当時、私は、まだ二十歳にも達していなかった様に思う。最近開拓されたばかりの島に行くというコルテスの望みを叶えるべく、故郷へ船を動かし馬や兵士を調達していた。その時に知り合ったのが青髭公。当時は彼もまだ若く、体裁の為にと髭を伸ばし始めた彼を私は揶揄い青髭と呼んだ。初めは金銭援助で繋がっていただけだったが、夜に酒を交わす度に彼の人柄に惹かれて、何時しかコルテスも交えて軽口を叩き合う仲になっていった。友人同士の会話の中で、恋や女の話になるのは至極当然のことだ。無論私達もそうだった。一頻り語った後で、青髭はぽつりと私達に胸の内を明かした。青髭には焦がれて止まない女性が居て、彼女は位の高い貴族の娘であるが、家庭の事情で家には戻れない身なのだという。それ故に自分の領地に彼女を保護しているのだと。家庭の事情とやらを尋ねると、青髭は腹を撫でた。何でも彼女は自分の其処に禁断の子を宿したらしい。無事に生まれたのは良いが、神の摂理に背いた罪として、子が罰を受けた。青髭は追手から逃れてきた彼女を救いたくて、自分の城に匿った。

「彼女が好きなら、結婚したらどうだ」

「阿呆、簡単に言うな」

何気なく呟いたアドバイスを青髭は一蹴する。お前も考えてみろ、と彼は私に向かい低く紡いだ。狭い地下に作った部屋で、彼女は禁断の命を懸命に育てている。貴族の元へ生まれた為に背負わされた罪を、受け継ぐようにアルビノの子が生まれた。彼女が貴族社会に満ちる悪意や作為を恨むのは当然なのだ。そんな彼女に、どうして伯爵夫人になってくれと言えるだろう、と。
コルテスは兎も角、当時私は貴族という家の仕来たりに縛られる環境を嫌悪していた。考えてみろと言われたところで、想像だに出来ない。惚れたのならずっと一緒にいればいい。そんな当たり前のことさえ出来ないのなら、貴族なんて糞食らえだ。些か乱暴に言葉を捲し立てた私に、青髭は一言「お前は自由で良いな」と苦笑した。

彼女のことは青髭の自虐めいた恋話を通して知った。決して楽な恋では無かったのだろうが、彼女を語る青髭の表情は私達が見てきたどんなものよりも柔らかく、本当に好きなのだと見て取れた。のろけられるのを受け流すのは面倒臭かったが、その幸福が何時までの続けば良いと思っていた。しかし無情にも時は全てを奪い取らんと襲い掛かる。数ヵ月後、青髭は何時ものように私を城へ呼んでこう言った。彼女の父に事が漏れた。彼女は東へ逃げるそうだ。しかし私は領主であり、父亡き今領民を見棄てて彼女を追い掛けることが出来ない。

「頼むイドルフリート。お前が、彼女を助けてくれ」

青髭はすがるような想いで私を頼ったのだろう。自分が見ていないところであっても、彼女に幸せになってほしいと願ったのだろう。惚れた女を、友人とは言え他人の男に任せるというのはどれ程胸が抉られたことか。私には分からない。どうしてお前は最後の最後まで彼女に想いを伝えなかったのか。頭を下げる青髭に苛立って仕方なかった。

「貴様は、どうしようもない低能だ」

そう罵っても、青髭は頭を上げなかった。了承の言葉を返すこともせず、絨毯を踏みにじるようにして城を出た。
同情してやる気は全く無かった。ただ青髭の、あの懇願する様な言葉が背中に突き刺さっていた。コルテスの後押しもあり、折れた私は二度と訪れないと誓った城の門を再度叩き、公に彼女の居場所を尋ねた。その時青髭はどんな表情をしていたのか覚えていない。似合わない礼を繰り返す青髭に「任されるつもりは全く無いが、様子見くらいはしてやる」と私は早口に言った。



苛立ち半分で接触した女に、まさか自分が魅入ってしまうとはこの時は予想だにしていなかった。方伯の令嬢だと聞いていたから、深窓の佳人を絵に描いた様な女性なのだと疑っていなかった。貴族に対しての酷い偏見もあり、彼女に逢うまで、私は何処かで彼女を見下していたのだと思う。鬱蒼と生い茂る宵闇の森に足を踏み入れた時は、よもや女がこんな所で子を一人抱えて生活は出来る筈か無いと決めつけていたくらいだ。しかし彼女は決して深窓の佳人なんて表現に収まるような可愛らしい存在では無かった。勇ましく、必要もあれば剣を握り男の様に振る舞う。迷いを知らず、特に息子の為ならどんな苦境にも耐える決意が、彼女にはあった。既に息子以外の全てを振り切っていた彼女は此方が圧倒される程強かで、その男顔負けの決断力に私は女性に対する賛美を考え直さねばならないと悩んだくらいだ。それでいて女としての優雅さも決して忘れていなかった。母とは美しく強いものだ。私は忘却の彼方へ追いやっていた母を、彼女を通して記憶に呼び覚ました。
彼女は幾度目かの訪問によって漸く自らをテレーゼと名乗った。テレーゼ・フォン・ルードヴィング。ルードヴィング家が如何程の名家であるのか、其れが皇帝選挙の権利を与えられてきた程の大貴族であれば、その環境に疎い私でも熟知している。大抵貴族の娘は蝶よ花よと育てられた世間知らずが多いが、彼女の場合は貴族社会の悪意に揉まれ猜疑心が育まれたのだろう。初めは青髭の友人だと話しても全く耳を貸さず、それどころか私を父の刺客だと疑っていた。しかしメルツが私の顔を覚える頃になると、漸く心を許してくれた。それほど私は頻繁に彼女たちの隠れ家へ足を運んでいたのだ。訪問する度に食糧、家具、メルツの目に効きそうな薬草、武器を与えた。私の知っている物語や知識も思い出しては聞かせた。

「貴方は伯爵に頼まれたから此処に来ていると言うけれど、私には貴方にそこまでして貰うほどの関わりは無かった筈だわ」

どうして?と娘が親に問い掛けるように何気なく囁かれた疑問に、私の方が困惑した。此方が教えてほしいくらいだ。最初は青髭との約束事だからと通うことに言い訳を添えていたのに、その頃には純粋にメルツの成長を見届けるのが楽しみで、何よりテレーゼの顔を見たいと思うようになっていた。幾度も訪問し、その度に泊まった。眠る前にベッドへ座り、左にメルツを、右にテレーゼを並ばせて森の向こうの冒険話や童話を語るのが、いつしか三人の約束事となった。最初は渋々と言った様子で素っ気なく相槌を打っていた彼女が、メルツが眠った後も「それで、どうなったの?」と続きを促す時、どうしようもない愛しさが胸に込み上げた。
アルビノであるメルツは生まれつき体が弱く、よく高熱を出して寝込んでいた。ある日彼が一向に冷める気配の無い高熱を出し、もしかしたらもう――と涙を溜めたテレーゼを見て焦った私は、直ぐにコルテスの元へ戻ってありったけの薬を手に入れてメルツに飲ませた。回復する様に彼女と共に介抱し、その晩初めて私は神に祈った。

――愛しい女の子供を、どうか彼女から奪わないでくれ

祈りを通してからだと思うが、そうやって私は初めて彼女への恋心を自覚した。今まで恋というものをしたことが無かったから、その感情に気付くのに酷く時間が掛かったのだ。軈て祈りは届いたのかメルツの高熱は下がり、盲目だった彼の目が光を取り戻した。それは奇跡だった。紛れもない神の祝福だった。しかし神は、その代償とでも言いたげにこの胸に愛欲の炎を点し、彼女に会うたびにその炎に油を注いでいった。

――愛したところで、その恋に実りは訪れない。

自覚して幾度の夜を迎えたか分からない。胸の苦しみが抑えきれ無くなった私は、解放を求めてコルテスに彼女が好きだと打ち明けた。まるで青髭が昔城で私達二人に胸の内を明かしたのと同じ様に。あの時公は、今の私と同じ様な情欲をもて余していたのだろうか。彼の真剣な告白に私はなんて答えたか――。コルテスは薄々私の様子がおかしいことに気付いていたようで、否定も肯定もしなかった。「ルードヴィング家の令嬢に焦がれるとはお前も余程の馬鹿だな」と苦笑はしていたが。彼女が喜んでくれる贈り物をしたいと言った私に、彼は花を送れば良いと青い薔薇の束を繕った。似合わない顔で青薔薇の花言葉を添え、お前達にぴったりだと豪快に笑った。



「メルが、井戸の近くで見知らぬ男達を見付けたの。きっと父の追手だわ…気付かれたのかも」

そうして宵闇、メルツが眠った時間に訪問した私を何時ものように部屋に通してテレーゼは呟いた。外套を脱いで雪を払っていた私は、その言葉に手を止めた。冷静に言っているが、彼女の顔はかなり青白い。気のせいではなく、本当に危険が迫っている事を察した。

