朝が訪れることのない宵闇の森の中で青年は指揮棒を振り、または自らも歌い、月夜の狂気に踊らされた可哀想な愛しい婦人たちを胸に掻き抱いて眠りから醒ます。青年の冷たい屍人の手は何時だって誘惑に満ち溢れていた。愛を知らないその唇で愛を語り、そっと耳に復讐をと囁く。甘美な果実を口にしたことで朽ちていった婦人たちは、再度手渡された林檎も躊躇なく食べてしまう。純粋で疑うことを知らない彼女たちの無垢さを、彼は何処かで懐かしく思った。そしていとおしいと思った。時代の惨劇に巻き込まれ息絶えるしか道が無かった彼女たちをどうして救わないでいられるだろうか。自分の足で覚束無く歩く幼子の手を、誰かがそっと握って導いてやる必要があるのだ。決して払い除けていいものではない。彼女たちはただ純粋であったのだ。目の前に差し出された林檎を、甘いと信じて疑わなかった。それだけなのだ。

時々メルヒェンは、自分の存在を悪魔のようだと思いながらも、もしかしたら天使ではないのかと思うこともあった。彼は指揮棒を手に取りながら、地位と金に溺れ存在を見失っていく愚かな人間をたくさん見てきた。彼らの目線の先には神を通して何があるのだろう。ああしたい、こうしたいと溢れる欲が神の存在を支配して入れ代わっているだけではないか。豊作であろうがそうでなかろうが、喘ぐのは下の人間だけであって、奪う分は代わりはしない。多少の変化はあれど命に関わることはない。おめでたい人間だ。安定とは恐ろしい。神をまともに信じない人間にろくな者は居ない。その足場を支えているのは誰なのか。その安定の下に何れ程の数の屍の多層菓子が積み上がっているか彼らは知らない。気付いていない。見て見ぬ振りをする。
足場になって踏みつけられているひとつの命に、メルヒェンは焔を灯してやる。彼にとって屍人姫一人一人が可哀想な同胞だ。冷たい涙で頬を濡らしそのまま固まった身体をメルヒェンは抱き締める。伝わってくる憎しみや悲しみを全身で受け止めてやる。彼には、彼女たちの地獄の炎に骨を焼かれるような苦しみが理解出来た。そして彼女たちが彼の指揮棒で復讐を唄う時、彼もまたひとつ救われる気持ちになる。殺意を唄うお人形を傍らに彼女たちの望んだ結末を眺めるとき、何とも言えない心地よい感覚が胸に触れてくる。これは愛かもしれないと彼は思った。この穢れた腐った時代の中でも愛は芽生える。愛は彼女たちを、時代を救うことが出来るらしい。この衝動が愛であったのなら、復讐とはなるほど甘美な果実にも成り得るのだ。

メルヒェンはよく丸く切り取られた空を見上げる。白い鳥が風に逆らって飛ぶのをじっと目を逸らさずに眺める。摂理に従って生きることが生き物の宿命なのだと神は言う。だが、メルヒェンはそうでない世界を夢見ていた。互いに愛を分かち合う世界を理想だと信じ続けた。生前のように、ただ純粋に。
そして彼は今夜も指揮棒を振るう。


悲しみに濡れた婦人の手を取って愛を囁く行為を、天使がラッパを吹くようだとメルヒェンは思っていた。だが復讐を囁くその声は蛇の誘惑でしか無かった。その先に理想郷も楽園も見当たらなかった。嗚呼、その蛇も元は神に堕とされ摂理に逆らった天使である。林檎には毒を入れた心算は無く、甘く甘くした筈なのに、彼が与えたのは愛ではなく毒だった。連鎖していく負の感情、まさにそのものだった。
ただ、青年は純粋であった。生前の時から全く変わらず、どこまでも純粋であった。それだけなのだ。



―――
無垢の罪

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -