確かにね。
人は過去から今に至る過程において一瞬で目に見える変化をしない。今ふと昔を思い出したら違和感を覚える。忘却している。または進化している。きっとそういうものなんだ。僕はたまに思う、人は本当に変化が必要な生き物なのかって。生まれた瞬間から今まで自分という定義がはっきりしていたら人はこんなにも困惑したり苦悩したりしないと思わないかい?でもおそらくそれ自体が人間を定義付けるものであるんだ。
そう考えると、ノアはやっぱり人間を逸脱している。永遠を手にいれるってどういう事だか分かる?成長しないってことだ。彼は変化を忘却してしまった生き物なんだよ。

僕は何気に施設が好きだった。掃いて捨てるような人間がたくさん閉じ込められるような空間が息苦しいなんて思っていた時期もあったけどさ。思春期は仕方ないよね。
僕はそこの屋上にある、段差の下の影が出来ている部分を勝手に自分の縄張りにしていた。施設の人間にはやることが嫌味なくらい完璧に決まっていてね、好きな時間に外に出ることは許されなかったんだ。でもその空間は屋上の隅っこにあったから入り口から死角になっててさ、見回りに来る修道女も気付かなかった。勿論見付かったらお尻を叩かれる勢いで叱られていたと思うよ?でもね、僕はその縄張りを手放せなかった。何故だか分かる?自分のテリトリーを作って、少しでも日常から離れたかったか…もしくは単純に、施設の規則に逆らいたかったからか。今となってはどうでもいいけど、あれは幼少時代から未来永劫続くと思われた僕の環境を変化させる切っ掛けだったんだ。ノアを父とし友を同類と呼んだ、あの世界からの逸脱だった。
ああ魅力的だったさ。何せ自分の知らない景色が目の前いっぱいに広がって、森の隙間から稀に白い鳥が一斉に群がって飛び立ち、地平線へと消えていくんだ。その向こうにはきっと町があっただろう、城があっただろう、海を見渡せただろう。想像力を掻き立てられたんだ。行きたいと願うのは自然なことだった。まだその時の僕はノアが唯一神のようだったし――ああ、これはあくまで喩えだけれどね――願望を抱いてもノアの懐を抜け出したいと願う強い力にはなり得なかった。さっき言った通り、これは些細な切っ掛けなのさ。

ある日ひっそりとイリアを自分の世界に招き入れたんだ。僕が仄かに彼女に恋心を抱いていたか、あるいは一番親しい友人が彼女だったからか。とにかく、秘密を共有したいという思春期特有の可愛らしい思いつきだった。彼女は首を縦に振って着いてきてくれた。ノアに逆らうかもしれないという懸念は彼女には一抹も無かった。ただ純粋に綺麗な場所を求めていたんだろうね。断られたり、軽蔑されたらどうしようという僕の心配は杞憂だった。
素敵な場所だろう?君はきっと外に出る時間が短いのだから、たまにこうして遊びに来ると良い。僕は確かそう言って彼女と約束を取り付けた。そうだね、この瞬間から僕のテリトリーは自分の欲望を満たす空間になったんだ。

