(人魚パロでコルイド)


青天白日。文句の付け所が無い良く晴れた日和。嵐の訪れから一晩経った。荒い風が暗雲を吹き飛ばしてしまい、空にはその名残が一切見当たらない。まるで最初から其処には何も無かったか様に空を覆う純白は、ありったけの絵の具の色を全て掻き混ぜた混沌を思い起こさせる。そして嵐の混沌を見る時もまた、その後に純白を取り戻すことを思い出す。目映い日射しは汚いものを全て洗い流したかのように振る舞うけれど実際はその輪郭を一時的に隠すのみ。神は天からは全てを取り除くが、地上には爪痕がくっきりと残される。嵐で破壊された船をどうにかして修復しようと港では船大工達が木材を掻き集めていた。当然予定していた航海は延期となり、水夫達は港に投げ出される。勿論修復まで待つわけにもいかないので別の船を探すことになるが、他の船も同様に嵐に踏み荒らされていて、無事な物はそう簡単に見つかりそうもなかった。

「…まるで神に海に出るなと言われているようだ」

酒場で愚痴を飛ばした所で何の解決にもならない。仲間から離れ和やかな潮風が滑る砂地を歩きながら、空に向かってぽつりと言葉を紡いだ。出航日に合わせた様に現れた嵐の為に、この数週間の忙しさが全て水の泡になってしまった。それとも、この天候の気紛れが出航後で無くて良かったと神に感謝の言葉を述べるべきだろうか。しかしそれは一緒の船に乗る筈だった僧が今朝十字を切っていたので良しとする。船長と呼ばれる俺も船が無ければ何もすることが無く、ふらりと嵐の痕が残った岸辺に足を踏み入れた。
小舟の残骸が此処でも波に飲み込まれゆらゆらと浮かんでいる。人の声も遠く、燦々と身を焦がすように照り付ける太陽のみが煩い。カモメが餌を求めて飛ぶ姿を視線で追い掛けると、切り岸が視界を覆った。目映い太陽の光で上まで霞んで見られない程高い断崖で、此処で見投げでもしたら水に入る前に周辺の岩に当たって生きて帰ることは不可能だろう。

「…嗚呼、ローレライだ」

古くからドイツで言い伝えられているという、悲恋に嘆いて見投げした少女。あれに挿絵が付くとしたら此処が相応しい。俺はその断崖を間近で見たくなって、ごつごつした岩場を踏むように近づいた。砂地が途切れていて浅い水の中を進むはめになるが、熱した砂の上を歩くよりはましだった。膝元まで浸かった水を掻き分けて段々と切り岸に近付く。
ローレライとは、元は古いドイツの言葉で「見る」そして「潜る」の意を表す。この岩山の様な岩にもローレライの意が付けられ、そこに住むという妖精にも同じ名が付けられた。その妖精とよく混合されるのがセイレーン。航海日誌にもセイレーンの名前が記されているものが数多く存在する。その多くは嵐によって海の底へ消え、歴史の闇に葬られた。頭の中をざわつくような、根拠の無い確信があった。その姿が伝承ではなく、現実に人の前に現れるとしたら。まるで見計らったかのように突然現れた嵐と、誘われる様に足を運び視界に映った断崖。これが偶然ではなく故意だとしたら。

「………人、間?」

岩影から身を乗り出して、俺は絶句した。崖下の砂場に埋もれるように倒れていたのは、ドイツの伝承でもエーゲ海の伝説でも無かった。上半身を砂場に乗り上げる様に俯せで体を横たえていた人間は紛れもなく若い男の容姿をしていて、下半身は海に浸かっており、何故か何も身に纏っていない。嵐で流されたにしては近くに彼の物らしき船も、その残骸も無かった。放っておくわけにもいかず俺は岩から飛び降りて、水飛沫を上げながら男に近寄る。顔色は悪く酷く疲れきった様子だったが、胸が僅かに上下していて息はあるようだった。砂だらけになった髪はそれでも美しい金色で、乾きかけた肩を無造作に流れている。何処の国の人間か確かめようと髪を掻き上げたが、其処から見えた頬に俺は目を見開いた。

