(中途半端)

 1519年、エルナン・コルテス率いる11隻の船はタバスコの海岸にて錨を下ろした。マヤ族との間で勃発した戦に、コルテスは馬を用いて完全な勝利を収める。和平の申し出としてタバスコ首長から20人の奴隷女がスペイン兵へ贈られるが、その中で一際美しく、好奇な瞳でコルテスを凝視している女がいた。サンダルを履き、ユカタン風の服を身に纏っていた彼女は、艶やかな長い黒髪と栗色の滑らかな肌、知的な鋭い眼差しを持った非常に美しい女性だった。彼女はキリスト教の洗礼を受ける事で名前を改め、スペイン兵から敬意を籠めてドーニャ・マリーナと呼ばれた。後にマリーナはコルテスの愛人兼通訳として、二つの勢力の狭間に立つ事になる。

 
 船はゆっくりと北へ進む。波を切り裂き飛沫を上げる様子をじっと眺めていた双眸が、ふと檣へと向けられた。鳶色って、ああいう色だったか。丁度檣に寄りかかっていたイドは、交差した瞳の色にそんな感想を抱いた。鳶色の瞳は若干色素が薄く、彼女の様に真っ黒い髪をした女にはあまり見られない色なのだが、彼女だけ例外なのだろうか。それとも、此処の大陸の人間は殆どがそういった要素を受け継いでいるのだろうか。今度上陸したら確かめてみようと、暇潰し程度に軽く考える。
 マリーナはイドに視線を向けたが、直ぐにまた海へと戻した。彼女は舷側に乗上る勢いで上半身を前に倒し、そうかと思えば体を思い切り捻って船尾の方へと視線をずらす。イドはその不可解な行為に疑問を覚えるが、声を掛けるべきか少し悩んだ。声を掛けた所で言葉が通じない。彼女はマヤ語とナワトル語しか話せなかった。アギラールという名の、スペイン語とマヤ語に精通した男が居るが、仕事でもないのにわざわざ呼んでくる気にはならない。

「おい、あまり身を乗り出すと落ちるぞ」

 しかしマリーナが舷側に攀じ上り始めた所でイドは考えを改めた。濡れた板の上を歩いて彼女の元へと歩く。近づいてきた男に彼女は一瞬目を丸くしたが、なんとなく言われている事は分かったのだろう、すぐに足を床に下ろした。それでも何処か落ち着かない様子で海へと視線を送る彼女に、イドは首を傾げる。

「何か見つけたのか?」

 マリーナは理解出来ない言語に眉を顰めた。何かを伝えようと、形の良い唇から言葉を紡ぐが、イドもこれを理解出来ない。やはりアギラールを呼んで来るべきか、とイドは思案する。しかし埒のあかないやり取りに先に痺れを切らせたのは意外にもマリーナの方だった。彼女は必死にイドの服の裾を掴んで引き寄せ、手を伸ばして彼の胸元を飾るロザリオに触れる。次にその指で海の底を指差した。

「…落としたのか」

 イドは目を見開いた。彼女の隣に並んで船尾の方へ視線を向けると、先程船がゆっくりと避けた大きな岩に、きらりと光る物を見つける。成る程それは確かに十字架の形をしたペンダントだった。
 コルテスはマリーナが洗礼を受けた後に、付き添った僧が持っていた礼拝の対象を彼女に分け与えた。原住民でも、肌の色が違っても、この国の人間は差別をしない。神の愛を受け入れているか否かが重要なのだ。コルテスがマリーナに改宗を促したのは、彼女の行く末を想っての事だった。もし彼女達が洗礼を受けず、使い勝手の良い女奴隷としてコルテスに受け入れられていたら、船員達の慰み物として生きて行く事になっただろう。
 マリーナがキリスト教をどう受け止めているのかイドには分からないが、コルテスの真意を理解しているとは思えない。彼女にとって十字架も、男から贈られた物としか認識していないかもしれない。だがイドに縋る彼女の瞳は切実なものだった。取ってほしいと身振りで必死に伝えてくるので、彼はもう一度海へ視線を向ける。運良くロザリオは水の底へと沈んではいないので、距離は遠いが不可能ではないだろう。

「わかったよ」

 イドは溜息をついてマリーナの頭を撫でた。肯定的な意味で捉えたのか、彼女の強張った顔が少し緩む。海に入る為に上着とシャツを脱ぎ捨てたが、床が濡れている事に気づいて、マリーナに服を預かっている様にと身振りで伝えた。目の前で裸になる男に彼女は一切頬を赤らめる事なく、重い服を抱きかかえながらその様子を凝視していた。

「…イド、お前海に入るなら船を止めるように指示しろよ」

「ああ、忘れていた。じゃあ頼むよ、フェルナンド」

 丁度通りかかったコルテスに、イドはにっこりと微笑んで言葉を紡ぐ。コルテスは訝しげな顔でイドとマリーナを順々に眺めたが、何も指摘せずに通り過ぎた。近くを通る暇そうな船員に船の一時停止を命令する。イドはそれを視線で追い掛けた後、梯子を手に舷側に足を掛け、大きな水飛沫を上げて海へと飛び降りた。


2012/09/29 22:17
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