それから数週間くらいかな。イリアと二人でその空間に居たんだけど、修道女に呼ばれる時間だからと彼女は一人で屋上から出ていったんだ。いつもは一人で満足していた居場所だったんだけど、彼女が消えた途端に一人でそこにいるのがつまらなくなった。だから僕も帰ろうとしたんだ。あまり遅くなると修道女に見つかるからね。
それで屋上の扉を開けて施設の中に入ろうとしたとき、僕は驚いて悲鳴をあげかけた。何があったと思う?ノアが、屋上の扉の前に立ってたんだよ!何も言わずに僕を見下ろして、ふいに死角になっている段差に視線をやったんだ。それでさすがに気づいた。バレたんだ、あの場所が。イリアは何も疑問を持たずにノアに挨拶して横を通って行っただろう…彼女は罪を犯している自覚は無かったからね。でも僕にはあった。施設の規則を破ったことと、イリアをそこに連れ込んだことだ。
でもね、彼は僕に何も言わなかった。ただ黙視していた。何があったかその回転の早い脳内では結論が出ていた筈なのに、ノアは見て見ぬ振りをしたんだ。仮にも僕は黒の神子を外に連れ出した悪人だというのに。
あの時ノアが何を考えていたのか分からない。でもきっとあれからまだ屋上に入れたことを考えると、本当に何事も無かったかのように見逃してくれたんだ。完璧を求めている人が些細だけれども確かにある欠陥を眺めるだけで終わらせたんだよ。
そんな出来事があってから僕は一度あの空間を手放してしまおうかと考えたんだけど、イリアが行きたい行きたいってせがむからやっぱり手放せなかった。ああこれじゃあ言い訳みたいに聞こえるか。うん、僕は自分の欲望に逆らえなかった。イリアを見るとどうしても足が動いてしまうんだ。病気だね。


僕はあの場所に通い続けた。イリアも通い続けた。その間に色々なことがあったよ。戦争も起きたし、反乱もあった。唯一神の信仰も揺らぎだして、この施設の思想も価値観も真っ二つに割れ始めた。ノアの逸脱した人間性に着いていける人が居なくなっていたんだ。僕は、おそらくその先頭に居た。
あんなにノアを頼って生きていたのに不思議だよね、幼い頃は彼が世界のすべてだったのに。きっとね、これが僕の変化なんだ。もしかしたら生まれた瞬間からこうなる運命だったのかな。ほら、そう思うと変化なんていらないものだろ?僕はそうやって自分を死に追い込んでるんだから。

でもね。ねえ聴いといてよ。僕だけが変わったんじゃないんだよ。

施設を抜け出した人間が続出していた時期、僕は自分の身の振り方について考えていた。その時ふと思ったんだ、あの場所に行こうって。きっとあそこは何一つ変わってなんか居ないから僕を落ち着かせてくれる筈だ。だから久々だけど、屋上に行こうって思った。

そう思ってたんだ。

行ったら、なぁ、あそこ閉まってたんだよ。屋上の前の扉にしっかりと鍵が掛かっていて、どうしても開けられなかった。元から鍵穴なんて無かった場所にだよ?それで気づいたんだ。ノアだ。ノアが閉めたんだって。施設に手をつけることを許可出来るのは彼しか居ないからね。此処は確かルキウスとイリアが密かに出入りしていた場所だ、怪しい、閉めておけって感じかな。まああの人の考えていることを理解出来た試しがないけど。

一時期は見逃してくれたのにどうしてだろう。これはきっとノアに起こった最初で最後の変化なんだろうね。僕はそれに気付いてるよ。ノアは気付いているのかな。

完璧であるべきの彼の世界に修正が加わって、改めてそこに閉じ込められた僕は考えた。自由か平穏か終焉か永遠か…あらゆる選択肢のカードを並べて、ひとつだけ取ったその結論はこれだよ。彼に喧嘩を売ってみた、その結論がこれ。


長々と話を聴いてくれてありがとうね、白鴉。面倒だったと思うけど、僕はなんとなく君には知ってほしかったんだ。ノアのことやこの長くて醜い戦争の動機。先頭を走る人間が何を考えているのかとかさ。
気が向いたら誰かにまた話してみてよ。みんな一笑に付すのだろうけど、きっとこの話は予言書に書かれていないから。君が語り継いでくれるかな。そうしていつか僕の娘に、僕が当時何を思って生きていたのか伝わってくれたら良いのにって、そう思うよ。

僕にはもう屋上の秘密の場所は必要無くなった。あの景色を見ることもないだろう。でもノアがまだ屋上の鍵を持っていてくれてたら良いなあ。いつかノアの手で鍵がまた外されることを夢見ているよ。鍵が外されて、誰かが屋上に出られることをずっと夢見てる。

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