「鱗…!?」

パッと手を放して慌てて後ずさった。触れた手を庇うように胸元に持っていき、丁度触れた十字架のペンダントを握りしめる。男の頬にある鱗は魚のそれと同じものだ。見る角度によって何色にも変わる美しい鱗は、今は太陽の光で金色にキラキラと輝いている。よく目を凝らすと頬だけではなく、肩や胸、腰、下半身にまでその人間ではない痕が所々刻まれていた。鱗を追うように視線を下にずらすと、海の中から肌色が透けて見える。それは伝承の人魚の様に魚の尾ではなく、普通の人間の足だった。それを見て少し冷静さを取り戻した俺は、ごくりと唾を飲み込んで再度男に近寄る。人外を見て恐怖心を抱きつつも、男の美しい容姿に惹かれていた。

「…何でこんなとこに居るんだよ、お前」

おそるおそる手を近付けて男の頬に触れる。鱗を撫でてみると、少しぬめっとしていた。魚を触った時と然程変わらない感触だ。何度か軽く叩いてみたが男の瞳は固く閉じられたまま開こうとしないので、足元の水を手のひらに掬い上げて男の顔に被せた。ぱしゃりと軽い水音がして、冷たさに驚いた男の瞳が開く。

「………あ」

綺麗だった。金の幕に縁取られている双眸は碧い宝石を散りばめた様な美しい色をしていて。俺は実際には行ったことが無いが、エーゲ海を描いた絵画に良く似た色をしていた。吸い込まれそうなくらい深い色を宿した瞳は、間抜けに口を開けた俺を捉え、花が蕾を開くようにパッと突然丸く開かれた。不味いと反射的に思ったのも手遅れで、彼は砂地に置いていた右手を握りしめて俺の目を狙って砂を投げつけた。

「っぶぁ!…ちょ、待て!やめろ!」

「……っ、…っ!」

「お前に危害加える気はねぇよ!頼むから大人しくてくれ!」

砂が入った目を片手で覆いながら彼の右手を押さえる。多少乱暴だがぐっと力を加えて砂地に縛り付けると、彼は抵抗するように暴れていたが、やがて力尽きたのか口をパクパクと動かすだけで大人しくなった。初めから弱っていたのだろう。でなければ、こんなところに居る筈が無い。

神話や冒険譚や口承で伝え聞いた所謂怪物と呼ばれる生き物をこの目で見たのは生まれて初めてだった。鱗だけではなく、金の髪の間から覗く少し尖った耳も人間離れしている。俄には信じ難いがこれもまた神が創りたもうた生命なのだろう。俺は周囲に人がいないことをざっと確認して、陸地から彼が陰になるように体を移動させた。掴んでいた右手を放してやり、海から顔を出した近くの岩に腰を下ろす。いくら人外だからといって人間と変わらない容姿をした、それも弱っている生き物を放っておくわけにもいかなかった。こんな場所に居たらすぐに別の人間に見つかって、最悪殺されるだろう。

俺が此処を動かず、手を出さない様子を碧の双眸はじっと見つめていた。彼は上半身を持ち上げようと身動いて、直ぐに腕の力を抜いて砂地に倒れ付した。地面を跳ねる魚のようだと譬えるにはあまりに弱々しく、僅かにも残されていない力で必死に人の目から逃れようと足掻いている。

「…みずを」

「え?」

手を貸すべきか、手を触れても大丈夫なのか。困惑していると、男はぽそりと蚊が鳴くような声で呟いた。その掠れた声は、若い人間の男と同じ若干低いテノールで。男が言葉を理解することが出来たという驚愕に目を白黒させながらも、ゆっくりと彼の言葉を頭で咀嚼した。

「飲みたいのか?真水なら、宿に戻らねぇと…」

「…違う。からだ、乾くから、海水を」

「乾く…?」

男の上半身を眺めて、漸く納得した。白磁のようにすべらかな肌をしているが、この国独特の強い太陽の光を浴びて所々痛々しく焼けている。人間なら耐えられるとしても、この男の体が水底を泳ぐ為に生まれてきたのだとしたら。

「ま、待ってろ!」

彼が弱っている原因を察知した俺は岩から飛び降りて、膝まで浸かる海水を手のひらで掬い上げた。溢れてしまわないように指の隙間を閉じて、男の体の上で手を広げて水を掛ける。ぱしゃりと音を立てた水滴は珠を作り、まるで肌に吸い付くように流れた。その光景にごくりと喉を鳴らしてしまい頭を振って邪念を振り払う。人外に欲情するなんて冗談じゃない。誤魔化すように直ぐにまた海に戻り水を掬い上げて、男の体に掛けた。それでも相変わらず彼の表情には苦悶が浮かんでいて、心なしか呼吸も苦しそうだ。

