『Haw l'altero l'altero! Haw l'altero l'altero hoo! hoo!』

掛け声のような歌声がカモメの鳴き声に混じって高らかに響く。陽気な歌だ。朝食前の重々しい讃美歌より、よっぽど好感が持てる。良い歳した荒くれ者の男達が声を揃えて楽しそうに歌う様子は何処か懐かしいものだった。
リズミカルな曲に体が疼き出す。モップは何処だ。躍り回りたい。久々に大声を張り上げて歌いたい。うずうずと沸き上がる欲求に従って、男は閉じていた目を開いた。

「「………」」

ぼやけた視界に映るのは、雲一つない青空と太陽を遮るように影を作る、二人の海賊。見覚えが全くない海賊達が鼻がくっつき合うくらいの距離で眺めてくることに気付いた男は、叫び出したくなるのを耐えて咄嗟に後ずさった。その唐突の行動に海賊達も驚きに固まり、男は一度脱臼した肩を押さえて悶絶する。

「………っ」

「あの、大丈夫か?」

「お前さん、あちこち怪我してるんだ。無理に動かない方が良いぜ」

そこで漸く男――イドルフリートは、自分が意識が落ちる前に対立していた海賊船に乗っていることに気付いた。後頭部の痛みが現実を語っている。どうやらあのまま拐われた様だ。しかしそれにしては、コルテスがイドを封じるために縛った手首の縄が解かれているし、此処は牢獄ではなく甲板だ。イドは自由な両手をまじまじと見つめ、次に妙に迫力の無い海賊達を見上げた。一人は痩せっぽちで背が小さく髭が何処と無く胡散臭い。もう一人は背が高い、と言うよりはでかく、肌は焼けて褐色、全身筋肉質だ。対称的な体型をした二人が何処か怯えを交えた視線をイドに投げ掛けている。拐われたのは此方だというのに、まるで立場が逆になったようだ。

「お頭ァ。例の男、目を覚ましましたぜ」

胡散臭い方の男がイドを越えた前方に視線を投げ掛けて叫ぶ。それにイドが反射的に振り返ると、先程一戦交えた女海賊が金髪を振り乱して階段を上がってきた。

「よぉ…気が付いたかい?」

「…此処は…いや、君は」

イドの瞳が動揺に揺れる。その視線に彼女はにこりと笑って応えると、未だ手を付いたまま起き上がれずにいるイドの傍に屈み込んだ。

「此処は<Atlantico>この船は<Venus laetitia>あたいはこの船の船長…」

「レティーシア、どうして君が此処に居るんだ」

「…最後まで言わせなよ、イドルフリート」

はぁ、とわざとらしく大袈裟に溜め息をついたレティーシアは少しばかり乱暴にイドの肩を小突く。女とは思えない力加減にイドは思い切り顔を歪めた。ずくずくと痛み出す骨を庇うように腕を回す。

「…痛い」

「そりゃあ、このレティ様相手にあんだけ暴れまわればね。骨がイッてないだけ運が良いよ。それより驚いたよイド、まさかあんたがスペインの船…いや、あのエルナン・コルテスの船に奴隷としてこき使われていたなんて!」

「…奴隷?誰がそんな出鱈目を」

「違うのかい?縛られていたじゃないか」

露骨に嫌そうに眉をしかめるイドに、レティーシアは嫌味なく素直に疑問を抱き首を傾げる。

「今私はあの船の航海士だよ。奴隷なら君たちが船を襲うのに乗じて逃げるか加勢する。縛られていたのは、その…いや何でもない」

「歯切れ悪いね。仲違い?」

「…どうとでも」

「まあいいよ、それより久々の再会じゃないか。会えて嬉しいよ。黄金を求めて船を襲ったのに、同じ黄金でも昔馴染みが奪えるとは思わなかったね」

「君も相変わらずの良いポテンシャルで何よりだ」

レティーシアは自分の人差し指にイドの金髪を絡ませてするすると解けていくのを見送ると、握手を求めてその手をイドの前に差し出した。久々の再会での抱擁はさせてくれないらしい。イドは眼前の手を見下ろし自分の右手で掴もうとするが、レティーシアの手をかわすと彼女の胸元へと移動させた。だが届く前にばしんと盛大な音を立てて手の甲を叩き落とされる。