「…だから、もう此処には居られないわ」

『君に似合うと思って、君の為に青薔薇を繕ったんだ』此処に来る前に頭で何度も何度も繰り返した言葉を、掻き消すように彼女は口を開いた。覚悟を決めた表情を見た途端、私は何も口に出来ず唇を閉ざす。大好きな彼女の声が私の胸に突き刺さる。

「…貴方とも、もう会えない」

何故、決意をした瞬間に彼女は離れていく。何故、共に生きることさえ叶わない。
嫌いだと迷惑だと手を払われた方がよっぽどましだった。素直になりきれないところも、なんだかんだと話を聞いてくれる優しさも、メルツを一人育てる強かさも、全てこの上なく愛している。なのに何故、別れを告げられなければならない。

「…テレーゼ」

好きだと言いたかった。青薔薇を手渡して、自分の心の内を彼女に打ち明けたかった。なのに私は、彼女の手を無理矢理引いてベッドに押し倒した。悲鳴を上げて驚いた顔で私を見上げるテレーゼに、私は震えた声で告げた。

「抱かせてくれ」

そうしてこの唇は最低な言葉を紡ぐ。許可を求める前に口を塞いだ。彼女の唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて、温かくて。獣のように夢中で貪った。テレーゼの体温を感じる度に胸が締まる。唇を離した瞬間にまた欲しくなる。胸を焦がす衝動を、ついに私は抑えることが出来なかった。馬鹿だ。最低だ。自分を罵りながら、彼女をこの胸に掻き抱いた。
どうしてこうなる前に言えなかったのだろう。あの時私は青髭に何と答えた。『結婚しよう』と一言告げるだけで良いと、自分で笑っていたではないか。今まで会ったどんな女よりも愛している。結婚して、妻になってくれ。君の父君がいくら追手を差し向けようとも、私が命を懸けて守る。だから君は、メルツと共に私の傍で笑っていてくれ。胸の内から止めどなく溢れる言葉は、喉に引っ掛かって出てこない。その代わりに何かの記号の様に、テレーゼ、テレーゼと名前を呼び続けた。此方を見上げてぱくぱくと声を紡ごうとする彼女の、内側を見るのが酷く恐ろしかった。いつから私はこんなに臆病になってしまったのだろう。彼女の頬を伝う涙を指で拭えば次から次へと溢れ出てきて、ぐしゃりと顔を歪めた。泣かせたいわけじゃなかった。そんなことは一度だって望んでいない。薬や食糧の代わりに青い薔薇を送り、彼女の笑った顔が見たかっただけなのに。

「…い、ど」

メルツを慈しみ愛でる手で、彼女は私の頬を撫でる。その体温にすがるように両手を重ねた。この体温が傍にあるだけで満たされる、だが、もう私の元から離れてしまう。嫌だと嘆けば彼女は留まってくれるのか。不可能だと分かっていても思考は止まらない。嗚呼、今までの頻繁な訪問は全てこの行為のためだと思われてしまうだろうか。沸騰してぐちゃぐちゃに融解した理性では、弁解の言葉すら見付からない。この手は彼女を傷付けることしか出来ない。惨めで最低な男だ。あの時青髭に放った罵倒は、跳ね返って容赦なく降りかかる。彼女に最後の最後まで想いを伝えられないどうしようもない低能は、私の方だった。

朝が訪れる前にベッドから起き上がった私は、横にいるテレーゼを眺めて、其処から降りた。起こさないように慎重に裸の肌に身軽な服を着せる。私自身も来た時の服装に身を包み、外套を羽織った。隣の部屋で丸くなって眠るメルツの額にキスを落とし、彼が世間の悪意にも作為にも揉まれず、無事に大人になれるようにと祈る。そしてテレーゼにも、平穏が訪れます様に。私の力で彼女たちを幸せにすることは最早出来ない。もう二度とこの家族と会うつもりは無かった。振り返らずに、家のドアを閉めた。


「そうか…」

テレーゼとは全て終わったよと、宿へ戻って早々口にした言葉にコルテスは短く頷いた。青薔薇を持って出掛けて行った私が、失恋どころか「もう会わない」と口にして帰ってきたことに少なからず驚いただろうに、彼は何も訊いてこなかった。
家を出てから気付いたが、私は彼女に渡すつもりだった青薔薇の花束を置いてきてしまっていた。だが今更取り戻せない。元から彼女に渡す筈だったものだ。たとえ捨てられる運命でも、私の手元にあるよりはましだろう。コルテスに聞いた青薔薇の花言葉は奇跡。しかし今の私達にはもう一つの言葉の方が相応しい。不可能。もうどんなに足掻いても、私と彼女が共に生きることは不可能だ。
いつまでも彼女を引き摺るわけにはいかない。暇を貰った分働かなければならず、さっさと外套を掛ける私にコルテスはぽつりと呟く。

