海に行きたい、とローランサンは呟いた。ならば浴槽に塩を入れれば良いと投げ遣りに返したのは俺。本を読んでいる途中だったから会話をするのが面倒だったのだ。ローランサンは猫みたいに気紛れな男なので、欲しいやりたいという願望は一時期を過ぎればすぐに消えてしまう。今回もそれの類いかと思っていたのだ。しかしローランサンの戯れ言はその後1週間続き二週目に突入しそうだったので、ああもう仕方ないなあと俺の方が折れた。海に出るには西に向かわなければならない。旅費も馬鹿にならないというのに無茶を言う。といっても幸い現在地点はそこまで海から遠くなかった。川は近くになかったので、馬車で数日掛けて移動するべきだと二人の意見が一致した。それなりに栄えている街を跨ぐため獣道を走ることはないと思ったのだが、それは断定出来ないとローランサンは呟いた。一度行ったことがあるらしい。街が栄えていても一歩外に出れば自然に征服されているのだと。ローランサンは知識には疎いけれど旅に慣れているため地理には詳しいので、彼が首を捻るなら楽な道程ではないのかもしれない。それでも言いだしたのはローランサンだ。出来るだけ楽で、かつ賊が出没しない安全な道をテーブルに広げた地図上から導き出した。



「ほんの東の方の国は、海を知らないらしい」

ガタガタと激しく揺れる馬車の中で俺はローランサンに話し掛けた。海を見たいと呟いた彼の真意を知りたいわけではなかったけれど、話題探しをしていたら昔賢者に教えてもらったことを思い出した。少し左を見れば隣に先祖が海賊の島国があり、南には水と共存している透けるような白い国、右には地中海。この国は陸続きではあるものの海が割と近くにあった。子供向けの絵本にも青々とした海が広がっている。
でも、それを知らない国もあるのだと。半ば信じられなかった。だって、人間は海と共存する生き物だと思っていたから。

「なんでだ?」

「見る機会が無いからだろう。フランスには海に面している土地があるけど、周りが地面ばかりの国もあるから」

「へぇ」

「そりゃ…貿易するには海が必要だから、知ってるやつは知ってる。でも、土地から一生出ないやつだっているから、そういうのは知らないだろう。海の色が何色かさえも分からないんだって」

「ピンクだって答えるのか?」

「緑と答えるんじゃないか。周りの自然は殆どが緑だから」

行ったことはないから分からないけど、想像する。海の無い世界ってどんなものなのだろう。
ローランサンは暫く頬杖をついて黙っていたけれど、ふと俺を視界に映した。ちらりと視線を向けて、間の距離を僅かに埋める。

「イヴェールって、海をどう思ってる?」

「どうって?」

「海は嵐とか津波とか、人の命を奪う脅威でもあるけど、遠い国から宝物を届けてくれる道筋でもあるだろ」

その言葉にきょとんと首を傾げる。尋ねてくる意図があまりよく分からなかったけど、その例題の中に彼の答えを見つけた気がした。自然の脅威。宝物を届けてくれる道筋。ローランサンが選ぶとしたら後者だろう。海は彼が生きるための道筋のひとつだ。海を渡ってきた宝物は良い値で売れたりするから、盗賊をやっているローランサンはよく貴族の屋敷から異国のものを頂いてきていたりする。遠い東の国や異教徒の国、分析をして場所を言い当てて、何処で売るべきか模索する。そういう作業を通しているからローランサンは無知にはならない。感覚で物事を覚えて厳しい世界を生き抜いていく。そんな彼にとって海は飯を与えてくれる父親かもしれない。生きることを教えてくれた優しい親だろう。
では俺はどう思っているのか。海は水の集まったもので、自然の恵み。海を渡る冒険野郎ではないのでそこに生き甲斐は見いださないし、ローランサンのように海に感謝したことは少なかった。
俺が海について知っている感覚は、もぐる、つかる、ゆれる、おぼれる。ああ、なんとなくあれに似ている気がする。

