ローランサンは農耕民族の血を受け継いでいながら、遊牧民のような生活をしていた。遠い遠い話へ遡れば、先祖は確かに定住していなかったかもしれない。しかし彼にはもうその血は残っていなかったし、同類である周りの人間たちも、自分の家を建ててそこで家族を作って養って生活していた。そんな環境の中で育っていながら彼が定住することを選ばなかったのは、一番に仕事の都合が挙げられる。だが、それは切っ掛けに過ぎない。そう一概に言えない理由が、彼にはあった。
彼が生まれた場所は、北方に存在した。他国との領土争いによく巻き込まれる国で、歴史の中で何回言語が変わったか知れない。ローランサンが生まれた当時は、南方と良く似た言語が話されていた。それでも、田舎者の喋り方だと、笑われることが頻繁にあった。彼が一番最初に覚えたのは南方の喋り方だった。
だからこそ、北方生まれだった彼は少し劣等感を持っていたのかもしれない。故郷が焼き尽くされて追い出された後、他国を歩いて大人と変わらない身長に育った彼がその場所に新しく家を建てようとしなかったのは、それが小さな理由だった。彼は南方の住人が少ない村に家を建てた。そこを帰る場所にしようと決めた。北方に帰る気にはならなかった。しかしそれでも、折角家を建てても、彼は帰らないことの方が圧倒的に多かった。

数年ぶりに彼が自宅へ帰った時、部屋は埃まみれになっていた。彼は相方を自分の家に招き入れて、二人で一緒に掃除をした。南方にしては乾燥しやすい地域だからか、虫や雑草の住みかにはなっていなかった。ローランサンは自分の家に入った時、まるで他人の家に邪魔しているようだと、静かに思った。この家に思い出は無かった。年単位で留守にしている家に金目の物は置けないので、部屋の中には何もない。過去のローランサンが残していったものは、そこには何もなかった。ローランサンはそれを寂しいとは思わなかったし、当然だと思っていた。しかしイヴェールはそうは思わなかったらしい。彼がこの部屋に訪れたのも久々だった。初めてではなく、数回は招き入れている気がする。彼は家に足を踏み入れた時、一番最初にやったことはぐるりと辺りを見渡すことだった。

「相変わらず、此処は寂しいな」

ぽつりとこぼすように言ったその言葉に、ああ寂しいものなのかと、ローランサンは無表情のまま心の中で思った。

その日、イヴェールとローランサンは別々の場所で眠った。ローランサンは自宅に置きっぱなしにしていたシングルのベッドで横になり、イヴェールは椅子に座って眠った。宿に居るときは二人で狭いベッドに眠ることは珍しくなかったが、ローランサンの家でそうすりことが少し気恥ずかしかったのかもしれない。イヴェールが何も言い出さないので、ローランサンも何も言わずに数年ぶりの自分のベッドで目を閉じた。そのベッドにも、やはり思い出は無かった。


ベッドを引き取らないかという話が持ち上がったのは、次の日のことだった。
ローランサンが戻ってきたことに気付いたのだろう。気前のよさそうな女の人が、家まで態々訪ねに来た。

「ダブルベッド?」

「そう。あげるよ。私のとこ、新しいの買うつもりだからさ」

「なんでまた」

「家族が増えるの」

彼女は嬉しそうにお腹を撫でた。ああ、とイヴェールは納得する。次いでローランサンを見ると、今気付いたようにはっとして彼女を見た。

「おめでとう」

驚いた表情のまま言葉を紡げば、彼女は嬉しそうに微笑んで礼を言った。ローランサンは、彼女がお腹を撫でた理由を静かに考えた。家族が増えること。だから、新しいベッドが必要なのだと、そんな当たり前のことがローランサンには真新しく思えた。彼には家族は居なかったし、ベッドを買い換える必要も無かった。今まで宿に行けば、見知らぬ誰かが使ったベッドがあった。それが当然だと認識していた。

「ねぇ、また帰ってこないつもりなの?捨てるつもりのベッドだから、使わなくても良いから貰ってよ。それに、ローランサンも家族が出来たら必要でしょ」

半ば押し切られるようにして、ローランサンは了承した。ベッドが広くなろうが狭くなろうが、彼にはあまり関心が無かった。今まで使っていたベッドにだって、抱く思い出はひとつも無い。

