(イド→テレーゼ前提のコル+イド) 

なにか、漠然とした、形容し難い不快感が全身を支配していた。真っ暗に閉ざされた息苦しい空間から這い出ても、明かりなんて見えやしない。四肢を動かす行為が酷く億劫で、動けと命令する脳は常にびりびりと痺れて痛い。辛さに挫けてしまった私は、諦めて早々体中の力を抜いた。
 まだ暗いということは、夜中なのだろうか。何時頃眠りに就いたのか容易には思い出せず、目を閉じて記憶の糸を手繰る。草木が奏でる風の音、馬の蹄、鳥の囀り、石畳ではなく土を踏む私の足音。色の無い光を取り込んで生み出す森のきみどり色、絶妙な光彩。川の匂い、薬草のつんとした匂い。混沌とした五感が最後に思い出すのは、少し高めの温かさをもった人の手の感触。其処まで辿り着くと瞼を開いた。幸福感でいっぱいに詰まった心臓が、少し痛みを訴える。それが何かを私は知っている。知っているから、不快だった。
 何もかも放り出したくなる煩わしさの中、もう一度瞼を閉じて考えるという行為をする。ぼやけた視界を閉ざす。乾ききった唇を舐め、噛んだ。緩慢な動きで、あまり肌触りの良くない毛布を頭まですっぽりと被せれば、きっと全て無い事になる。それでも何処から入り込んだのか、棘に似た凍てつく風が容赦なく肌を舐めていった。私は会いたいなんてこれっぽっちも願っていないのに、彼女の優しい声が耳から離れてくれない。



 人が折角切ない気持ちに浸ってるのに、外の世界を隔てる入り口が派手な音を立てて吹っ飛んだ。

「イードー、お前どういうつもりだァ? 丸々一日部屋に引きこもりやがって、仕事はどうした仕事は」

 扉の前に椅子や机やチェストやら、とりあえず手近にあって重そうなものを積み上げて築いた城壁は、数日と保たずに将軍の手により陥落した。私は無惨に机から転がり落ちた椅子に視線をプレゼントして、其処に大砲も置けば良かったかなと思考する。どちらにしろ動く気力は無かったから意味が無い。思い切り物が崩れた事で舞い上がった埃にコルテスは二三回咳き込んだが、私は毛布という鎧を身に纏っていたからダメージは無かった。

「やぁ、将軍直々のお出迎えとは恐れ入るな。だがいくら将軍でも私とベッドの仲を裂く事は許さん。あと五時間は寝る」

「休息を得られるのは労働義務をこなした奴だけだ。日曜日の午後でもないのにいつまでも寝るな阿呆。今は特に忙しいって言うのに。それにお前、今日は造船所を見せて貰いに行くんじゃ無かったのか」

「…ああ、それは日付をずらした。数日続いた雨で土が泥濘み荷馬車が動き難くなったとかで、それどころではないのだと」

 コルテスが何か言いたげに傷の入った唇を動かしたが、肩を竦めて軽い咳払いをするに留まる。どうやら小言を言う為に訪れた訳ではないらしい。それなりに強固に築いた防壁を破ってまで開城してきた癖に、まともな用事も無いとは低能め…と、返してやりたかったが、余計にコルテスの機嫌を悪化させてしまう気がしたから止めておいた。それにしても一番面倒な奴が来た。もし他の部下が指摘してきたのなら、私は自分の論理の中に杭一つ打てない確固たる根拠を成立させ、簡単に相手を外の世界に誘導することが可能だというのに。そう出来るだけの能力を持っているつもりだが、どうしてかコルテスにだけは通用しない。
 孤独が好きだ。いや、自分のことで精一杯な状態で、他人にまで気を回す余裕が無いだけかもしれない。故に私は孤独を好む。それでも口をきいてしまったのだから相手をしなければならない。未だ立ち上がる気力は無いが、毛布を持ち上げて顔を出した。

「コルテスくんコルテスくん、君は労働をしなくてもいいのかい」

「ベッドの住人には分からないかもしれないが、もう日付を超える時間帯だ」

「成る程、ではワインを強請りに来たのかな」

 酒。そういえばそんなものが此処にはある。良い案かもしれないと、唇に弧を描いた。自然と口調が軽くなる。コルテスの背後を指差すと、彼は黙ったままドアの方に視線を向けた。先程彼が崩した城壁の中の一つにセラー代わりの棚がある。何を選ぶかは彼の嗜好に任せる事にして、私は毛布を巻き付けたまま体を起こした。ベッドの近くに置いた棚の中に入っている、ソムリエナイフを一つ手に取る。コルテスに酒を渡すように促すと、彼は選び出した白ワインを地面に転がした。乱暴な手つきは彼の機嫌を表していたが、拒絶をしてこないということは、先程の予想は図星だったらしい。

「グラスも」

「お前も飲むのか」

「なんだいその質問。私の酒を私が飲まないでどうする」

「…いや。飲み過ぎんなよ」

 笑みを深めてコルテスに応える。保証は出来ないと口で伝えたらまた彼は眉を顰めるだろうから。
 瓶を腿で挟んで、ソムリエナイフで蓋のカバーに切り込みを入れていく。その行為さえ面倒に思えたが、酒が飲めると思えば安いものだ。最近は二人や三人で飲む事が圧倒的に多いが、たまに一人で飲みに行く。テレーゼに食物や薬草を手渡しに行くついでに、とっておきのワインと、ソムリエナイフと、グラスを荷物に忍ばせて。下心を疑われてしまうから、グラスは一つしか使わない。その独特な芳しい匂いに誘われて、白い子供が顔を覗かせるのだ。イドは何を飲んでいるの?と純粋に尋ねてくる声に、彼女は優しく「大人が飲むお薬のようなものよ」と微笑む。