「羊水」

「羊水?」

「母親の胎内だよ」

「え?」

意外な答えだったらしくローランは首を傾げた。母親の記憶すらない彼に母親の中身の説明をしたって分からないのだろうけど、俺は知っている。

「母のお腹に居たときのこと朧気に覚えているんだ」

「そういうことあるのか?」

「あるよ。生まれる前の記憶。ゆらゆらあったかいっていう感覚だけだけど」

あと愛されているっていう感覚。喋りだしたばかりの小さい子に尋ねるとたまに返してくれるらしい。大体は大人になる過程で忘れていくものだが、俺は未だに覚えていた。海という水に囲まれた世界なんて、まるで羊水じゃないか。

「…人間って海から作られたかもな」

「神様とか、楽園じゃねーの?」

「海見てると思わない?還りたいって」

「自殺願望?」

「違うけど、なんか、俺は海を母親みたいに思うな」

涙とかだからしょっぱいんじゃないのかなあ?とローランサンに尋ねると、結構真面目な顔で考えて、しばらくして頷いた。還りたいとは思わないけど、そういう風に捉えてもいいかもって笑う。話はここで終わった。


旅に出て数日経っていて、そろそろ目的地に着いてもよい頃合いだった。しばらくして運転手が声を掛けてくれて二人馬車を降りる。街を通り抜けると、船がたくさん見つかった。青い海が一面に広がっていて境界線の向こうへ溶け込んでいる。久しぶりだなとローランサンは呟いた。
石を踏んで海に近づいて、触って舐めるとしょっぱかった。涙と同じ味。ひとの涙を掻き集めたのが海なのか、海が人に涙を分け与えたのか。ローランサンは波と追い駆けっこをしながら、俺に海を見たかった理由を話しだす。

「綺麗に死ぬ方法を探したかったんだ」

俺は目を見張った。

「死にたいのか」

「ううん」

そこはきっぱりと否定する。半ば安堵して、波を追い掛けているローランサンの腕をひっぱった。ぐらりとゆれた彼の体は俺に背を預ける形になる。

「炎に焼かれても骨は残るし、自然に完全には還れない。だからって腐るのはもっとごめんだ。この世から自分の存在を跡形もなく消すにはどうしたら良いか考えてた」

「………だから水葬?」

「ん。海に飛び込むのが一番良いかなって」

「………そう」

「でもやっぱり、冷たそうでやだな」

俺に体重を預けながらローランサンは溜息をついた。俺は疲れたので彼を抱き抱えたまま石の上に座り込む。水と戯れてきた彼の手のひらは確かに冷たかったけれど、理由がたいしたことなくて笑ってしまう。冷たいのは一時的なものだろうに。
ローランサンは、この世に生きていた痕跡を残したくないのだと言う。死体さえなくなってしまえば、彼を憶えている人間もそう居ないし子孫も残していないから簡単に消えるだろう。しかしその場合俺の気持ちはどうなるのだ。ローランサンが居ないことを前提とした世界が未来にあり続けるなんて俺は許せない。世界に残ってなくても、俺には刻まれ続けていれば良いのに。それがいつか枷になろうとも、幸せだと笑ってやろう。

「水葬の案も良いが、お前が死ぬのなら俺が骨まで食べてやるよ」

そう紡いでうなじの汗を舐めるとローランサンの肩が強ばった。汗もしょっぱい。海の味だ。

「そのまま俺が海にどぼん」

「…………名案だな」

驚いた顔をしていたが、彼はすぐに口元をつり上げて笑った。振り返ってそのままキスをする。なぜか口の中だけは甘くて、俺は首を捻った。涙も汗も鼻水もしょっぱいのになぜだろう。人間の体を巡る液体は全て同じ味ではない。口の中は特に甘い。だから人はキスをするのだろうかと考えて、精液の味のところまで到達した時点で面倒になって疑問を放棄した。いつかローランサンが俺の胎内に入るのなら、そして海が墓場になるのなら、二人海に融けて身体中塩の味をさせて、時折交わすキスもきっとしょっぱいだろう。


―――
中世っぽく?母なる海を感覚的に受け取っているイヴェール。
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