ベッドは殆どローランサンが一人で運んだ。イヴェールも運ぶのを手伝うためにベッドの端を掴んで持ち上げはしたのだが、ローランサンの腕力があっさりとベッドの重心を持っていってしまったので、彼は支えるだけ支えて後はついていくだけだった。ドアをなんとか潜り抜けて、既にシングルベッドを取っ払った部屋にダブルベッドを置く。広くはない部屋が、また一段と狭くなった。新しいベッドはとても大きく、ローランサンの家が本格的寝るためだけの場所になってしまった気がした。
ローランサンはベッドに寝転がる。先程まで近くに住む女が使っていたベッドだ。ローランサンはこういう他人の物を良く借りることが多い生活をしていたから、このベッドを招き入れた時も、新しい家具が増えた程度にしか思わなかった。はずだった。寝転がったベッドからは、生活の匂いがした。ひとつの場所に定住する人間たちが、当たり前のように使って、その痕跡が染み込んだ匂いだ。このベッドは毎晩彼女を寝かせていただろうし、恋に泣く彼女を受け止めてもいただろうし、彼女が愛する人と一緒に過ごすのを温かくして守ってやってもいたのだろう。ローランサンはそんな生活を知らない。知りたいとは思わない。でも、羨ましくないわけでは無かった。その幸福に溺れるのが酷く怖かった。

ローランサンは定住しない。あちこちを動き回り、知らない土地で寝泊まりし、見たこともない人間から仕事を貰ったり、何かを奪ったりする。盗賊が定住したら、足元を見られてしまうからだ。ローランサンは自分の家の周りでは仕事をしない。この住民は少なからず彼のことを知ってしまっているから、できるはずがなかった。
この周辺の国はひとつの街に建てられる家は皆同じような外見をしていて、パッと見ただけでは何れが自分の家なのか分からない構造をしている。だからこの国の人たちは自分の家の番号を覚える。玄関のドアに刻まれている数字は、誰もがしっかりと自分の記憶にしまいこんでいる。ローランサンが自分の家に対して記憶しているのは、その番号だけだった。家の中身については、実際に中に入らないと思い出せない。
彼がそこまで家に執着しようとしないのは仕事の為だ。しかしそれは切っ掛けに過ぎない。切っ掛けと原因は全く別の概念だ。本当の理由は、恐怖感からだった。彼は思い出を作ることを酷く躊躇った。幼い頃、故郷という思い出を尽く焼き払われたからだ。ローランサンはあそこで何もかも失った。遊び場も、帰る場所も、優しい友人も、家族と呼べる人も。家族になってほしいと微笑んだ少女も。

それを寂しいことだと認識したのは、イヴェールの言葉のせいだったかもしれないし、女の幸せそうな笑顔のせいだったかもしれない。いや、本当は寂しいことだと知っていた。知っていたけれど、見てみぬ振りをしていた。自分の中の傷を抉りたくなかった。
ローランサンはベッドで静かに涙を流す。このベッドがもし、帰る場所になったらどれほど幸せだろう。誰かの生活が染み付いたベッドなら、自分の手探りの定住生活も見守ってくれるのではないのか。そう思った。

「盗賊をやめたら、俺は此処に住むことが出来るかな」

ぽつりと落とした独り言は、イヴェールにも届いたらしかった。イヴェールはただ黙ってローランサンを見つめていた。否定はしてこないが、肯定もしない。複雑な表情をして涙を流すローランサンをみおろしていた。もしかしたら彼は「似合わないよ」と言いたかったのかもしれない。しかしそう言えばローランサンがもっと顔を歪ませるのを知っていて、だから黙っていた。

盗賊を止めたら畑でも作ろうか。培ってきた腕力はおそらく自然相手に十分発揮出来るだろう。米を作るのはまだ経験が足らないから、穀物や野菜がいい。それでも最初のうちは、他の仕事もしないと生きていけないだろう。でもいつかは、そこで、家族が出来て幸せになれるのかもしれない。
ローランサンは苦笑した。そんなことをしたら、復讐なんてすぐに忘れてしまう。あり得ない事態に笑うしかなかった。ローランサンにはそれはもう、あり得ないことだった。
遊牧民が定住出来るのは、自分の文化を捨て、相手と同化する勇気があったからだ。アイデンティティーを喪失する覚悟を持っていたからだ。ローランサンには、その勇気も覚悟もない。それだけの話だった。


その夜、ローランサンとイヴェールは二人でダブルベッドで丸まるようにして眠った。家族が出来たらこんな感じなのかと、ローランサンは空いた胸が少し塞がる感覚がした。その夜以来、二人はもう彼の家で一緒に同じベッドで眠ることはない。しかしそのベッドには、たった一つ思い出が染み付くことになった。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -