目を凝らしても目の前に広がる景色は闇ばかりで、そこには黒以外の色が存在していなかった。一度確かめるようにイヴェールは目を瞑る。開く。それでも暗闇であることは変わらない。盲目になってしまったのかとまず自分を疑った。景色が色を忘れてしまったのではないかと次に世界を疑った。手のひらで顔を撫でて、確かに此処に居ることを確認する。視力が働かないのか色の無い場所に閉じ込められたのかは知らないが、それだけでいとも簡単に己の存在も疑ってしまうらしい。イヴェールは自嘲した。
手を伸ばして手探りで出口を探す。少しも歩いていないのに、こつんと爪が冷たい壁に触れた。そのまま歩を進めてみると、この壁が自分を囲むように円を描いているのが分かった。出口は無い。爪が当たったときの音、触ったときに感じた冷たさにこの壁が一面硝子で出来ていることが何となく分かった。瓶のようなものかもしれない。だとしたら、出口は上にあるはずだ。出ることが不可能なら、硝子を割れば良い。

「その硝子は強固だから、例え鉄を用いたとしても割れないぜ」

心を読み取ったのか、声が笑って言う。それはイヴェールにとって聞き慣れた声。反射的に振り向いて姿を探した。たとえ全て闇だったとしても、イヴェールはその声の場所を知っていた。先程この壁に触れながら此処が瓶のようなものだと確かめた。瓶を一周しながら結論を見つける作業の中、その何処にも声は居なかった。ならば、周りではなく、中心に。

「当たり」

抱き締めるようにして名前を呼ぶと、ローランサンが笑った気配がした。

「賢いな」

「今更だろう」

「それもそうだ。ならイヴェール、此処から出るべきか否かも考えてくれよ」

「お前も閉じ込められたのか」

「少し違う。閉じ込めて貰ったんだ」

ローランサンはそこで少し黙って、イヴェールの手を取ると壁の方へと連れていく。壁を数回叩いて、音を聞いていた。その後再び訪れた静けさは、彼が出口を見上げていたからかもしれない。

「イヴェールは此処が何処だか分かるか?」

「それが一番の疑問なんだが」

「分からないだろ。でも、分からなくても、此処が安全だってことは分かる」

それは確かにそうなのかもしれない。不便なのは闇だけで、此処にはローランサンがいる。ローランサンにとっても自分がいる。だから闇という空間で精神が異常になることはまずない。それに彼が言ったとおりこの硝子が強固なのだとしたら、外からの外敵も防げるはずだ。

「でも、もしかしたら外は水の中なのかもしれない。砂地に埋もれているかもしれない。遥か天空から地面に落下している最中なのかもしれない。けれどいくら外が危険な状況に晒されていようが、此処は決して割れない硝子が有る限り安全だ。それでもイヴェールは此処から出たいか?」

「………」

「出口はコルク栓だ。出ようと思えば出られる」

「出たら…どうなる?」

「それは俺にも分からない。水が流れてくるかもしれないし、砂で埋もれるかもしれない。出た瞬間地面に叩きつけられるかもしれない。本当は何もなくて、外も安全なのかもしれない」

ローランサンの口はいつも以上に良く動く。暗闇で音もない世界だから、どちらかが喋ることを止めた瞬間置き去りにされたような静寂が訪れる。それが恐ろしいのかもしれない。先程から彼の言葉は確信のない例え話ばかりだ。確信出来るのはこの中が安全だと言うことだけ。外が危険だと一体誰が決め付けたのだろう。
そこでイヴェールはまた一つ疑った。手を伸ばして、慎重にローランサンに触れてみる。髪の細さ、頬の体温、腕の筋肉、手の大きさ、全てを確かめるように触れていき、目の前に居るのが本当にローランサンなのかを疑った。

「俺だよ」

「ああ、そうだな」

間違いなく相方のローランサンだ。でもイヴェールは知っている。本来なら彼はこんなことを口にせず、勝手に外を安全だと決め付けて栓を開けてしまうと。
これは本当にローランサンなのか。彼に似た別の人間ではないのか。

「イヴェールが言いたいことは何となく分かるけど、俺はローランサン以外の何者でもねぇよ」

「………だって、あいつは…」

そう呟いて、自分が何を言いたいのか分からなくなって口を閉ざした。外は危険だと決め付けて暗闇の安全を選ぶローランサンに向かって、お前には怖いものは無いのだろうと、そう返すつもりだったのだ。閉じ込められることを望むローランサンは、本物ではないはずだった。けれど彼にだって恐怖はある。それを知って何故恐怖が無いと決め付けた?
自分は何の違和感に囚われている?全く意味が分からなかった。闇にいると本物と偽物の区別さえも付けられない。

