私は暇があれば庭中駆け巡って、味わうように鼻から空気を吸うの。美しい世界をおいしく味わうのは、なにも口だけのお仕事ではないんだよ。私の場合大抵は炊事洗濯で忙しくて、あまりそうやって遊んでられなかったけれど。
こんな話を聞いたことがある?人間の五感の中でも嗅覚が一番正確に記憶を想起出来て、それで一番情動的なんだって。つまり目で見ていたり耳で聴いていたものよりも、懐かしい匂いが一番印象に残るんだよ。言われてみれば納得でしょう?何にも考えて居ないときでも、ふと嗅いだ匂いが昔の情景をそのまま映し出したりするよね。
でも匂いは刹那的で、匂い自体は思い出そうとして思い出せるものじゃない。懐かしい匂いに包まれたと思ったら、すぐに消えてしまう。私はそれが本当に嫌だった。

幼い頃Vatiはいつも私を隣に呼んで、頭を撫でながら絵本を読んでくれた。たまには抱き締めてもくれた。重くなったな、なんて苦笑しながら温かい手で包み込んでくれるその匂いは日だまりの中に居るみたいだった。Vatiが居なくなった後も私はあの匂いを探すために家中のものの匂いを嗅ぎまわったの。見つかって継母にたくさん怒られたし、義妹にお腹を抱えて笑われた。なんて間抜けな子なの!とも言われたよ。でもVatiの匂いは私にしか分からないのだから、他の誰かに何を言われたって私はVati探しを止めなかった。

Vatiってね、日だまりみたいだけれど、少し水の匂いがするの。ただの水じゃなくて、潮の匂いだよ。私は航海士ってお仕事がどんなものなのか、その匂いでなんとなくだけど分かったの。この辺りには川しかないけれど、もっともっと深くて広いのが海なんだってね。Vatiは海が大好きで、絵本の内容は殆どが真っ青に塗られていた。でもどの絵本も綺麗な色だったから、海はもっときっと素敵な色なんだろうね。私は行ったことがないから分からないけれど、素敵なところね。だってVatiの好きな場所だもの。Vatiが好きなものは私も大好きって最初から決めているんだよ。

古い紙を見つけたらうんと吸い込んで、私の横で何かを真剣に読んでいたVatiの横顔を思い出す。薔薇の花を見つけたらうんと吸い込んで、私の誕生日プレゼントに小さな可愛い薔薇を手渡してくれたVatiの優しい笑顔を思い出す。幼い頃の記憶をもっと鮮明にするために、Vatiが残してくれたものを全部嗅いでみたんだ。古いものは継母が殆ど捨ててしまって、Vatiのものはもう私の髪を結わいているリボンしか残っていない。そのリボンもぼろぼろで汚くなってしまっているけれど、継母は私の格好についてだけは新しくしなさいとは言わないからこのままにしている。だって、これを無くしたらもう目の前にあの温かさが蘇らないかもしれないじゃない。それは怖い。Vatiを忘れるなんてことは出来ない。私の唯一の宝物なんだから。



ゆらりと蠢いた影は、死神なのかな。

『君は本当に低脳だな』

頭に直接語りかけるように低い声が鳴り響く。影があってじんわりと染み込むような声は心地よかった。少しVatiの声に似ている気がしたけれど、私の目の前に居る青年は真っ黒で、Vatiの金髪とは似ても似つかなかった。緩やかな声の持ち主は、Vatiに似た声で、私を叱るように語りかけてくる。

『井戸に落ちた者の結末は、君なら良く知っていただろうに』

知っていたよ。知っていたから飛び込んだんだよ。ねえ、Vatiに似ている声の人。私の話も聞いてほしいな。
私はあの井戸が大嫌い。井戸はVatiを私から引き離したものだったから。どうしてVatiが井戸に落ちて死んだのかは知らないけれど、私は井戸の方からVatiに飛び込むように誘ったのだと思う。でなければ落ちる理由がないんだもの。だから私の中で井戸はサタンよりも酷い悪魔なんだよ。その悪魔の隣でお仕事なんて冗談じゃない。
でも継母は容赦しなかった。私が嫌がると気付いたら、わざと井戸の横で仕事をさせるようにしたの。私は嫌だって言ったけど、頬を強く叩かれたくなかったから仕方なくその通りにした。
あの井戸はいつもカビの匂いがした。Vatiが井戸で死んだのなら匂いを残してくれても良いのに、Vatiが死んだ井戸は別の井戸だからかな、くさい匂いしかしなくてそれがまるで私を嘲笑っているみたいで本当に嫌だった。
だから、糸巻きを落とした時もまたあのカビくさい匂いを嗅がなければならないって凄く後悔したの。

『それで、カビの匂いはしたのかい?』

ううん、しなかった!

『では何の匂いかな』

水の匂いだった。それもいつもの腐った匂いじゃなくて、もっと新鮮な、そう潮の匂いだったの。
私はあちこちでVatiの匂いを追いかけ回していたけれど、潮の匂いだけはとうとうたどりつくことは出来なかった。だってこの近くには海がないんだから。でも井戸はそのときだけ潮の匂いがして、私はすぐにVatiのことを思い出した。それは今まで私がたどり着くことが出来なかった、目の前に居ると錯覚してしまうくらい明確なVatiの姿だった。だから実は井戸の底にVatiが居て、たまたま糸巻きが欲しくて私に手渡してくれって言っているんだと思ったんだ。

『で、飛び込んだ?』

すぐには飛び込まなかったけどね。でも継母に叱られてからは、もう勢いだったよ。

『では、君は彼らに復讐したいかい?』

私はさっき井戸は悪魔だって言ったよね。あれ、本当なんでしょう?もしかしたらVatiもああやって誘われたのかな。私見事に釣られちゃった。
ねえあなた、私は多分後悔はしていないと思う。あの継母や義妹から逃げられたからね。でもやっぱり悔しいよ。Vatiは何処にも居ないのに、これじゃあ私の落ち損じゃない。
もう二度と会えないと言うのなら、復讐の代わりにこの悲しみを唄う。あなたがこれを復讐だと言うのならそれでもいい。やれることならなんだってするよ。知ってる?一番の恐怖はね、やることを無くして独りだということを思い出すことだよ。だから何かを始める時、私はいつもこう言うの。
頑張るよVati、いつだって!ってね!

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