雲一つない大空を美しい翼を広げて飛ぶ白鴉。何処までも何処までも風に乗って気持ち良さそうに飛んでいくものだから、きっとあの生き物はなにものにも縛られずに生きていけるのだと信じていた。追い付きたくて、時には木に登って手を伸ばしたり、家の近くの広い草むらを走って追い掛けた。上ばかり見て走るから足元が留守になるのも当然で、石に足をぶつけて転ぶことも多々あった。その度に泣きじゃくる自分を、妹はいつも慰めてくれていた。

「エレフはきっと、凄く強い騎士様になるんだよ」

転んで血が出た膝を泉の水で洗ってくれながら、ミーシャは笑った。涙を止めるのに精一杯だった僕はその前に紡がれた慰めの言葉さえ一つも耳を掠めなかったのに、その台詞だけは今も思い出せる。よほど印象が強かったのだろう。

「…どうして?騎士様は泣かないって父さんは言ってたよ」

お転婆だった妹に比べて泣き虫だった僕は何かあればすぐに泣いていたから、父はよく僕にそう言ってからかった。聞かせてくれた話の主人公に憧れていた僕はそれを聞いて涙を我慢しようと目を見張るのだけれど、それでもどうしてかポロポロと涙は零れてくるもので、僕は父のようにはなれないとその頃は思っていた。

「騎士様も子供の頃は泣き虫なんだよ。大人の分の涙を使い果たすの」

「…そんなことないよ。頑張って我慢しようとしても、僕の涙は出てくるもん」

「それはエレフがまだ子供だってことでしよ。大人になったら、かっこよくなるんだから」

まるで自分のことのように自慢気に話すミーシャに嬉しくなって、そうなったらいいね、と笑った。多分彼女は、いつまでも泣き続ける僕を慰めるためにそう言ったのだろうけど、その頃は純粋に将来に思いを馳せて、輝かしい未来に希望を抱いていた。小さな子供だからこその夢。ミーシャが水面に移る月を手に入れる日が訪れるように、彼女が教えてくれた僕の願い事も叶う日が来るのだと信じていた。現実を知った後も、彼女は願っているのだろうか。離ればなれになった片割れは今もこの月を見ながら、同じことを考えているのだろうか。

現実は何処までも遠く。でもあの日の出来事はとても近い。今でも僕は君を感じている。


「……少し泉へ行ってきます。お師匠は此処で休んでいて下さい」

旅をする事になって随分と経つ。今も世話になっている詩人にエレフはそう声を掛けると、過去家であった場所を後にした。子供の頃、何よりも幸せを感じていた場所。手を伸ばしても追い付けなかったほど背が高かった両親は今は小さな墓に埋められている。懐かしい故郷に帰ってきたが、迎えくれる人間は誰一人としていなかった。唯一生きている妹も嵐に連れ去られたまま何処かへ行ってしまった。今は何をしているのかさえ知らない。しかし彼女にだけはいつかは会えると確信していた。片割れだからか、今も彼女の鼓動を背中越しで聴いている。あの音は忘れもしない。


満月が綺麗な夜。
底まで透けている泉はあの頃と変わらぬまま僕を迎えた。両親にさえ教えていない二人だけの秘密の場所。此処で水を掛け合ったり、水浴びをしたりもした。夜には星や月が泉いっぱいに溢れていてとても美しかった。その水面に移る月を手に入れようと手を伸ばす少女。なんて絵になる光景だったのだろう。そして今にも落ちそうになる妹に僕は不安になりながら見守っているのだ。

「…ねぇ、綺麗な月だよ、ミーシャ。君はこれを手に入れて月の女神にでもなろうとしたのかい?」

水面に手を入れると月が揺れる。いつか彼女は手に入れるのだろう、僕が見ている傍で、きっと。

「君が教えてくれた僕の願いもいつか叶うかな。父様や母様が死んだと知ったときは少し泣いたけど、最近は少しずつ泣かないようになったんだよ」

今度君に逢えたときだけ嬉しくて泣くかもしれないけど、それを最後にして君の言うかっこいい騎士になれたらいいなって思う。

「必ず捜し出すよ。さよなら言ってないだろ」

ただ時は満ちて考え方は随分と大人になったけれど、今も昔も想っているものは何一つ変わっていないのだろう。今でも感じている片割れの温もり。またあの過去が訪れるようにとただ月に願う。

白鴉が女神に堕とされるとも知らずに。
運命が抗えるものではないことも信じずに。


「必ず…必ず、迎えに行くから、どうか…僕のことを待ってて、ミーシャ」


―――

(時は満ち、やがて少年は少女が愛した月に吼えるだろう)
 
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