「…っち、埒が明かねぇ」

海を泳ぐような生き物に少量の水を掛けたところで何の解決にもならないのだろう。俺は羽織っていたコートを脱ぐと海水に沈めた。船を率いる立場になると決まって新調して貰った大切なものだが、背に腹はかえられない。隈無く水浸しになり重さを増したコートを引き上げ、それを男の上半身を包むように被せてやった。

「…どうだ、良い案だろ」

不思議そうに此方を見上げる男に笑い掛けると、彼はきゅっと唇を噛んで顔を伏せた。

「…君のような低能な人間を初めて見たよ」

「低能は余計だ。少しは楽になったか?」

「…ああ」

彼はぐっと肘をついて上半身を持ち上げると、体を曲げて砂地に座り込んだ。そのくらいの元気は出てきたらしい。ただどうして海水に戻らないのか不思議に思って尋ねると、彼はす、と海水にある片足に乗った大きな岩を指差した。

男の種族は仲間で行動することは少なく、大体は一生を海の中で過ごすのだという。だが真水でも綺麗であれば生きることができ、山間部の上流に生息するものもいる。また人間の目に触れることは少ないが、中には人に好意を持ち、人外を隠し人として生きるものも居るのだという。「鱗を隠せば人と然程変わらないからな」と男は説明した。確かに鱗が異様なだけで、尖った耳も目立つものではないし、他に違いがあるとしても指の間に薄い水掻きの膜が張ってある程度のものだ。人の言葉を覚えれば陸に上がることも可能だろう。

男は深海で過ごすことを好んでいたが、今回の嵐で浅瀬に引っ張りあげられて、運悪く崩れ落ちた岩に足を捕らわれてしまったのだという。目を凝らせば片方の足首から先が岩の下に消えている。夜中の間に抜け出そうともがいたが上手くいかず、潮が干いて太陽の日が強まると同時に体力も奪われたのかもしれない。その殆どない足と岩の隙間を確認して溜め息をついた。

「これはでかいな…俺の力じゃ持ち上がらねーぞ」

「…だろうな。一晩暴れても無理だった」

岩は俺の腰よりも大きく、間に挟まった小石で何とか苦痛は逃れているのだろうが、それでも抜け出すことは難しそうだ。男は目を細め、諦めたように嘆息する。他人事の様な言い方だった。もしこのまま抜け出せずにいたら、それこそ干からびて死ぬか、人に見つかって見世物になるか殺されてしまうのに。だが男の言葉とは裏腹に、腕を通したコートの袖をきつく握り締めるその白い手の甲は、死にたくないと叫んでいるように見えた。

「…お前、俺んとこ来るか?」

「…え?」

ぽつりと溢した言葉に、男は弾かれたように顔を上げる。

「いや、ほら…お前の種族って水さえあれば人間としても生きられるんだろ?俺、今度異国に行くために船に乗るんだ。船なら周りは海水しか無いし、船員たちも気の良い奴らばかりだ。まあ、ちとうるさいが」

「…ふね?あの木で出来た、大きな乗り物か?」

「ああ。お前海のこと詳しいし、良い仲間になれると思うぞ」

自分でも何を言っているのか分からなかったが口から零れる言葉は止まらない。何故か今日は合理的な思考が働かないらしい。衝動的にと責任逃れの言葉を付け足すのが一番合っているが、無理矢理理由を付けるのだとしたらきっと俺はこの生き物を手放したく無かったのだと思う。海に還してしまうにはあまりにも勿体無く、美しかった。魅せられてしまったのかもしれない。彼の前に手を差し伸べて、掴むように促した。彼は困惑したように俺を見上げ、次に手を見つめる。