「…暗闇だと…本当に誰だか分からないな…」

「?」

考えた末、イヴェールは苦笑した。ローランサンが不思議そうにこちらを眺めているのが何となく気配で分かる。

「もし光がお前の容姿を映してくれれば、それだけでお前がローランサンだと確信できるのに」

「………俺には、お前がイヴェールだって分かるぜ」

「そうなのか?それは凄いな。俺は自分が本当にイヴェールなのか疑っているよ」

「……、」

目の前に手のひらを持っていき視線を落とす。それでも両の眼球は己の手を認識しようとしない。感覚はあるのに実感がなく、どうして疑わずに居られるだろう。
だから、此処に居てはいけない気がした。
例え外が危険だとしても、内に居るのが自分なのかローランサンなのか認識出来なければ、強固な硝子も意味の無いただの壊れやすい硝子だ。守ってもらう意味など無い。

「だから俺は外を選ぶ」

そう紡げば、ローランサンが息を飲んだ音がした。動揺に空気が震える。

「死ぬかもしれないんだぞ」

「構わない」

「俺も死ぬかもしれない」

「それでも俺は此処から出なければ」

「…っイヴェール!!」

そこで初めて彼は声を荒げた。歩き始めた足に縋るように抱きつき、力を込める。まるで、行かないでくれと懇願するように。俺を置いていくなと泣いているようだ。イヴェールは眉をしかめて一度ローランサンを振り返る。苦笑に似た表情を作るが、足は止めなかった。

違うだろ、ローランサン。お前なら、俺が置いていく前に一人で勝手に行っちまうじゃねぇか。置いていくな、なんて今まで一度も言われたことが無い。むしろ俺が叫ぶ立場だったんだ。

「……そうか、ローランサン」

イヴェールは歩を止めて、ローランサンの髪を撫でた。何処までも相方に似ている偽物のローランサン。本物なのかもしれないが、イヴェールにはもうどちらでも良かった。

「お前は、知るのが怖かったのか」

此処が暗闇であることも安全であることもきっとそういう理由だ。知らなければ、外が危険だろうが安全だろうが関係ない。逆に知るために外に出たらどんな痛みに襲われるか分からない。彼はそれを恐れていたのだ。

さて、俺はどうするべきだったのだろうか。




ローランサンの偽物を見たよ、と話せば彼はあからさまに顔をしかめた。コルク栓をしっかりと閉めた空の瓶を指先で転がしながらイヴェールは微笑む。

「どんな夢だよ。俺じゃなかったのか」

「さあ、ローランサンなのかもしれないな。でも本物にしてはあまりにも、」

「………あまりにも?」

イヴェールはそこで言葉を止め、ローランサンをじっと眺める。夢の中と変わらない声で話す彼は偽物と全く変わらなかったけれど、その姿が見えるから偽物かだなんて疑わなかった。ローランサンはローランサンだ。気持ち悪そうに身を捩る彼に、イヴェールは苦笑した。

「……いや、もしかしたら本物なのかも」

「何だよそれ」

「お前は素直じゃないから、夢の中のローランサンが焦れて本心を見せてくれたのかもしれない」

そう紡げば、ローランサンはきょとんと首を傾げて眉をしかめる。

「……そこで焦れる時点で偽物だろ」

そう返してくるから、そうかもなと笑った。結局答えは出そうに無かったので考えることを放棄する。瓶を立てて、つんと叩いてみた。ほら、危険だから中に居ないと危ないぞともう空になった中身に意味もなく話し掛ける。暗闇なら知ることは無いのだろうけど、それはやはり寂しいものがある。安全圏から抜け出せない腰抜けめ、と笑った。瓶の中にいて偽物は安堵したかもしれないけど、俺は不安しか残らなかったよ。

「ローランサン」

「ん」

「知ることが怖くなったら言えよ」

「…は?」

瓶を見つめながらイヴェールは呟く。中にローランサンは居ない。お前が閉じこもると暗くて偽物か本物か分からなくなるんだよ、と説明するが、ローランサンはますます眉間に皺を寄せるだけだった。

「分からなくなる前に俺が連れ出すことにするよ」

俺はあの後きっとローランサンの手を引くべきだったのかもしれない。しかし偽物は置き去りにしてきてしまったので、代わりに本物の手を握ってやることにした。

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