気付けば、何をするにもいつも〈父親〉を基準に考えていた。直接関わることが少なくても、彼を思考に入れないと何かが崩れてしまいそうな不安が襲ってくるのだ。
施設の中で生活することを苦に思わないのはそこに〈父親〉も共に居るからであり、友達という存在も彼に近い子供から準々に出来ていった。
何があろうとも此処で一生を終えると、幼いながら誓っていたのだろう。だから彼が望むどんな苦痛にも耐えることが出来た。

「……と成功…が、…」

ぼんやりとした意識の中で聞き慣れた声が耳を擦り抜けていく。重い瞼を開けば、黒い法衣を身に纏った男が目に入った。
硬い床に横たわっていると気付いたが、身体の所々が自分のものではない感覚で支配されまともに動かすことさえ出来ない。
悲鳴に似た嗚咽が傍で聞こえて、視線だけ動かせばイリアが真っ赤な顔でこちらを見つめていた。

「良かった…!ルキウス、目が覚めた…」

「そう、耐えられたのね。これで黒の神子にも近い存在になれたわ」

イリアの傍らに立つ見覚えのない女性にルキウスは首を傾げた。漆黒の髪とドレスに紅い瞳。隣にいるイリアと対象になるように作られたような女性だった。

「貴女は…」

「ワタシはクロニカ。初めまして教団の坊や。ワタシが見えるということは、ノアの目に狂いは無かったということかしら」

「だろうな。イリア、ルキウスを起こしてやれ」

ノアの声も耳に入らず、クロニカと名乗る女に少年は目を見開いた。
見える?この女性は自らを三次元上の人間ではないというのか。
イリアには初めからその存在が分かるらしく、ルキウスが首を傾げていることに関して何の疑問も持たないようだった。
彼女がルキウスの身体を支えると、ノアはその背後に回って彼の質素な服を捲り上げた。

「ふむ、まだ完全な成功とは言い難いな。後光が弱いのか、産毛しか生えておらん」

「十分よ。彼が青年になるころには大きな翼になっているわ。純白の羽…まるで白鴉ね」

「それは予知か」

「憶測よ」

「…ふん、まあお前が言った通り、こいつは将来神子さえも超す能力を得るやもしれん。お前にはまだ傍に居てもらわないとな、ルキウス」

大きな大人の手が白い髪を撫でる。法衣の中に優しい眼差しを見つけて、ルキウスは疲れた身体が癒されていくのを感じた。
硬くなった右手で何とか自分の背中をなぞると、小さな柔らかいものに触れる。これがノアの言う翼の産毛らしい。
こういう実験は、昔から何度も繰り返された。彼だけではなく、他にもたくさんの子供が被験体にされたと聞く。そのたびに何人もが犠牲になっていることも知っていた。
それでもルキウスが此処から逃げようとしなかったのは、逃げられないからではない。
実験の間は観測者と被験体という関係なのが、実験が成功すると父親と息子という関係に戻る。苦痛に耐えた後に甘やかしてくれるノアの手がルキウスは大好きだった。



あの頃は何も知らなかった。彼には人の心が宿っているのだと、何の疑いもなく信じていた。
小さな願いは気付けば反感に押し潰され、ガタガタに崩れ落ちてしまった。
手にしているものは剣と少女しか残っていない。いつまでも傍にいたいと思っていた父親の面影はどこにも無かった。それはノアが変わったからではない。ルキウスを渦巻く環境と知識が彼を変えただけ。それだけなのに、幼い思い出が虚しく変わってしまった。
法衣を脱ぎ捨てた格好でルキウスは背を向けているノアの傍へと近づいた。
愛しくて尊敬していた父親の背中。成長すれば追い付けるものだと思っていたのに、どうしてこんなにも遠く感じてしまうのだろう。
ノアには、明日イリアを連れて此処を去ると宣言した。
それは逃げるためではない。真っ正面から立ち向かうという宣戦布告。
いずれ反乱分子が黒の神子を求めてルキウスたちの周りに付くことになるだろうから、立派な反逆だ。その覚悟を、彼はノアに伝えるためにドアを叩いた。

「お前の翼はもいでしまった方が良かったかもな。そんなにも空に焦がれたか」

「ボクに翼を下さったのは貴方だろう。羽ばたける空があるのなら、ボクはそこを求めますよ」

「………」

感情の籠もっていない低音が室内を支配する。その声に応えると沈黙が返ってきた。無理矢理引き止めるということはしないらしい。
ルキウスは静かに礼をするとその場所を去った。今度彼の顔を見ることがあるのだとしたら、それは死に際だ。
黒と白。対象した存在は侵食されることはあっても交わることはない。そんな簡単なことがどうしてこの年になるまで分からなかったのか。
どうしても彼に追い付きたかった。その間にある壁を壊して彼に触れたかった。
しかしそれはきっとこの先も許されない行為なのだろう。ノアもルキウスも、目の前のことに抗ってばかりの不器用な存在だ。
―――でも、もし許されるのなら、最期に会うときは、気晴らしにでもこの翼をもげばいい。


(そうすればボクは、貴方の傍に閉じ込められることしか選択肢がなくなるのだから)

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