
名前も視線を井浦からスコアデータの紙に移す。能京は去年と比べると人数も増えたし一人ひとりの力も強くなった。

しかし、全国への壁は高い。

それを実感できたことも収穫の一つだ。
井浦と名前は同時に深い息を吐き顔を上げた。お互いの顔には疲労が滲んでいる。データとにらめっこして今後のことなどあれこれと考えていたら集中して頭が重くなるのも当然だ。
「慶もお風呂行ってきなよ」
井浦を促しながら腕を前に投げ出し、ぐでんと机に突っ伏す。名前もデータ取りに集中していて頭が重い。瞼を閉じるとすぐに眠ってしまいそうだ。
「お前、風呂はどうするんだ」
「みんなが入ったあとだよ。だから慶にも早くお風呂に入ってほしいの」
まさか名前一人のためにもう一つの浴場に湯を張るわけにもいかず、掃除のことを考えてもそれは躊躇われる。そういうわけで名前はみんなが入ったあとのお風呂に入ることにしたのだ。
井浦は納得したように頷き、いつものように意地の悪い笑みを浮かべた。
「一緒に入るか」
思わず身体を起こし目を見開く。ニヤリと口角を上げている井浦に目を向けるも、井浦の様子は普段と変わらないように見える。
「……大丈夫?」
井浦は本当の感情を表情に出さない。ほとんどポーカーフェイスを貫き通している。だからこそ今も、余裕のある笑みを浮かべているが内心かなり疲れているのだと判断した。井浦はこんな冗談を言う人ではない。
「おい、真面目に返すなよ」
「だって慶がそんなこと言うの珍しくて……疲れてるのかなって」
遠慮がちに井浦を盗み見ると、全てを見透かすような双眸がばちりとぶつかる。

「な、なに……」
思わず感じた居心地の悪さに視線を逸らす。しかしこちらに向けられる瞳が逸らされることはない。じっと名前の伏せられた睫毛を見たまま井浦が薄い唇を開く。
「人の心配をしてる場合か?」
紡がれた言葉にギクリと肩を揺らす。
「え、なに……なんのこと」
はははと乾いた笑みを漏らすも、井浦の顔にいつもの笑みはない。剥き出しの名前の心は井浦の真剣な眼差しで抉られる。
「いつまでも曖昧なお前らを見てる俺の気持ちにもなれよ」
棘のある口調に思わず顔を上げた。しかし井浦の表情はいつもと変わらない。いつもと同じ、薄っすらと笑みを浮かべたあの顔。

怒っている。
私が曖昧だから? いつまでもうじうじとしているから?

名前は硬く口を閉ざす。名前だってこのままでいいだなんて思っていない。でも、心が弱いのは否定のしようがない。どうしようもなく臆病で、ずるい心。
何も言い返せずただ唇を引き結ぶ名前を前にして井浦は目を閉じる。一瞬だけ顔を下げて、また真っ直ぐに名前の目を見つめた。その顔は優しく綻んでいる。
「正人のためにも、俺のためにも、お前のためにも」
それは長い付き合いの名前でも見たことのない表情だった。眉をハの字にして優しく笑う井浦を呆然と見つめる。

「慶……」
「よし、風呂行ってくるわ」
名前の言葉を遮って立ち上がった井浦は、視線を合わせることなく部屋を出ていった。





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