(イドメル親子パロ)


海水を飲み込まないように口を閉ざし、鼻から息を吐きながら水中深く潜っていく。目ぼしい貝や海胆などを素手で捕まえ、網の中に放り込んだ。隣を優雅に泳ぐ小魚に目をやりながらも視線は常に食い物へ。少し欲張って大きいものを選んだ網の中も、いつの間にか半分以上埋まってきている。吐き出す酸素も無くなり、若干息苦しくなってきたところで海面の光を目指して四肢を動かした。

「っぷは!」

邪魔な髪を掻き上げて空を扇ぐと、沈みかけた太陽が景色を赤く染め上げていた。そろそろ陸に上がるべきだろう。岩場で呑気に蟹探しをしていたコルテスが、水面から顔を出した私に気付いて笑い掛けてくる。

「…おおイド、たくさん捕れたか」

「ああああ!!?」

コルテスに網を掲げようとして声を荒げた。コルテスが目を見開いて岩場から身を乗り出してくるが、私は構わず彼の背後を指差す。

「ど、どうしたイド!?」

「服!私の服!!盗られた!!」

「はあ!?」

比較的水が引いた岩の上に濡れないように置いておいた服が、ご丁寧に全て盗まれていた。全裸で潜っていたわけではないが、それでも今は下着くらいしか履いていない。この格好で陸を走り回ることは出来ず、服を着ているコルテスに犯人を追い掛けるように示した。服を盗んだ影は、私の声にびくりと体を震わせて慌てて岩影へと走り去っていく。

「っち!後で何か奢れよ!?」

その影を認めたコルテスはそう吐き捨てると、俊敏な動きで岩を渡って犯人を追い掛けた。流石将軍。食物収集を部下に全て任せて自分はサボっておきながら、運動神経は衰えていない。私の視界から辛うじて見える距離でコルテスは銃を構え、犯人の足元を狙って打った。当たってはいないが、大きな銃声に驚いたのだろう。犯人は呆気なくぽてりと砂地に転がった。

「…ったく、野郎の服を盗るなんて酔狂な…ん?」

銃を腰にしまいながらコルテスは未だ砂地に倒れている犯人に近寄り、訝しげに首をかしげた。何かを発見したのだろうか。事の経緯が気になって海から身を乗り出す私に向かって、彼は声を張り上げる。

「イドー、こいつどうする?」

「どうするって、痛め付けるに決まっているだろうが」

「いや…こいつガキだ」

その言葉に目を見張る。コルテスが猫のように首根っこを掴んで示してきたのは、どう見ても十数歳くらいの少年だった。



髪は漆黒の様に染まっていて、所々に純白の房があった。肌は病的に白く、コルテスの、この国の人間らしい太陽に焼けた肌と並ぶとその異様さが目立つ。彼が纏う服は哀れな程泥にまみれており、パッと見身分の低い人間だと思った。コルテスに捕まって頭を俯かせたまま私の元に運ばれてきた少年は、一瞬だけ私の顔を眺めてすぐに目を逸らす。私は体を適当に拭いた後、コルテスから手渡された服を身に纏って少年に話しかけた。

「何故私の服を盗んだんだ?」

「…着る服が、無かったから」

曰く、親を亡くし、生きるために盗み癖が板に付いてしまったからだと。一枚しか無い服がみっともないくらい汚れてしまい、丁度良いところに服が置いてあったから手を伸ばしたらしい。それならば私の服を盗んだところで大きさが違って着られないだろうと思ったが、子供の思考が其処まで働いたのかは分からないので口にはしないでおく。売った金で買うという選択肢があったのかもしれない。申し訳なさそうに頭を垂れ下げ、汚れた手できゅっと服を握る子供を見て、コルテスがちらりと此方に視線を投げ掛けてきた。あっさりと情を移したらしい低能な上司は、「こんな可哀想な少年を痛め付けるのか?」と目で私を責めてくる。どう考えても今回は私が被害者なのに、子供というだけで加害者扱いされないのは何故なのか。しかしその視線に耐えられるほど私も薄情ではない。はぁ、とわざとらしく溜め息をついて、少年の黒髪を乱暴に掻き撫でた。

「もう盗みなんてするなよ、少年」

「…ご、ごめんなさい…」

「うん、いい子だ」

許しを貰ってホッとしたのか、少年は何度も首を大きく縦に振った。その子供らしい仕草に此方も自然と頬が緩むが、コルテスの視線を感じて必死に顔を引き締める。しかし見れば見るほど哀れな服装だ。つい先程汚したのだろうか、乾ききっていない泥に砂が吸い付いている。

「少年、もうしないと約束するならば、服を用意してやっても良いぞ」

盗人相手に慈悲を見せる私も余程の低能だろうが、そのまま捨て置くわけにはいかなかった。勢いで言葉を紡ぐと、少年はパッと驚いた表情を隠しもせずに私を見上げた。

「…良いの?」

「何、丁度泊まっている屋敷に使っていない子供服が数着ある」

なあコルテス、と視線を横にずらせば、腕を組んで此方を眺めていたコルテスは「ああ」と軽く頷いた。あの屋敷には昔泊まりで働いていた使用人が居て、その男の子供の服を未だ捨てずに取ってあると聞く。少年は小さめな背丈をしているが、おそらくサイズも問題無いだろう。

「君の名前は?」

「メルヒェン。メルヒェン・フォン・フリードホフ」

「そうか、メル…だな」

墓場の童話。おかしな名前もあるものだ。しかしそれよりも、彼が私と同じドイツの人間だと知って驚いた。あまりに流暢に此方の言語を使うものだから、てっきりコルテスと同じ生まれだと思っていた。メル、と短く呼ぶと何故か彼は泣きそうに顔を歪めた。不快だったのだろうか、首を傾げるが彼は全く拒絶はしてこない。

「彼の名はエルナン・コルテス。私の上司だ。そして私の名はイドルフリート・エーレンベルク。イドと呼んでくれたまえ」





嘘を吐いた。僕の名前はメルヒェン・フォン・ルードヴィング。墓場と名乗ったのは咄嗟に口から出てきた出任せだった。母と兄と住んだ所が墓場の様な場所だった為に、こう嘘を吐いた。本名を名乗ったらイドに何故僕が彼に近付いたのがバレてしまうから。服が無いから彼の服を盗んだというのも嘘。イドが海に潜っているのを目にして、自ら泥に飛び込んだ。出来るだけ貧しそうに、哀れに映るように。目の前に映る少年が作為も悪意も理解出来ない可哀想な子供であると、彼に思わせるように。偶然ではなく、意図的に彼と接触した。つまりイドの前で僕は嘘しか言っていない。本当の事も一つだけあるけれど。
生まれたときからイドルフリートの名前は知っていた。だけど実際に姿を見たのは今日が初めてだ。それまでは、誰かの語る「イド」に耳を傾けて想像することしか出来なかった。長い金髪を赤いリボンで束ねた長身の美しい男で、職業は航海士。エルナン・コルテスという将軍の下で働いている。生まれはドイツだが、今はスペインに住んでいて滅多に帰らない。頭が良くて話術に優れているけど、女性の胸しか見ないところは玉に瑕、などどうでもいいことまで頭に刷り込んでいる。他人から聞かされていた人間と実際に会うのは、まるで絵本の中の登場人物と会うような感覚だった。想像していた男が今目の前に居る。叫び出したいような感動をぐっと噛み締め、僕は彼の言葉に耳を傾けていた。彼のメル、と呼ぶ声の優しさに意識していないのに涙腺が弛んだ。
本当は、姿を見るだけだった。遠くから、あれがイドなのだと、確認するだけで満たされる筈だった。だけれど、視界に彼の服が目に入り、偶然を装えると確信した瞬間、勢いで接触する機会を作った。彼が僕に対してどういう風に話すのか興味があった。だから泥にまみれて、彼の服を盗んだ。すると本当にイドと話せたのだ。それどころか、今僕はイドに手を引かれて彼の居場所へと向かっている。呆気ない展開に、もっと早く会えば良かったと思った。ずっと思い描いていたことがあっさりと現実になるというのは、なんて不思議な感覚なんだろう。

「ああ、うん。これならサイズも合うな」

大きな屋敷に正面から入り広い部屋に通され、使用人から手渡された数着の子供服をベッドの上に広げたイドは、それを僕の肩幅に合わせて満足そうに頷いた。質素だけれど、とても動き易そうな服。黒い色をしたそれは、少しだけイドと似ていると思った。僕を鏡へ誘導する手は大きく、「どうだ?」と話し掛けてくる声は優しい。ずっと耳を傾けていたくなる声をしていた。そんな風に訊かれたら、頷くことしかできない。するとイドはくしゃりと僕の頭を撫でて、泥にまみれた僕の服のボタンを外した。
姿を描くことは今まで何度もしてきたけれど、声を聞いたり触れられたりしたことはない。でも僕は直ぐにその声も温もりも大好きになった。初めて会ったのにこんなに心が満たされるなんて不思議だ。母上もそうだろうか。イドの声や温もりに触れて、心が満たされた時期があったのだろうか。焦がれて焦がれて、漸く会えた心の絵本の登場人物。もっとメルと呼んでほしい。寂しさで渇いた僕の心を満たしてほしい。一度会っただけなのに、もうイドは僕の特別な存在になった。どうしよう母上、絶対に言わないって故郷を出た時に誓った筈なのに、イドのこと大好きになっちゃった。

