何処に行ったのか分からない。会えるだろうか。否、会わなければならない。柄にもなく動悸が激しい。胸の中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸する。喉が乾いて仕方なかった。頭の整理がきちんと出来ていないのか、それとも緊張しているのか。
童話を、昔テレーゼに童話を聞かせたことがあった。町娘が子供の頃から当たり前の様に知っている童話をテレーゼは驚くほど何にも知らなくて、ならばとメルツも一緒に話して聞かせていた。少年が冒険話を好むなら、乙女は夢物語を好むものだ。メルツは船での出来事に胸を踊らせていたが、テレーゼはどちらかといえば童話の続きを聞きたがっていた。一夜毎に話の内容を変えなければならないのが大変で、だがとても楽しかったのを覚えている。嗚呼、そういえばメルの名前も童話だ。
風に誘われるまま、家の合間を通って丘に上がった。町を見下ろす高さにある丘は、空に近く風が強い。まとめた髪がバラけないように手で押さえながら草を踏んで歩いた。白く染まった家と青い海が、此処からは良く見える。ぽつんと立った大きな樹の枝の上にメルは居た。泣き腫らした真っ赤な顔を袖でぐしぐしと拭っている。

「君の名前は、メルヒェン・フォン・ルードヴィングか」

私は自分が今どんな顔をしているか分からない。メルは怯えた様な表情で袖の間から此方を覗き、こくりと頷いた。

「君は、私とテレーゼの子なんだな」

メルはまたこくりと頷く。疑惑が確信に変わり、唇を噛み締めた。胸の奥で心臓が大きく音を立てる。メルははらはらと涙を溢しながら、私を見て口を開いた。謝罪だろうか。私が欲しいのは謝罪ではない。首を横に振って彼の言葉を止めると、樹の根元に歩み寄って真上を見上げた。
嘘は嫌いだが、真実を知るというのは、とても覚悟が要る。

「テレーゼとメルツは?」

「…ずっと前に死んだ」

私は強張っていた肩から力を抜いた。やはりそうか。メルが一人で此処に来ているのだから、その答えは予想範囲内だ。分かっていたが胸の痛みは収まらない。血が全身に駆け巡っているように感じるのに、指先は酷く冷たい。

「母上は魔女として火刑に処され、メルツは井戸に落ちて死んだ。僕は丁度、母上に頼まれた食物を取りに森へ行っていて、帰ったら母上もメルツも追手も皆家に居なかった」

ぽつりぽつりとメルは話す。私はそれをただ頷いて聞いていた。聞くことしか出来なかった。脳は聴覚しか働くことを許さず、ただメルの言葉を頭の中で繰り返す。その言葉が意味を成すのにかなり時間が必要だった。

メルはそれから家でずっと二人の帰りを待っていたのだという。最初は二人で患者の元に行ったのかと軽く考えて、教会の塔の中でずっと一人で。一時間二時間、1日2日経っても二人は戻ることなく、心配になって絶対に行くなとテレーゼに念を押された町へ出た。其処で、テレーゼが火刑に処せられたことを知った。だとしたらメルツも無事ではないだろうが、せめて遺体だけでもと町中、森中探し回った。数日経って漸く少年の遺体を見つけた。涸れ掛けた井戸の水に浸って、横たわっていた。

「イドと会うつもりは無かった。遠くから、見るだけで良かったんだ。母上を魔女じゃなくて、人間として愛してくれた人が存在することを確かめたかった」

メルはテレーゼと同じ黒い睫毛を伏せる。先程からずっと泣いていたのか、睫毛を雫石が濡らしていた。

「…でも僕だって。僕だって、イドと話してみたかった」

「…メル」

「だってイドのことを話す母上は凄く楽しそうだったから。きっとイドは楽しいことをいっぱい知っているんだって。哀しかったり寂しかったりする時どうすれば良いか、イドは知ってるんでしょう…?」

