右手の人差し指をピンと立て限界まで腕を伸ばすと、目の高さまで上げた。片眼を瞑って前方をしっかりと見据える。遠方に居る人物と立てた指の大きさを比べて、ベルナールは首を傾げた。

「どうしたベル。新しい遊び?」

そうした奇怪な行動に出ると、物好きな男が声を掛けてくる。彼は切れたロープを結び直し襤褸になった帆を修繕する作業に奮闘している船員たちを飛び越えて、ベルナールに示すように片手を上げた。隠そうともしない好奇に満ちた瞳に、彼は溜め息をつく。

「アルさん、持ち場に付かなくて良いんですか?」

「水樽の見張りのこと?退屈だから代わってもらった。力仕事のが向いてるし」

「まあ、確かに見張りするだけ無駄かもしれないですけどね…」

だからと言って他の仕事を熱心にしているという訳でもない様子は相変わらずだ。ベルナールも他人のことは言えないので、喉まで出掛かった言葉を飲み込む。自分を棚に上げてまで説教をする気にはならない。彼はアルバラードが促すまま、仕事もほったらかしにして気をとられて居た方向を指差した。闇に溶けた空気の向こう側、舵の近くに設置された立燈式のランタンがぼんやりと映し出したのは、コンパスで方向を確認している一等航海士だった。

「…イド航海士がどうかした?」

示された方向を眺めてみたのは良いが、ベルナールの奇怪な行動とイドルフリートが結び付かずにアルバラードは訝しげに眉間に皺を寄せる。大体航海士の持ち場は彼処が常であるし、本人にも特に変わった様子はない。相変わらず美しい金の髪を風に靡かせて、じっとコンパスと水平線の向こうを見つめていた。
未だ良く理解が出来ていないアルバラードの為に、ベルナールは濡れた床を移動し彼に顔を寄せて、二人の視線の先に指を二本揃えて突きだした。それは眼前に居るイドをすっぽりと覆うことで彼の姿を消す。

「良いですか。5日前…嵐が来る前は、この位置から見たイドさんの体格はこの二本指に丁度収まるくらいだったんです」

「ほぉ」

頷くアルバラードに、ベルナールは指を一本減らした。

「それが見てください、今では一本の指でちょっとはみ出るくらいの体格ですよ。アルさん、この現象をどう説明しますか?」

「……遠近法だろ。見る距離が5日前より遠くなったから」

「見る場所は変えてないです!つまりイドさんがこの5日間で尋常じゃなく痩せたんですよ!」

珍しく大声を張り上げるベルナールになんだなんだと床に張り付きながら仕事をしていた船員たちが近寄ってきた。ぎょっとして固まる本人を尻目に、アルバラードは集り始めた船員たちをそれぞれの持ち場へと追い返す。

「よく考えろよ。この船の檣よりも図太い神経したイドが、数日の嵐くらいで物も食えん程の神経衰弱に陥ったとでも?」

「その嵐くらいで気をおかしくした船員が何人居ると思ってるんですか。元から細い人だなと思ってましたけど、今回ので更に拍車が掛かってますよ」

「言われてみれば痩せてはいるけどな」

アルバラードも指を立てて遠目のイドに重ね合わせた。ベルナールと手の大きさも指の太さも大分違う彼の人差し指は、簡単にイドの姿を隠してしまう。わざわざ確認するベルナールも男にしてはかなり細かい性格だと思うが、確かに五日前より目に見えて痩せていた。
アルバラードが笑い飛ばす嵐は、決して生易しいものでは無かった。黒ずんだ厚い雲が上からかき混ぜられたかのようにぐるりと乱れ太陽をすっぽりと覆い隠し、手元の時計が昼を指している時も真夜中の様な暗さだった。湿った空気で綿糸は使い物にならなり、そうなると当然カンテラの灯火が無くなる。視界が働かないまま船上に上がってきた波を何度も汲み上げ海に戻し、傾く甲板を行き来する為に身体にロープを巻き付ける者も居た。波に浚われて行方が分からなくなった者も、残念ながら何人か居る。峠を越えた後も絶えず揺れる船の不安定さに体調を崩した船員は決して少なくない。だがアルバラードには、どうしても嵐がイドの神経を衰弱させているとは考えられなかった。何故なら前回の航海でもっと酷い嵐に遭った時にも、彼は一度も慌てることなく見事船を正しい航路に導いていたからである。多少疲労はしていただろうが、特に体型が変わるようなことはなかった。

