サンイヴェ/現代パロ

愛用していた車が故障して、満員電車に揺られながら帰ってきたから体はもうくたくた。朝も通勤ラッシュで人混みと格闘。もう春も半ば、貴重だった暑さも今では有り難くもなんともない。むさ苦しいのは大嫌いだ。これだから車を買ったというのに、嗚呼。
平日の朝も大嫌いだ。代わり映えしない退屈で忙しい一日が始まるのだから。金と明日を生きるために今日も元気に今を空洞化。俺たちは一体何処へ向かって働いているのだろう。とまることなく走り続けることに見いだせる意義は一体なんだ?上手にたくさん勉強をして上手に良い大学に入って上手に就職して上手に死んで上手に墓に入るのだろうか。馬鹿馬鹿しい。でも、その馬鹿馬鹿しいことを俺たちはみんなやってる。スピードが早い現代では、今のこの瞬間を見ることが出来なくなっているのだ。分かっているところで、ちっぽけな人間が歴史を変えられるわけもなく。時間を上手に使えない奴が時間が短いことに文句を言うとどこかの理想家が謳うが、今の時代上手くても上手くなくても誰だって嘆くものだ。小さなことで時間がもっとあれば良いと願う。例えば俺の場合、朝もっと恋人と一緒に居られる時間があればいいのに、とか。

「ってめぇ、いつから勝手に人の家に上がり込んで……ああああ何人のワインセラー開けてるんだよ!!!」

「あ、ローランサン。おかえりー」

「ただいま…じゃねぇ!!うわ、ご丁寧に高いものから順番に開けやがって…!楽しみにしてたんだぞ!」

「お前の帰りが遅いのが悪い」

でないと恋人が暴走する。主に俺の家で、俺に被害が被るように。
部屋に灯りが灯っているうえに鍵まで開いていて、驚いて中に入るとイヴェールが床の上で丸くなっていた。ああこいつに鍵なんて渡すんじゃなかったと後悔しても遅い。俺のお気に入りは全てこいつの胃袋の中に納まっている。テーブルの上には空になった瓶と一緒に、冷蔵庫から勝手に持ち出したのだろう、つまみも乱雑に散らばっていた。死ねば良いのに。
寝転がっているイヴェールの腹を爪先でつついて起こさせる。酔いすぎだと眉を寄せたら、彼はこちらの背中に腕を回して抱きついてきた。どうせ酔うなら可愛い酔い方をしろと説教しようと思っていたが、意外と結構可愛かった。悔しいが合格点。

「居座ってるんなら、疲れた旦那さまのために夕食くらい作っといておくれよ」

「食べてきたんだろ」

「え、分かるんだ」

「煙草と香水の匂い」

「それは満員電車で帰ってきたから、匂いが移ったんだよ。言っておくけど女の人と一緒に居たわけじゃねーからな」

「信じられるか。ローランサンなんて嫌いだ」

「言ってることやってること違うんだけどな、イヴェール」

ぎゅううと抱きつく力を強めながら嫌い嫌いと喚かれても、ああ酔っているなとしか思えないわけでして。不貞腐れてしまったイヴェールの髪を撫でながらどうしたもんかと考える。彼が怒っている理由ははっきりしていて、俺が構ってやれないからだ。イヴェールが勝手に俺の家に上がり込むのは初めての事ではない。彼は大抵金曜日に俺の家に訪れる。明日が休日なら少しは時間をのんびりと過ごすことが出来るからだ。泊まることを前提に酒にも手を出すのだから、こちら側としては誘われているんだろうなと考える。そんな気があるのかないのかは知らないが、せっかく週一の楽しみを仕事なんかに奪われてしまったのだからイヴェールの機嫌が悪いことも理解出来無くはない。理解はしている。しかし社会が俺に寛容なわけもなく、イヴェールを怒らせてしまうことは逃れられない結果だった。こういうときに、時間があれば良いのにと嘆く。時計を見ればもう真夜中で、これから何かをする気にもなれなかった。イヴェールを抱えながらじわじわとあふれてくる疲労感を弄ぶ。

「イヴェールは風呂入った?」

「来る前に入ってきた」

「じゃあもう寝な。遅いから今日は泊まっていけ」

「………う―……」

「イヴェール。ほら、でっかい赤ん坊」

頑なに動こうとしないイヴェールの足と背中を支えてお姫様抱っこをすると、疲れた体を叱咤しながらソファーに移動した。あーとかうーとか呻いているイヴェールも、俺が抱いている間は静かにしている。不意に首に腕が回ってきて、ソファーにたどり着くときには密着されていた。動けない。仕方なくその体制のまま腰を下ろすと、膝に乗っているイヴェールが口を小さく開いた。

「枕草子」

「…は?」

「中学生のとき習わなかった?枕草子。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて…」

「紫だちたる…、ってやつ?なんで今それなんだよ」

酔っていて寝呆けていてもすらすらと随筆を紡いでみせたイヴェールに感心する。枕草子なんて久々に聞いたが、意図が分からず首を傾げる。

「清少納言は春の季節をずーっと観察して、その中で春は日の出前が一番良いって気付いたんだ。朝から夜まで空を眺めて比べてないとそんなこと分かりっこない。ましてや日の出前なんて」

「…はあ」

「そこから分かることはなんだと思う、ローランサン?」

「……暇なんだな」

「そう、そうだ。暇なんだ。時間がたっぷりあったんだよ、昔にはね」

昔には、とイヴェールは強調する。俺は会話の内容より彼から時間という言葉が出てきたことに驚いていた。まさか思考回路まで似ているとは。同じコトを考えて、時間がもっとあれば良いと彼も嘆いていたのだろうか。右往左往していた目線がこちらを見つめたときのイヴェールの表情は、朝彼に行ってきますと伝えたときと同じ寂しがりやの顔だった。

「…だから俺は文明開化と資本主義を一生呪ってやる……」

「恐ろしいこと言うなよ。俺はそれよりお前のことを呪いたいんだがな、イヴェール」

「え?」

「酒。楽しみにしていたのにどうしてくれる」

口の端を吊り上げると、イヴェールは赤かった顔を青くした。おかしい、ちゃんと微笑んだはずなのに。遠慮がちに覗いてくる二つの色の瞳に吹き出しそうになった。一つは動揺、もう一つは不安。呆れられたとか嫌いになってしまったとか、そんなことを考えているのなら杞憂だよと囁いてやっても良かったが、酒を飲まれた俺の怒りは納まりそうにないから言ってやらない。安心なんてさせてやらない。そのつもりだったのに揺れる波の中で最終的に何を考えたのか、イヴェールはぐっと息を飲んだ。

「じゃあ…か、からだで払う…」

そう紡いだものだから、驚いて声も出なかった。酒の入ったイヴェールは開放的というか素直というか。正直面倒くさいが可愛くもある。いつもにはない彼の戸惑いに今度こそ俺は吹き出した。よし分かったそこまで言うなら頂こうじゃありませんか。
ソファーから立ち上がり、イヴェールの手を引いて寝室まで運ぶ。酒の片付けはまた明日。なんせ時間はまた降ってくるんだから。直線的を価値とする思想に洗脳された俺たちの、ほんの少しの寄り道。イヴェールにはもう嫌だというくらい、俺という存在を教え込んでやろう。

平日の朝は大嫌いだ。夢から現実に戻る一番退屈で忙しい時間だから。ベッドの中で蹲り不貞腐れるイヴェールの頬に行ってきますのキスをして、時計を気にしながら仕事場まで駆け出す。車が故障した最近は満員電車に揺られながら通勤する。イヴェールの匂いもその中で交じって掻き消されて、夜中の行為も、きっと、なかったことになる。それも杞憂だと彼が言ってくれたなら少しは楽だけど、イヴェールも俺と一緒で意地悪だから難しい。

時間なんて止まって溶け込んで無くなってしまえば良いのに。待ち焦がれて不貞腐れるイヴェールはきっと籠の中のお姫様。通ってくるのは臆病者。限られた時間の中でふたりひっそり直線から外れて立ち止まる。

それを永遠だと錯覚できるのなら、少しは時間に感謝してやっても良いのだが。
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