声変わりしきれていない声は、微かな音で苦痛を訴えてくる。言葉が次第に熱を帯びて、またポロポロと涙が地面に落ちた。自分の袖を強く握って白くなってしまった指先は、この幼い少年の心情を切実に叫んでいるのだろう。もし私がテレーゼの火刑をその目で見ていたら、きっと狂って群衆を一人残らず殺そうと暴れまわっていたかもしれない。彼は今までその小さな体で何れ程の苦痛に耐え、たくさんのことを考えてきたのか。そんな彼に私が一体何をしてやれるのだろう。好きな女一人幸せに出来ず泣かせてしまった私に、一体何が。

「…我が儘なことだと分かっているんだ。でも、僕はイドと一緒に居たい」

彼が漸くの思いで口にした音は酷く震えていて、私はその言葉にどう答えるべきか迷った。

「…私で、良いのか」

間抜けなくらい弱々しい返事に、メルはこくこくと何度も頷く。

「イドが良い。イドが良いんだ」

私は、メルの言うような大層な存在ではない。哀しみや寂しさを和らげる方法なんて全く知らない。別れたあの日からずっと寂しかったし、何度も後悔した。コルテスと話しているときでも、女を口説いているときでも、海を泳いでいるときでも、前触れもなくふとテレーゼのことを思い出して辛かった。幾年も経った今でも尚忘れられない。母の話から私の面影を抱き、幼い体で異国まで旅をするメルの方が私より断然強かに見えた。私が彼の正体を見抜けなくても、ずっと他人の振りをしていたのだろう。その決意の強さは間違いなく母親譲りだ。
枝に足を引っ掻けてぐっと体を持ち上げて樹を上る。ミシリと枝が音を立てたのは聞かなかったことにしてメルに近付いた。私が突然上ってきたのに驚いたのかメルの肩がぴくりと動く。細い枝に足を掛けて、メルの座る場所へと体を伸ばした。彼のリボンが外れた肩まで掛かる黒髪に、青い薔薇が飾ってある。私の視線に気付いてメルは伏せていた顔を上げた。

「…母上は、ずっと薔薇付けてたよ」

「そうか…」

「イドがあげたんだよね?」

「きちんと手渡すことは出来なかったけどな」

「…今でもムッティのこと好き?」

おそるおそる紡がれた言葉に、おそらくこの少年はずっと前からそれを私に訊きたかったのだろうと思った。私は戸惑った。その言葉は彼女を前にしても口にすることは出来なかった。迷って迷って、結局今も喉に詰まったままだ。彼女を大切にしたかっただけなのに何もかも上手く行かず、足掻いたところで解決の糸口は一向に見つからなかった。後悔だけを抱いて泣いた彼女に背を向けた私が、どうしてメルの望む言葉が紡げるだろう。この想いに気付いた時からずっと胸に巣食った言葉を、喉から外に出す術を私は忘れてしまっている。あの時鍵を回していたら奥にある扉もきちんと開いていたのだろう。だが、長い歳月を経て一度も触れられなかった扉はヘソを曲げて簡単には開けられない。一度捨てた鍵を拾い上げなければ開けられない。
あの日の私はきっと変化を憎んだ。愛しい人が私の元から離れてしまう現実に酷く苛立った。私がテレーゼに想いを伝えたところで、彼女は私を振り払って消えてしまうだろう。困惑した頭では彼女を繋ぎ止められる言葉を見付けられず、せめて思い出だけでもと手を出した。あの選択が間違っていたなら、今私が錆びれた鍵を拾った時、今後こそ大切なものを繋ぎ止めることが出来るだろうか。メルを、この手に抱けるだろうか。
震えた手を伸ばし、髪を飾る青薔薇に触れる。肩を震わせたメルも、髪を撫でるとただ口を閉じて手の動きを見つめていた。その幼い体温に触れたくてゆっくりと手を伸ばしたが、メルが私に裏切られた日のテレーゼと似た表情をしていて、その手の行き場を無くした。ぱたりと音を立てて枝に落ちた手を、はっと目を丸くしたメルが咄嗟に掴む。両手で包んだ私の掌をまるで大事な宝物のように自分の胸に押し当てた。

