(イドとテレーゼとメルツ)

幼い頃の記憶というのは大体が深淵に沈み容易には思い出せないようになっているが、時折ふと断片的に表に現れる。足下に魚が触れる擽ったさを感じ、私は子供の頃この感触が大嫌いだったなあと思い返した。足が地に着かない浮遊感は不安に繋がり、そこに得体の知れない生き物が通るともう駄目だと泣きわめいたのだ。手のひらの大きさも無い小さな生き物に食われると思っていたのだろうか。記憶に問いかけても答えは返ってこないが、ただただ恐ろしかったのだと、幼い私は訴える。私は小さな化け物に食べられてしまわないようにと、必死に藻掻いて大きな岩にしがみ付いた。ばたつかせても足が砂地を蹴る事は叶わず、滑稽に水を掻き回す。どんなに早く走る足があっても、どんなに難しい問題が解ける頭を持っていても、人は水の中では等しく無力だ。自分の力ではどうにもならない海の中が、幼いながらに大嫌いだった。
だが、そんな私が海に絶望してしまわなかったのは、偏に信頼できる人の存在だった。岩から手を伸ばしても決して届かないが、少し前に進めば触れる事が出来る場所に彼女はいた。近すぎず、遠すぎず、挑戦してみようかと思えるような距離に立つ彼女は、絶対に私を見捨てないと言うように両手を前に広げて待っている。涙か水か判別できないくらい顔を惨めに濡らした私は、赤くなった目で彼女の視線に応えた。今はもうはっきりと思い出せない彼女の柔らかい笑顔を見ると、足下の魚の恐ろしさなど魔法のようにぱっと消え失せてしまうのだ。大丈夫だと自分に言い聞かせる余裕を心の中に生む事が出来る。たとえ途中で力つきても、彼女なら自分を拾い上げてくれる。勇気を出して足で波を蹴り上げて、一気に目的まで体を我武者羅に動かした。
不安に打ち勝つほどの安心感というのは、なかなか手にするのは難しい。絶対的な信頼を私は母以外に感じた事はないのだろう。根気よく私の泳ぎの練習に付き合ってくれた母は私の歳が二桁になる前に死に、それ以降は誰かに自分の身を完全に委ねることはしなくなった。幼子の頃は当たり前に出来ていた事が、大人になった途端に出来なくなってしまうのは不思議なものだった。

「メルツ、こっち」

忘却の彼方へ追い遣っていた幼い頃の記憶を思い出したのは、目の前の親子の戯れが、私と母の思い出と似通っていたからだ。薄い衣服を纏って水の中に入り込んだテレーゼは、あまり深くない場所で足を止めて、浅瀬に佇む息子に向かって手を伸ばす。貴族の女が海の中に入るとは信じられない光景だが、それをあっさりと遣り遂げてしまうのが彼女の面白い所だ。テレーゼの胸辺りまである水の深さは、いとも簡単にメルツの頭を飲み込んでしまうだろう。しかし彼女は優しく微笑んで手を伸ばす。メルツはこわごわと彼女を眺め、ふと透明な水の中に見える魚の群れに肩をびくつかせた。

「ねえ、イド。貴方はそこで見ていてね」

メルツにしっかりと視線を向けながら、彼女は背後に居る私に声を掛ける事を忘れなかった。私が心配して手を貸してしまうと思ったのだろうか。念を押すような言いつけに苦笑して、言われた通りに大人しく二人を眺めた。此処まで来ると私の身長でも肩まで水が浸り、波に流されないように体を支えるのが少し難しくなる。

「ムッティ、ぜったいに手をはなさないで」

「ええ」

「もししずんだら、たすけてね」

「ええ、大丈夫よ」

メルツは何度も確かめる。その度にテレーゼは頷く。広げた腕を、一度も下ろそうとはしなかった。彼女はその行為がメルツの不安を煽ってしまうと知っている。テレーゼが力強く頷いたとき、メルツはぎゅっと目を瞑って水の中に飛び込んだ。体を飲み込む水を掻き分け、ばたばたと足を動かして前へ前へ進む。縋るように伸ばされた小さな手を、テレーゼはしっかりと包み込んだ。

「すごい!すごいじゃない、メルツ!」

幼い体を抱き上げて水の中から救い出し、テレーゼは喜びの声を上げた。母の声に励まされて顔を上げたメルツは照れくさそうに破顔する。

「ムッティ、ぼくおよげた?見てた?」

「ええ。すごくかっこよかったわ」

テレーゼが水に濡れてびしょびしょになった顔を軽く拭ってあげて頬にキスすると、メルツは嬉しそうに彼女に抱きついた。目標を達成した彼は誇らしげで、それはまるで化け物退治から凱旋した勇敢な英雄の様だ。彼女たちの笑顔につられて此方も笑ってしまう。