「…メル?」

黙って俯いているのを心配したのだろう、イドが上から声を掛けてくる。それに懸命に首を振った。泣いていると悟られたく無かった。実際に会っても、血の繋がりという絆だけでは気付くことは無いんだなあと思って、それは少し切なかった。

「メル。君確か、身寄りがないんだったな」

「…え?」

僕の腕に袖を通しながら、ぽつりとイドが言葉を落とした。

「いや…もし何処も行く宛が無いのなら、此処で働けば良いと思ってな」

「…それって、イドと一緒に居れるってこと?」

「あ、ああ。私たちも暫くは此処で世話になっているから」

咄嗟に頷いた。服を貰ったらお仕舞いではない。まだイドと一緒に居られるらしい。僕はその可能性にすがり付いた。自ら行動すれば、イドを繋ぎ止められる。ならば貪欲なことも必死に求めるしかない。あの時言った、嘘だらけに埋まったたった一つの本当の事は、謀らずも今役に立ったようだ。本当に、僕にはもう身寄りはない。イドルフリート、貴方だけしか。





「妙なのに懐かれたな、イド」

もう夜遅いとメルを自分のベッドに寝かせ、隣の部屋に行くとコルテスが短剣を磨いていた。笑いかけてくる彼に応える気も失せて、ソファーに座り込んだ。子供の幼い顔を見たあとにこの男の意地の悪い表情を見ると疲れる。そう素直に言葉にすると、「酷いな」とコルテスは苦笑した。

「妙だが、良い子だな」

「何故そう思うんだい?」

「何でだろうなあ…なんとなく?」

それは理由になっていないだろう。訝しげに眉を寄せると、コルテスは鋭利な刃を机に置いて、私の横に腰を下ろした。じっと観察するように私の顔を覗いてくるので、気味悪さに後退しようとしたが肩を掴まれ叶わなかった。

「これを言ったらお前、怒るかもしれないけど」

「なら言うな」

「…あの子、お前に似ているな」

いつになく真剣に紡がれた言葉は、ずしりと心に響いた。返す言葉も上手く見付からなくて、コルテスから目を逸らして頬杖を付く。多少、私も同じことを考えていた。初めてではない、何処かで会ったような雰囲気。しかし少年に知り合いなんて数える程度しか居なかったし、それが何処かなんて思い出せない。

「雰囲気もそうだが、あの子、お前並に頭が働くようだ」

「…というと?」

「服が無いというのはおそらく嘘だ。さっきの服、汚れが真新しくて洗ったら直ぐに落ちたそうだ。本当なら、使い古されてるんだから汚れがそう簡単に落ちる筈がねーだろ。つまりあの子には目的があって、咄嗟に嘘を吐いた」

「…そうか」

「驚かないのか?」

「いや…そんな気がしていた」

勘のようなものだ。偶然にしては出来すぎていると思った。しかしそう察しながら、私は彼を屋敷に招き服を着せ仕事を与えた。何故と問われても答えに困るが、何故怪しまなかったのかと問われれば、それは彼が私に接触することに何の悪意も感じられなかったから。ただ会うことが目的なだけなような気がしたから。着替えさせている間に俯いた彼は、泣いているようだと思った。彼は私を知っているのだろうか。だとしたら何故私は、彼のことを全く思い出せないのか。

「でもあんな少年が刺客だとは考えられないし、もしそうだとしたらイドじゃなく俺を狙うだろ?」

「はは、間抜けな将軍よりも有能な私の方が狙う価値があったのではないか?」

「自分で言うな、自分で」

こつりと額を軽く叩かれる。慎重に動き何かしら疑いたがる彼だが、今回はそこまで危機感を持っていないようだ。相手が子供だからだろうか。いやおそらく、その子供の表裏が全く見えず疑いようがないのだろう。つまり同意見だ。私は立ち上がると仕返しに彼の額をパチンと指で弾いた。

「まあ、暫くは様子を見るよ。もし裏があったとしても、その裏から探っていけば良い」

「ああ、了解」

じゃあ飲むか、とコルテスは自分の机に置いてある空いたワインとグラスをソファーの前に並べておいた。何故其処に置いてあるのかはもう突っ込まない。作業する時も常に口を動かしている男である。今回も厨房からくすねてきたのだろう。とくとくと注がれる芳しい匂いを堪能しながら、ふいに故郷の風景を思い出した。彼処でも、同じような匂いを嗅いだような気がする。酷く懐かしく、切なくて、泣きたくなる記憶だった。
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