瞼を開いたら、息が掛かるくらい近い距離にイドが居て、本当に心臓が止まるかと思った。
未だばくばくと高鳴る動悸を抑えるように胸に手を置く。此処は何処だ、と辺りを見渡して、昨日イドが泊まっている部屋のベッドで丸くなったことを思い出した。1日に色々なことがありすぎて疲れた僕に、イドは「早く寝なさい」と頭を撫でてから部屋を出ていった。多分、彼にはまだやることがあったのだろう。コルテスさんという上司の部屋へ向かう背中を見送りながら、広いベッドに一人で眠るのは少し寂しくて誤魔化すように毛布を握った。てっきりイドはそのまま向こうで寝てしまったのかと思っていたけれど、僕が寝た後に戻ってきたらしい。規則正しい呼吸で安らかに眠るイドを横で見て、僕は一度大きく深呼吸をした。そして今のうちに彼の寝顔をじっと観察する。彼が僕の父親だと言う証拠を、類似点を間近で調べた。どうやら母親の血を色濃く受け継いでしまった様で、僕とイドはあまり似ていない。でも髪質とか、鼻や唇の形とかは、少し似ているのかなあと思った。ふわふわの髪の毛が僕の前髪と重なってくすぐったい。大好きな人が隣にいるというのは、本当に本当に久しぶりだった。イドに気付かれないように僕はこの幸せを一人噛み締めた。

母上は僕の兄であるメルツを産んで、故郷を捨て森を転々としていた時に、イドに出会ったらしい。航海士だというその男は、人里離れて生活する母子の為に、食糧や薬草等を頻繁に送り届けてくれた。まだ赤子だったメルツの成長を見届けて、特に何をするわけでもなく帰っていった。最初は父が送り込んだ刺客だと疑い距離を取って接していた母上も、イドの気さくな性格に次第に打ち解けていった。メルツの目のこともあり、自ら人から離れて生活しているとは言え、多少心細かったのかもしれない。メルツの生を認めてくれるその男の言葉に励まされ、次第に母上は彼のことを頻繁に考えるようになっていった。
僕がまだ母上とメルツと一緒に暮らしていたとき、母上はよくイドのことを話してくれた。まるでもう一度イドと会えることを願うように、僕とメルツに語りかけた。どんな姿をしていたのか。どんな話し方をするのか。どんな風に微笑んだのか。彼が母上に話した知識や物語までも、事細かく教えてくれた。イドは常に僕ら家族の一員だった。幼い頃からそんな話ばかり聞かされていたから、母上とメルツが僕の目の前から消えてしまったあの晩、此が節目だと思った。もし僕だけ残された理由があるのなら、きっと母上がどんなに会いたくても会えなかった人に、会いに行く為だろうと。一目で良いから母上を愛した人を見るべきだと思った。昔確かにあった幸福を、幻想で終わらせてはいけなかった。勿論二人の焔を奪った身勝手な人間達が死ぬほど怨めしかった。直ぐに剣を取って、笑いながら母上が火炙りにされる様を眺めていた民衆一人残らず苦しめて殺してやりたかった。だけれど、母上の話を咄嗟に思い出した僕は、復讐より使命を取った。それが二人を弔う一番の方法だと思った。
何年も掛けてイドの場所を探り出した。実際見たこともない人を探すのだ。そんなに簡単にはいかない。スペインで仕事をしているという母上の過去話を頼りに南へ旅し、苦労しながらも言語を覚えた。そうして幾年の年月があっという間に過ぎ、漸くイドへとたどり着いた。あの時胸に込み上げた感情を、僕は一生忘れないだろう。
イドは実の息子の存在を全く知らない。一夜の夢を最後に、イドと母上は会っていない。だからおそらく母上とメルツが死んだことも知らされていない。一目見るだけと思っていたから、会ったら何を話すかなんて全く考えていなかった。イドは母上のことを今でも覚えているだろうか。変わらずに愛しているのだろうか。訊きたかったけど、真実は言わないと心に決めた。母上がずっと内緒にしていたイドへの恋心を、僕が打ち明けるわけにはいかない。何より僕ら三人の過去を、この航海士に背負わせてはいけないのだ。きっと何も知らないままの方が良い。何も知らない方が幸せだ。
嗚呼、でも僕は母上とメルツが死んでから、天涯孤独だと思っていた。ずっと独りで生きていくのだと思っていた。だけど、もうそんな寂しい想いはせずに済む。夢にまで見た父親が、こんなに近くに居る。僕は未だ眠っているイドの瞼に、小さくキスを落とした。独りじゃないと実感するのは、凄くくすぐったくて温かかった。




屋敷の使用人として働く為に頂いた服を着てオーナーに挨拶をした。大きな屋敷だと思っていたけど、コルテスさんみたいなそれなりの階級の人達が使う宿屋なのだそうだ。擦れ違うお客様に会釈をしながら屋敷中を駆け回り、ベッドメイキングと窓拭きと埃払いに午前中を費やした。昼になると一時間の休みを頂き、外に追い出された僕を待っていたのは欠伸を噛み殺したイドだった。ぽかんとして突っ立ったままの僕を見下ろして、にかりとイドは笑う。

「午前の仕事は終わったか。ならば港町で朝食を取ろう。ついて来たまえ」

コルテスさん曰く、イドは陸では昼まで熟睡することが常だという。確かに僕がベッドから抜け出した時も、一度目を醒ましていたけど直ぐに毛布にくるまっていた。さっきまで寝ていたのだろうか。欠伸の回数が半端じゃない。

「朝食じゃなくて昼食だよ」

「私にとっては朝食だ」

「僕にとっては昼食だよ。そんなに遅くまで寝てたら、夜眠れなくならないかい?」

「海の上と違って、陸では夜中の方が仕事が捗るのさ」

「…ふぅん」

あまり納得は出来ていないけど、また何か言っても言いくるめられるだけなので口を閉ざした。良く喋る人だなと思う。そういえばメルツも何かあれば良く喋っていた。僕はどちらかと言えば寡黙な人間で、相手の話に相槌を打つことが頻繁だ。自分で話題を作るというのは、僕にとってはかなり難しい。対称に、メルツは話題作りの天才だった。

「おお、混み時なのに良いスペースを確保出来たな。運が良いぞ、メル」

イドに連れられたのは、テラスのあるこじんまりしたお店だった。建物の前面に煉瓦が平らに敷かれてあり、少人数用の白い机と椅子が点々と置いてある。イドはその一番端にある一目に付かない場所を選び、僕を先に座らせて店員に飲み物とランチを頼んだ。

「メル、海が見えるぞ」

何故この席を選んだのか不思議だったが、イドのその言葉で納得した。露壇である為に、ザアザアと波の立つ音まで鮮明に聞こえる。碧く透き通った海の上をカモメが列を作って飛び交っていた。僕の故郷とは別世界の様な光景に息を呑む。母上とメルツにも見せてあげたかったなと思いつつ、そう呟きそうになるのを懸命に耐えた。航海士であるなら海なんて飽きるほど見てきただろうに、イドは本当に海が好きらしい。

「ねぇイド。僕、どうしても訊いてみたかったことがあるんだけど」

「なんだい?」

僕の方から話題を吹っ掛けてきたことを珍しく思ったのか、イドは興味深そうに目を細めて笑みを作り優しく問い掛けてくる。その視線に見つめられることが恥ずかしくて、誤魔化すように海を眺めた。

「海って、塩と水で出来ているんでしょう?塩も水もどちらも人間が生きるのに大切なものなのに、その二つが交ざった海水を飲んではいけないのは何故なんだい?」

そう問うと、イドは頬杖を付いたまま細めていた目を丸くした。何かいけないことでも言ってしまったのだろうか。慌てる僕を尻目にイドは肩を震わせて笑いを押し殺した。

「わ、笑う程のことを言った…?」

「いやいや失礼。非常に懐かしいことを思い出したんだよ。何、昔君と同じ質問をしてきた人が居てね。彼女は海と全く無縁な場所で生活していたのに、海水が飲めないことを知っているだけでも凄いなと、褒めた記憶があるよ」

イドは困ったように笑いながら、その記憶を僕に語る。今までとは少し違う笑い方に、それは彼にとって幸福な思い出なのだろうと思った。母上もイドのことを話す時同じような表情をしていたからだ。その懐かしい女性とは誰のことなのか、訊きたくて訊けない。

「…嗚呼、何故か君と会ってから彼女のことばかりを思い出すな」

その彼女が、母上であれば良いのに。臆病な僕は何も訊けずに、彼の言葉に首を傾げる仕草をして誤魔化す。
そうしている間に店員がランチを運んできた。焼き立てのトーストを目の前にしてごくりと喉が鳴る。イドと会って胸がいっぱいだったから忘れていたけど、昨日から何も食べていなかった。バターが滑るトーストにかじりつく僕を眺めて、イドはまた先程の続きを話し始める。

「海水を飲んでも死にはしないが、水不足に陥った時には決して飲んでは駄目だ。塩を体内から排出する為に人は、海水の何倍もの真水を必要とする。喉が焼けついていずれ、死に至る」

「…そうなんだ」

「下の水を飲むよりは、天より降ってくる水に頼った方が、幾分利口だろうね」

甘くなるまで火を通らせた玉葱を会話の合間に口に含みながら、イドは講釈する。彼が話すと目の前にあるグラスに入った水がとても貴重なものに思えて、ゆっくりと冷たさを味わい喉に通した。それを見てイドは楽しそうに笑う。

「君は大人しいね。次から次へと話題を変えるコルテスとは大違いだ」

それは褒められているのだろうか?頷くことも出来ずにトーストにかじりつく。

「今日はコルテスさんとは一緒に食事をとらないの?」

「何故毎日のように船で顔を合わせている人間と、陸でも行動を共にしなければならない。あいつが巨乳美人なら兎も角、煩い会話に付き合うのは御免だ。自由を堪能したいものだね」

「そうかな。僕は、出来るだけたくさん、大切な人と顔を合わせていたいよ」

きょとんとイドが首を傾げる。

「あとで、後でたくさん、会いたいのを我慢しなきゃいけないから」

母上やメルツが死んだ夜から、僕は後悔しかしていない。当たり前だと思っていた現実が過去の物となったとき、人は初めて自分が置かれていた幸福を知るのだろう。皮肉だが、僕は漸くそれで時間が永遠でないことを学んだ。大切な人と精一杯一緒の時間を過ごす。あの夜から僕には精一杯を伝える大切な人は居なくなった。でも、今はイドが居る。イドの傍に居るためならなんだってする。たとえ身勝手でも、そんな僕の努力を、他でもない彼に一蹴されたくない。

「…そうか、君は家族が」

怒るわけでもなく、イドは苦笑した。すまないと謝罪して、頬を撫でる。僕も自分の顔がみっともないくらいぐしゃぐしゃに歪んでいるのを水の入ったグラスの鏡を通して自覚し、ふるふると首を振った。

「もう大丈夫だから、心配しないで」

「………ああ」

「それよりイド、そろそろ屋敷に帰らなきゃ」

頂いた休憩は一時間。帰る距離を考えて、もうそろそろ準備をした方が良さそうだった。「ああ」と頷いたイドは残っていた野菜とトーストを全て口に放り込んで、最後に水を一気飲みして流すように胃に収める。彼の細い体に次々と食べ物が入り込んでいく光景を目の当たりにしてぎょっとした。

「…そ、そこまでして急がなくても良いんだけど…」

「うん?いや、少し付き合って欲しい場所があるのだよ。残り時間は?」

「あと20分」

「余裕だ。時間は掛けない、付き合ってくれたまえ」

そんな言い方されたら拒否なんて出来ないじゃないか。無言でこくこくと頷く僕に、イドは満足そうに笑った。



固い皮に覆われた大人の手に引かれて数分。案外近い場所に、目的地があった。また海関連の所に連れていかれるのかと思っていたけど、全然予想と違っていた。

「…お花屋さん…」

確実に男二人が入る店ではない。イドが一人で入るんだったら、まだ女性の贈り物を探す為に訪れているのだと解釈出来るのに。恨みがましく理由を尋ねると、「仕事絡みで知り合いの貴族が訪れるから、部屋を飾るようにコルテスに頼まれてね」と彼は答えた。仕事が関連しているなら、仕方ない。港町で食事を取るついでに店に寄ることにしたのだろう。
イドに会うまで花なんて眺めている心の余裕は全く無かったけど、幼い頃は周りは花だらけだった。住んでいた場所が森の中にあるのに加えて、母上が薬草に詳しかったのも理由の一つだ。花をたくさん飾ったときに香る、鼻を擽るような匂いが大好きだった。その香りと似たようなものが店の中を漂い、懐かしさに胸を満たす。店を飾る花はどれも皆可愛らしく、風に揺れる様子がまるで買って買ってと僕に囁いているようだった。じっと真剣に花を眺める僕が面白かったのだろう、店員が頼まれた雰囲気に合わせ花の組み合わせを選んでいる間に、イドは僕の頭を撫でた。

「その花が気に入ったのかい?」

そう尋ねられて、慌てて視線を前方に向ける。完全に自分の世界に入ってしまっていた。我に返ると、眼前には青い薔薇が。些か店の雰囲気に合わない浮いた色に花弁を染めた薔薇。嗚呼、母上が頭に付けていた花だ。そう頭が認識する前に、イドが棘に気を付けながらその花を一本手に取る。

「付き合ってくれた礼にこの薔薇も買おう。今の君の部屋…いや、私の部屋だね、其処に飾ろうか」

「…えっと…」

別に気に入ったわけではないのだけど。しかし目に留まった理由は彼には話せない。早々会計を済ませるイドに、僕は何も言えなかった。買いたかったのは僕よりイドではないだろうか。店員から受け取った青薔薇の小さい花束を片手に持ち、イドは頬を弛ませていた。その幸福そうな表情に心臓が意味もなく跳ねる。僕の視線に気付いたのか、イドは石畳に膝を付くと花束を僕に手渡した。

「青い薔薇の花言葉を知っているかい?」

「ううん」

「私も、花言葉には全く詳しくないのだが…青い薔薇の花言葉は、昔友人にしつこく教えられた」

イドは店員に花の茎を切る為の鋏を貸してもらい、茎の一番端をパチンと音を立てて切った。

「薔薇には青い色素が無く、長い間青薔薇は愛好家の夢や幻想の中で愛でられるだけだったそうだ。そして付いた花言葉が『不可能』…青薔薇が世に存在出来ない様に、世の中にはどうしても実現出来ないことが有る。その現実を悔やむとき、私はこの薔薇を思い描く」

その言葉の重さを、僕は痛いほど理解できる。どんなに努力したって、成し得ないことはいくらでもあった。努力は物事を可能にするが、努力だけでは可能に出来ない。その理不尽さを僕は今までずっと嘆いてきた。母上とメルツが殺されたあの夜から、ずっと。

「…イドにも、出来ないことがあるの?」

「あるさ。それも、数えきれないくらいに。部下には何があっても前に進めと叱咤することが多いが、私自身は常に後悔に苛まれているよ」

「…そう」

「でもな、メル」

イドは鋏で切って落ちた薔薇を、石畳から掬い上げる。

「青薔薇は自然の力で存在することは不可能だったが、人々の努力により人工的に作られた。実在した青薔薇を目の前に、いつしか人は花言葉の意味を変える。その花言葉は『奇跡』…そして、『神の祝福』」

「祝、福…」

「その花言葉の意味を知って、私は昔ある女性に青薔薇を送ろうとしたんだ。彼女と結婚することは不可能だと知っていたが、せめて…彼女の助けになり、共に歩めるようにと」

――嗚呼駄目だ、これ以上は。

僕の胸の内も知らず、イドは僕の髪を結っていたリボンを外し、掬い上げた青い薔薇を僕の髪に添えるように付けた。イドは特に深く考えず、何気なくその行為に至ったのだろう。昔の恋人に、青薔薇を送る様子を思い描いて。これで気付かない方がおかしい。青薔薇を付けた僕の姿を見て、段々とイドの目が見開かれる。



「 …テレーゼ ? 」



その単語を聞く前に、僕は一目散にその場から逃げ出した。呼吸が苦しくなり、反射的に背筋が凍る。それでも足は信じられない速さでイドから逃れようと走る。後ろからイドの叫び声が刺さるが、内容を理解する余裕は全く無かった。心臓が痛い。胸を抉るような痛みを走ることで誤魔化そうとした。痛みが痛みで拭えることなど無いと分かっているのに。

母上に、どうしてイドに僕のことを話さないのか聞いたことがあった。あんなに熱心に彼のことを語るのだから、一度くらい会えば良いのに。母上は「イドにはイドの人生があるから、滅茶苦茶に出来ない」と哀しそうな表情で言った。あの時のことは今でも印象深く覚えている。ごめんなさい、ムッティ。僕のせいでイドにバレちゃった。





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