「今回の嵐の時も、波と一緒に上がってきたでっかくて気持ち悪ィ魚両手に抱えてさ、『釣りする手間が省けたな!』って笑ってたんだぞ。嵐よりあいつのが鬼神じゃねぇの」

「…それはまた、凄いですね」

どうコメントすれば良いのか分からずにベルナールは顔をひきつらせる。アルバラードはガンポートに設置された大砲に跨がって、「だろ?」と同意を求めながら掌の上でくるくると弾を弄った。

「ストレスで絶食なんて、あいつに限って有り得ないだろ。それにどちらかと言えばストレスで食うタイプだ」

「じゃああの痩せ方は一体…」

「船医に任せとけよ。お前が心配することじゃない」

「アルさんって尤もなこと言いますけど、ただ面倒で投げてるだけっていうのが透けて見えますね」

「手厳しいなー」

軽く睨み付けてくるベルナールに、アルバラードは大砲の上でケラケラと笑った。ベルナールの視線から逃れるように体を後方へ倒し、舷側に頭を寄せる。弾を箱に戻すと、今度は大砲の横に巻き付いたロープを弄り出した。手元が忙しい男である。

「仕事も手につかない程心配か?アルバラード、ベルナール」

ふと背後から聞こえてきた声にベルナールははっとして後ろを振り返った。濡れた甲板を踏み歩いて近づいてくるのは丁度船長室から出てきたばかりのコルテスだった。彼は手元に持っていた外套を羽織って腕を組む。唐突の船長の登場に、眠たげに帆や縄を弄っていた船員たちは打って変わって真面目に仕事に集中し始めた。全く現金な人間ばかりである。呆れた表情を隠しもしないコルテスに、アルバラードも例に漏れずあわててロープに結び目を作った。

「いや、ロープが解れていたから縛り直してたんだよな、ベル!」

「いえ水樽の見張りが面倒で甲板に上がってきたそうです」

「裏切り者!お前だって修繕作業全然やってねぇじゃん!」

「やってました!貴方が邪魔してきたんです!」

「嘘つけよ最初っからイドばっか見てたじゃねぇか!」

「あーはいはいうるせぇ罪の擦り合いすんな」

コルテスは合間に入って喧嘩両成敗だと言いたげに二人の頬をつねった。決して軽くない痛みに二人はぴたりと言い合いを止める。大砲からずり落ちて床に座り込んだアルバラードと、未だ痛む頬を抑え込むベルナールの間に屈んだコルテスは、頬杖を付きながら暇そうに欠伸している船首のイドを見上げた。

「お前たちの言うように確かにあいつは痩せたよ。それも物を少量しか食べないというより、食べられなくなったという方が正しい。夕食後に吐いてたしなあ」

「…それって結構重症なんじゃないですか」

「本人は触れて欲しくなさそうだったから放置してたが、部下に悟られる様じゃ潮時だな」

上司の噂話に花を咲かせる船員を咎めておきながら、この船長も随分気になっていたらしい。こうして会話に首を突っ込んできたのが何よりの証拠だ。コルテスは立ち上がると、未だ座り込んでいる二人を見下ろした。彼らしい意地悪い笑みを浮かべながら、イドの方を示す。

「ベルナール、シーミングは後だ。アルバラードもブランケットを持って着いてこい」

「…は、はい!」

「治療か?」

「そんなとこだ。船医に掛かる気が無いなら俺が直接原因を探り出してやる」

別に不穏なことは何一つ口にしていないのに、只成らぬ恐ろしい何かをこの男から感じ取ってしまうのは何故だろう。口元を三日月のように歪め笑うコルテスを視界に入れた二人は、顔を見合わせると冷や汗を浮かべながら苦笑した。


―――
オチは魚に当たっただけって話だよ!
それにぶち切れたコルテスが胃痛治してやるってイドさんの足裏のツボ押してあまりの痛さにイドが悶絶する話だよ!
痛がるイドさんのあまりの性的さにドン引き(コルテスに)するアルとベルの話でもあるよ!

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