「今言うタイミングじゃねぇと思うけどよ、イド。新大陸、行けるようになったぞ」

本当に今言うタイミングではない。ばつが悪そうなコルテスに苦笑して、その肩を叩いた。

「……凄いじゃないか。夢に近づいたな。流石私の見込んだ男だ。しかしあまりにも唐突だな」

「ずっと前から決まってたよ。言わなかっただけで」

「…は?」

聞き捨てならない言葉に眉をしかめる。

「それは、私は省かれていたということかい?」

「早とちりすんな。お前、あの令嬢のこと好きだったろ。だけど新大陸には彼女は連れていけない。結婚して身を固めることを考えているお前に新大陸に行くなんて言ったら、已む無く結婚を諦めると思ったんだ。だから白黒決着付くまで言わなかった」

「…成る程、今が丁度良いタイミングなわけだ」

しかしそれは取り越し苦労だった。私はもうテレーゼに会うことなど無いし、結婚なんて持っての他だ。杞憂で済んで良かったと自嘲気味に笑って、じくじくと痛み出す痣に顔を引き締める。

「…イド」

私が押し黙ったのを横目で見たコルテスは、ぽんと軽く頭を撫でてきた。今更沸き上がってくるどうしようもない激情を、私は綺麗に片付けることが出来ない。ばらばらに足元に散らばった棘を踏まないように歩いていたのに、一度バランスを崩したらお仕舞いだ。ぐっと唇を噛んで遣り過ごそうと耐えるが、コルテスが宥める様にしつこく頭を撫でてきて、限界だった。

「っ、…っぁあ、ああああ、ああああ…!!」

これ以上自分に嘘を吐くことは出来なかった。止めどなく涙が溢れてきて、私は恥も外聞もなく大声を上げて泣いた。テレーゼの前でも見せなかった涙が、ぽろぽろと抑えた指を伝い地面を濡らす。ひくひくと喉が痙攣して嗚咽が漏れた。彼女に想いを伝えられなかった悔しさ、手を出してしまった自分への憤怒、体温がすり抜けた哀しみが複雑に絡み合って一度に私を襲ってくる。ぐしゃぐしゃに崩れた顔を袖に擦り付けて泣き喚く私にかつての友人である青髭を重ねたのか、相も変わらず理不尽な世の中だとコルテスは訝しげに呟いた。彼は私が泣き止むまで文句ひとつ言わずに肩を貸してくれた。





「 …テレーゼ ? 」


メルが落としていった青薔薇の花束を石畳から拾い上げる。唐突に走り出した彼を追い掛けるにも何処に消えたか分からない。店員に花の事は後に回すと伝え、取りあえず花束を抱えて足を動かした。
テレーゼ。懐かしい名前だった。昔焦がれる程呼んだ名前だ。彼女の名を口にした途端、メルは顔面蒼白になり、唇まで真っ青にして私の前から逃げるように姿を消した。何故メルがテレーゼを知っているのか。私と彼女が会ったのはかなり昔の事で、その時にメルが生まれていたかも怪しいのに。否、それよりも何故私はメルの髪に薔薇を付けたときに、彼女の名前を無意識に呼んでいたのか。冷静に考えてその自問に答えると、目の前にテレーゼそっくりの顔があったからだ。ひとつの違和感が脳内を駆け巡り、思わず立ち止まった。もし、私の推測が正しければ彼は…メルは、

「…イド?どうしたそんなとこで」

同じく港町で食事を取っていたのか、コルテスが通り掛かり私の名を呼ぶ。細かいことを説明する気にはならない。単刀直入に彼に尋ねる。

「コルテス、昔テレーゼという名の令嬢が居たな」

「……随分昔の話をするな。ああ、居たよ」

「彼女と別れたのは何年前だ?」

「…15,6年前だ。丁度新大陸に行く話で盛り上がってた時期だろ」

嗚呼どうしよう、よく分からないが泣きそうになる。

「………メルの、年齢は?」

「さっきオーナーに15だと……ってお前まさか」

コルテスの頬が引き吊る。私も歪む顔を抑えきれず口元を手で覆った。彼の視線に応えるように、こくりと大きく頷く。



まさかと思っていたが、彼女、私との子を産んでいた。







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