(……何でも、彼女に繋げてしまうんだな)

 ふと我に返って、先程までの思考を打ち消した。此処まで来ると病気だ。何でも彼女と連想させる自分に嫌気が差す。訝しそうに此方を見つめてくるコルテスと視線が交差し、「なんだい」と尋ねると、彼は首を振って視線を逸らした。私も気にしない事にして、スクリューをコルクに真っ直ぐ捩じ込む。ある程度まで貫き、素早く持ち上げると、ポンッと間抜けな音が響いた。


 コルテスがグラスをちまちまと口にしている間に、気づいたら私一人で瓶の中身を空っぽにしていた。新しい瓶を要求する私に、コルテスは不機嫌そうにするものの何も咎めない。先程と同じ様に棚から選び取った瓶を転がす。私が蓋を開ける。飲んでいる内に体が火照ってきたので被っていた毛布をベッドへ追い遣った。
 二人で酒を飲んでいるというのに、目の前の男は何も喋らない。酒を一口舐めてから、私を観察する様に視線を向ける。追究されるのは億劫だが、彼の沈黙は居心地悪い。誤摩化して作った表情の内側を見透かされている気分になる。自棄になって、酒まで取り出して、ふと我に返ってみたら降り掛かる不幸に酔いしれている自分が居た。コルテスから向けられる視線は私への同情であり、憐憫だ。惨めな私に気づきながら、意図的に何も語らず付き合っているのだとしたら、こんなに屈辱的な事は無い。

「イド、俺にもそれくれ」

 新しく取り出されたグラスが、私の目の前の床に置かれた。まだ彼は飲み終わってないグラスを右手で弄っている。

「それを飲み終わってからにし給え」

「お前が全部飲んじまいそうだから」

 「頼む」と、短く言われ、投げ遣りにグラスを引っ掴んだ。とくとくとグラスに注がれるのは熟成した琥珀色。高いやつだと反射的に思う。何か良いものを食べる時に一緒に飲もうと思っていたとっておきの代物だが、何処か霧掛かった脳は、グラスに躊躇なく注ぐ右手を咎めない。酔っているなと客観的に思った。普段ならあと数本開けても自我を失う事は無いのに、どうして今日に限って酔いの回りが早いのだろう。本来酒を開けたのはそれが目的だった筈だ。だが、何処か冷静に私を眺めるコルテスに気づくと、意地でも理性を保とうと躍起になっていた。嗚呼、もしこの場にこいつがいなければ、私は思い切り泣けたのだろう。
 迫り上ってくる涙は愛情の裏返しだ。好きだと、愛していると自覚した瞬間、この感情の行き場が何処にも無いことに気づいた。遣る瀬ない私は、彼女の知らない場所で涙を流す事しか出来ない。何食わぬ顔で彼女へ会いに行く自分が、どうしようもなく滑稽に思えた。

「…イド」

 名前を呼ばれて顔を上げると、深刻な表情で私を見つめているコルテスと目が合った。彼の表情から、自分が酷く間抜けな顔をしていることを自覚する。何も分かっていない癖に、何もかも承知しているような表情で眺められるのが一番腹立たしい。仕事の怠惰を咎められた方がまだましだった。もし彼が私の中に燻っている感情を察し、慰める為に私の部屋へ訪れたのなら。胸の中にふつふつと熱いものが湧いてきて隠しもせずに舌打ちした。此処でワインを手で弾き、床中にぶちまけたら少しはすっきりするのかもしれない。しかし彼の同情の目線が私の行動を阻む。
 顔を伏せ、コルテスの顔を視界から追い出した。嗚呼もう、君の心中なんか心の底から知るものか。此処に来た事を後悔すれば良いと、意趣返しに自嘲で歪んだ唇を開く。

「…なぁコルテス、私はいつまで親切な人を演じ続ければいい」

「………」

「メルツの目が治った時に気づいた。私はどうしようもなく彼女が好きだ。出来るなら彼女が背負う苦しみや痛みを、私が代わりに背負ってやりたいと心から願うくらいには想っている。だが、彼女は絶対に私に泣いている姿を見せない。彼女が抱く猜疑心が私からの愛を拒む。どうして気づいてしまったのだろう。気づいた瞬間に失恋だ」

 ワインを片手で回して一気に煽る。どろりと喉を通る液体は負の感情。熱がじわじわと喉を焼いていく。
 テレーゼの弱さにつけ込みたいわけでは無いが、私は泣いている彼女を助けたかったのだと思う。しかし彼女は笑って私を出迎える。他愛無い会話はいつだって重要な部分が抜けたまま。それはきっと彼女なりの『心配しないで』というやつで、関わって欲しくないという優しい拒絶だ。求められない愛なら捨ててしまえば良いのに、こうして後悔して自棄になって酒を飲みながら、また会いにいってしまう私が居る。間抜けに突っ立って彼女の懇願を待つ。

「聞いて損しただろう。他人の愚痴なんか聞いてもなにも楽しくないよな。ざまあみろ」

 一通り吐き出すと落ち着いて、伏せていた顔を上げた。口の端を持ち上げて笑う。コルテスの表情は、先程と全く変わっていない。

「俺に聞かれて良かったのか」

「知るか」

 静かに告げられた言葉に、適当な返答が見当たらなかった。此処まで来るともうどうでもいい。いつものように軽口を叩く余裕も無くなって、無性に目の前の男に苛立った。
 高いワインは苦みが勝って、どんなに煽っても美味しくはならない。私の底なしのやりきれない鬱憤の味がする。たとえ不味くなったワインを故意に床にぶちまけても、コルテスは怒らないだろう。仕方ないなと一言呟いて、綺麗に拭ってくれるのだろう。私はそれに、どうしようもなく腹が立つ。




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