「…人間は嫌いか?」

躊躇する彼を見下ろして言葉を紡ぐと、彼はふるふると首を振った。

「…嫌いじゃない。よく岸辺にいる人を見ていたんだ。地面に足を付ける生活は興味深いし、この言葉も人が喋っているのを真似た」

「頭良いんだな、お前」

ますます気に入ったと笑いかければ、彼は伏せていた顔を此方に向ける。金に縁取られた碧には水のような膜が張っていて、まるで泣いているようだと思った。

「…でも、私は歩けない。それに此処から出られない」

「俺はこの岩を俺の力じゃ持ち上げられないって言っただけで、お前を救えないとは一言も言ってないぞ」

「は?」

「まあちょっと見てろ」

持ち歩いていた剣と銃をベルトから外して岩場に並べて置く。初めて目にしたのか、男は興味津々にそれを眺めていた。俺はその武器の中から一丁の銃を選び、中に入っていた銀の弾を抜いて剣の横に転がす。頑丈で手に馴染んだこの銃は結構気に入っていたのだが、この際仕方ない。それを海水の中に入れてぐっと岩の間に差し込み、反対側の方に思い切り体重を掛けて踏みつけた。重い音を立てて石が少し持ち上がる。

「早く、足を退けろ…!」

「…っ」

俺の声で呆気に取られていた男は我に返り、引っこ抜くようにしてなんとか足を岩から引っ張り出した。同時に銃も音を立てて真っ二つに割れ、持ち上がっていた岩が元の位置に戻る。

「な、っな…今のは…?」

「梃子の原理ってやつだ。…あーあ…一丁無駄にしちまった。こりゃ怒られるな」

破片と化した銃を海水から取り出して溜め息をついた。もう使い物にならないしこれは此処に置いていこう。未だ呆然としている男に笑いかけ、挟まった足の治療をしてやろうと海水に目をやった。しかしそこには人間の足は見当たらず、驚愕に目を見開く。虹色に揺らめく鱗が臍の辺りまでを覆い、いつの間にか男の人間の足は魚の尾鰭と変化していた。水の中と太陽の光を反射する鱗はそれぞれ違う色に輝いていて、其処を這う水の雫石さえ美しい。正しくそれは伝説に見た人魚の姿だった。

「…お前、本当に人魚なんだな…」

「……だから言っただろう。歩けないと」

少し気恥ずかしそうにコートを握り締めて、男は砂地から海水へと戻る。上半身についた砂を海に潜ることで気持ち良さそうに洗い流していた。透明な海水の中で、虹色の鱗がきらきらと輝く。俺はそれを追い掛けるように水飛沫を上げて男に近付き、彼に聞こえるように声を上げた。自分でも動揺しているのが分かるほど声が間抜けに引き吊っている。

「でも、さっき足があったじゃないか。陸に上がると尾鰭が足に変わるのか」

「そう、だが」

何処か歯切れ悪く男は応えた。おそらく彼は人魚の姿を人に見られるのは初めてなのだろう。そう気付くと、動揺と共に独占欲に似た興奮も沸き上がってくる。

「…なあ、さっきの船へのお誘い、救助が交換条件だって知ってる?」

「…聞いてない」

「言ってねーもん」

「ズル賢い」

「それが人間だ」

「私は、このまま逃げることも出来るのに」

水面から肩だけを出して、此方をじっと見つめる。警戒しているのか彼は一定の距離を保っていた。人間ではないと言うけれど、警戒心を持っているだけで中身は十分人間らしい。俺は岩に座り直して彼の応えを待った。

「人間は私たちのことを人魚と呼ぶが、私たちは君達が抱いているような繊細で儚い生き物ではない。この肉体を食べても不老不死にはなれないし、声で人を惑わすこともできない。太陽の光を浴びたら干からびてしまうだけの生き物だ」

「だから陸に連れ込む価値は無いと言いたいのか?悪いが、俺はそんな大それたものには興味無い。お前を気に入ったから自分の物にしたいだけだ」

「…人間は強欲だな」

「お前はどうなんだ?俺はお前の良い話し相手になれそうに無い?」

口説き文句としては少しばかり華が足りないが、相手が女でなければ言い方も変わる。美しいといっても彼はやはり男でしかなく、人外といっても困った時に眉間を寄せたりするその表情は人間と相違無い。彼は長い睫毛を伏せて一瞬困惑した表情を隠すと、ちゃぽんと軽い音を立てて水の中に姿を消した。嗚呼、相容れなかったか――そう落胆した瞬間、目の前の水面から金色が顔を出す。保っていた距離が一気に縮まった。

「…上着が、」

彼は俺の座る岩場に乗り上がると、海水につけていた尾鰭をゆっくりと持ち上げる。空気に溶けていくように鱗が崩れ落ちて二本の白い足が岩場に乗った。彼は目を見開く俺の横に座り直し、上に着ていたコートの前開きを手で閉じる。