「…言って」

ぽそりと、蚊の鳴くような声でメルは呟く。繋がる手の掌から力が抜けた。私も相当酷い顔をしていそうだ。枝を掴んでいた片方の手を、メルの背中に回した。

「今も好きだよ」

喉の奥底に沈めてしまった想いを懸命に掬い上げる。

「…今も、テレーゼが好きだ」

震える声で告げて、メルの背中の服をぎゅっと掴んだ。其処に心臓があるわけでもないのに、胸の動機を抑えようと服に皺を作る。喪失感がじわじわと沸き上がってくる。とうとう顔を上げられなくなって、メルを抱いたまま彼の胸に顔を押し付けた。

「好きだよ。ずっと、ずっと好きだった…」

「…イド」

ぽたぽたと溢れた涙がメルの胸元を濡らす。愛した分だけ哀しみも寂しさも募った。もしあの日伝えていれば彼女は残ってくれていただろうか、追手に捕まらなかっただろうか、守ってやれただろうか。いっそのこと最初から全てをやり直したかったけれど、後悔から生まれた子供を眼前にしてそう願うことも出来ない私がいる。私たちの関係に答えがあったのなら、鍵はメルが握っているのだろう。胸を締め付ける痛みは今まで癒えることはなく、きっとこれからも和らぐことはない。けれど、メルを前にするとそれも酷く愛しいものに感じた。

メル、あとで答えあわせしよう。お互いにあの家族と過ごした日々を語り合おう。それがきっと、私たちの寂しさを和らげる一番の方法だから。






先週誕生日を迎えたばかりだった。そう言うとイドは微笑んで、「じゃあ船員たちを巻き込んで誕生会をしよう」と提案した。見ず知らずの他人の為に誕生会なんてやっても盛り上がらないんじゃないかと思ったが、其処はイド曰く、私の船員のことだから酒でも配っとけばかなり派手になる、らしい。母上とメルツが居なくなってから誕生日は一人で歳を増やすだけだった。これからもそれは変わらないと思っていたから、久々に祝ってもらえることが本当に嬉しい。それも実の父親だ。奇跡としか言いようがない。
樹から降りて仲良く手を繋いで帰ってきた僕らに、コルテスさんは肩を竦めた。

「メルヒェン、お前途中で仕事すっぽかしやがって、オーナー怒ってたぞ」

「あ!忘れてた…!」

昼休みを貰ってからあんなことがあって一度も屋敷に戻っていない。もう日暮れだ。顔を真っ青にする僕にイドはにやりと笑う。

「大丈夫だメル、クビになったら私の船員にしてやるから」

「え?」

「何言ってんだイド!?」

「当たり前だろう。私の息子だぞ。将来立派な海の男にしてやる」

そう言ってふふんとふんぞり返るイドに、間抜けにも僕はぽかんと口を開いた。だってあまりにも現実味がない。予想だにしていなかった。イドは航海士だと言っていたけど、僕も海に連れていって貰えるのだろうか。コルテスさんは僕とイドを見比べて少し目を丸くしたあと、いつもの表情に戻って溜め息をついた。

「その様子だと、けりついたみたいだな」

「まあね。ああ、親子ということは一応皆には内緒で」

「何故だ?」

「阿呆か貴様!ポテンシャルが寄って来なくなるじゃないか!」

「阿呆はお前だな。メルヒェン、イドのことお父さんって呼びな」

「ファーティ?」

「ファーティは二人きりのときだけにしなさい!」

慌てるイドにコルテスさんと二人で笑った。この優しい人達は、僕のことを受け入れてくれるらしい。迷惑しか掛けていない子供を抱えるなんて面倒以外の何物でも無いじゃないかと思うが、イドにそのことを言うと「自分を卑下するな」と軽く怒られる。
握った手に力を込めて小さく「ファーティ」と呟くと、イドは微笑んで僕の頭に手を置いて撫でた。まるで本当に父親だ。実感が沸かなくて、夢かと何度も思った。でも手に触れる温もりはどうしたって本物で。嗚呼これを奇跡と呼ぶのだろう。イドから貰った青薔薇の花束を、決して落とさないように胸に抱き締めた。





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