「さすが私が見込んだ男だなメルツ!君ならば船乗りにだって簡単になってしまうよ」

「ほんとう!?」

「ああ、本物の船乗りが言うんだから間違いなしさ!」

きらきらと瞳を期待に輝かせてメルツは私の方を向いた。テレーゼが余計な事を言うなと言いたげに唇を尖らせたが、船乗りに憧れる子供を海につれてきてしまった時点で彼女も共犯者だ。唇に指を当てて軽く微笑むと、彼女は諦めた様に肩を竦める。

「ムッティ」

そうしたやり取りを大人達の間で交わしていると、メルツが自らを抱きかかえる母を呼んだ。不機嫌な顔を一変させてテレーゼが息子に視線を送ると、彼は内緒話をするように口元に手を添える。テレーゼはその仕草に応えて、メルツの囁きに耳を傾けた。それに「おや、仲間はずれか」と少し残念そうに眉を下げてみせると、メルツは此方をちらりと見て、悪戯を思いついた子供の様に口元を緩ませる。

「おねがい、ムッティ」

息子の内緒話が想像と超えていたのか、テレーゼは少し目を丸くした。思案するように口元に手を当てる。しかし最後にメルツが言葉を紡ぐと、柔らかく目を細めた。それはテレーゼがする肯定の仕草だった。メルツは何のお願いごとをしたのだろう。気になって母子の傍まで泳ごうとする私に、テレーゼは首を振った。

「イドはそこで待っていて」

「なんで君はそう私の場所を固定したがるんだい…」

「イド、そこにいてね」

母子二人に念を押され、諦めて足を止める。嗚呼、波を受ける裸の体が冷たい。テレーゼとメルツが戯れる光景を指を咥えて眺めているのは些か寂しいものだ。ただ二人の内緒話を壊してしまうのは本意では無いため、大人しくお預けされたままでいる。私が動かない事をしっかりと確認したメルツは、振り返って母を見上げた。彼女もその視線に応えて、こくりと大きく頷く。

「「えいっ」」

元気の良い掛け声が空いっぱいに響いたと思ったら、テレーゼの手を離れたメルツが危うい動きで足をばたつかせた。彼は迷い無く距離が開いた私の方に向かって泳ぐ。それは容易に予想出来たはずなのに、唐突の事で頭が真っ白になった。水しぶきを上げて向かってくる小さな体を沈めてしまわないように慌てて足を動かそうとすると、「イド」とテレーゼの咎める声が掛かる。

「ちゃんと待ってあげて」

そう彼女は次いだ。私ははっとして足を止めて、水しぶきに向かって精一杯腕を伸ばす。メルツを見逃してしまわないように視線を一点に絞った。彼は何度か苦しそうに酸素を吸い込み、海中で一気に吐き出す。はらはらしてその状況を見守りながら、大丈夫だと自分に言い聞かせた。
メルツは大丈夫だ。テレーゼがそう判断して、彼を私の元へ送り出したのだ。

「メルツ、こっちだ!」

一生懸命此方へ向かってくるメルツに届く様に声を張り上げる。空中に一瞬顔を出した彼の表情は笑っている様に思えた。軈て、藻掻く様に伸ばされた小さな手のひらを、私は捕まえて外に引っ張り上げる。ぷはっと小さな声を上げて酸素を吸い込んだメルツは、次に私の顔を見てにっこりと笑った。

「イドのとこまでおよげたよ!」

そうして落ちてしまわない様に私の首にしがみ付いてくる。私はその小さな子供をしっかりと抱え上げて、テレーゼの方を見た。情けない顔をしていたのだろうか。私の顔を見た彼女はふ、と息を吐き出す様に笑う。そんな母の反応に、メルツも嬉しそうに手を振ってみせた。

「ね、イドならだいじょうぶだって、言ったでしょ?」

ーー嗚呼そうか、この母子は私を信頼してくれたのか。
メルツの言葉で、漸くそのことに気づいた。胸の中に溢れ返る感情を誤摩化す様にわしゃわしゃとメルツの頭を撫でれば、照れくさそうに見上げてくる。その瞳は先程と同じ様にきらきらと輝き、眩さを少しも失っていなかった。メルツは私が自分を見捨てない事を確信していて、テレーゼもその確信を疑わなかった。私が自らの母にしか寄せる事がなかった感情を、この母子ふたりは家族でも何でも無い私に向けてくれたのだ。それがどんなに喜ばしくて、幸福な事か。この母子の固い絆に触れる事を許された気がして、私は緩む頬を止められなかった。

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