「この上着が気に入ったから、まだ借りることにする」

ぼそぼそと紡がれた言葉に俺は思わず口元を緩ませた。下手くそな誤魔化し方をいとおしく思う。多分、さっきの大それたものには興味がないというのは嘘だ。この人間離れした人魚のきらきらと輝くものが、俺は大層好きらしい。髪も瞳の色も鱗も全て宝箱の中に大事に取っておいてしまいたくなるような美しさ。彼が横に並ぶと透けた水のような匂いが鼻孔を擽り、先程抱いた邪念が気の迷いではないことを自覚した。嗚呼きっと俺は、厄介なものに囚われてしまったのだろう。ぎゅ、と袖を握る男が可愛く見えて苦笑する。

「それは上官が着るものだぞ。唯の水夫が着てたらかなり目立つ」

「上官?」

「船を動かす責任者だ。船長や、一等航海士とか…あ」

口にして気付いた。

「お前、航海士になれ」

「航海士?」

「船の甲板部に居て、船の位置を測定したり、操縦者に指示を出したり、あとは荷役の監督をする仕事だ。どうせ暫く航海は無いし、お前頭良いからその時間で覚えられる。それに海の勘は人間の比じゃないだろ?こんな人材何処探したって見つからない…!」

「…?」

きょとんと首を傾げる男に構わず、俺は彼の手を取って破顔した。最後の最後まで役立つ航海士が見つからず、自分が代わりに仕事をするしかないのかと頭を悩ませていたところだった。普通の人間に叩き込むよりも、海を知り尽くしたこの男に仕事内容を教える方が断然楽だ。そうと分かると俺は歓びで心を震え上がらせた。神が彼を俺の元へ届けるために嵐を起こしたのなら、俺は明日朝早く教会へ行って感謝しよう。本当に素敵な落とし物だ。期待していたローレライよりも、セイレーンよりも、きっとこの手に馴染む生き物だろう。握られた手を不安そうに眺める男の肩を抱き、人間としての友情を表すと、ほんのすこしだけ彼は頬を弛ませた。肩に入っていた力が解ける。

「…そっか、名前聞いてなかった。何て言うんだ?」

友情のついでに名前を呼ぼうとして、大切なことを思い出した。人魚に名前はあるのかと疑問に思いながらも尋ねると、彼は僅かに顔を上げる。

「イド、イドルフリートだ」

「イドか。俺はエルナン・コルテスだ。よろしくな」

「…えるなん?」

「ああ。あ、今は良いけど船の中ではコルテスって呼べよ。変に誤解されるから」

あまり良く理解出来ていないままイドは首を縦に降る。それを見てぱしりと彼の肩を叩いた。足場に気を付けながら立ち上がり、未だ座り込むイドに手を差し出す。すると彼は一瞬戸惑うように視線をさ迷わせたが、おそるおそる右手を手のひらの上に乗せた。鱗の残った甲が太陽の光を浴びて輝く。まるでそれは彼の機嫌を表しているようで、俺は自然に心が軽くなった。動物の様に毛並みで機嫌を伝える生き物なのかもしれない。若干冷たい腕を引っ張り体を持ち上げると、彼は二本足震わせながらなんとか地面に立った。がくがくと小刻みに震える膝を腕で支えてやりながらゆっくりと前進する。彼はぐっと息を呑み、数歩だけ足を動かした。しかしすぐに力が抜けてがくりと前屈みに倒れ、俺は咄嗟に彼の体を全身で受け止める。

「はは、上手い上手い。航海法より先に歩く練習だな」

「…すまない」

申し訳なさそうに腕に掴まるイドを酷く愛しく思ってしまう。そんな自分に苦笑して、彼の頭を支えると足裏に手を差し入れて横抱きにした。宙に浮いた体にびっくりしたのか、イドの体が跳ねる。

「えっ、エルナン…!?」

「今日はこれで帰るぞ」

足をばたつかせるイドを大人しくさせるために頬にキスすると、彼は「ひっ」と悲鳴を上げて石になったかのように固まり動かなくなった。人魚って初なんだなと半ば的外れな感想を抱きつつ、俺はこのお姫様を自分の住処に持ち帰ることにした。



―――
"Ich weiss nicht was soll es bedeuten" タイトルはハインリヒ・ハイネより。
人魚イドさん出会い編。


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