「うちの船長の拳骨より痛い…っ」

「怪我してない場所を狙ってやったんだ。有り難く思いな」

真っ赤に染まった甲を撫でながら叫ぶイドにレティーシアは眉をしかめて腕を組む。仕方なくイドは調子を確かめるように起き上がった。此処で寝かされているということは、そう長く眠っていたわけでもあるまい。太陽の角度の変化も微々たるものだ。
イドは視線を天から床に落とし、一緒に転がらせていたコートとベルト、ホルダーを次々と身に付けていく。剣がこの場に無いのは彼らがイドを警戒しているのではなく、向こうの船の武器庫に置きっぱなしにしていて元々身に付けていなかったからだ。海賊は武器庫を襲ったようだし、頼めば強奪品の中から素直にイドのものを探し出してくれるだろう。
掲げられた黒い旗は昔と代わらない。流石に乗組員には見知らぬ顔が多いが、船長自体は昔のままだ。

レティーシアとイドの出会いは数年前に遡る。まだイドが青年に成り立てだった頃、乗っていた貿易船が嵐に襲われた。異教徒の国に品を運ぶ途中だった。乗組員は皆成す術も無く波に拐われて、怒りが収まらない海に囚われ藻屑となった。しかしイドは助かった。木の板にしがみつき、離してなるものかと意地で生きていたのを、嵐が去った日に海賊の船長に拾われたのだ。これが北海だったら寒さに耐え兼ねて凍死していただろうねぇと彼の不運を笑い飛ばした気の良い海賊の頭は、その後イドを乗組員の一人として船に迎え入れた。陸に着くまでの数ヶ月の時間だったが、命の恩人の記憶はしっかりと彼の中に刻まれていた。そしてレティーシアも、海の機嫌や風の気紛れを読み取るイドの先天的な能力を気に入っていて、数年経った後も彼を忘れていなかった。

「レティ、君は確か私と別れる前は地中海から出たことが無かったが、どんな気紛れを起こして此処に居るんだい?」

「さてねぇ、時代じゃないかい?」

「時代?」

きょとんとイドは首を傾げる。レティーシアは腕を解くとイドの首に掛かる十字架を手で弄ばした。

「最近ここら一体を皇帝が仕切るようになってから、国の中でのやり取りは活発になって味方同士の船が交差するようになったんだ。代わりに異教徒との貿易は減った。落ちぶれた地中海の覇権争いに巻き込まれるくらいなら、もっと利益を生む海に渡るべきだと思ったのさ」

「此処なら利益が得られると?」

「…どちらにしろ海賊には住みにくい世の中になったよ」

それはイドも大体は察していた。国によって拿捕された海賊船なら飽きるほど見てきたし、港町で絞首刑に処せられる海賊達を見させられたことも多々ある。吊るされた女傑を見たときは自然とレティーシアの無事を祈った。
国の船がうようよ居る地中海にいるくらいなら、いっそ別の海に出て一攫千金を狙う。大量に黄金を積んだと噂されるコルテスの船を襲ったのはそういう理由だ。もっともそれは私掠船を拿捕する為にコルテスがばら蒔いた虚構であり、僅かにしか乗せていなかった黄金もフランスの貿易船にすべて渡してしまった。彼らが黄金の代わりに得たのは武器とイドルフリートという航海士のみ。レティーシアがイドを連れていくよう命じたのは彼をスペイン船の奴隷だと誤解して自分の船に引き込むべきだと判断したからだが、一番の理由は単純に久々にイドと話したいと思ったからだった。

「とにかく、あんたが奴隷でも何でも無いなら、無理にあたいらの船に引き込むつもりもないさ。無い黄金との交換条件も馬鹿馬鹿しい話だ。出ていきたいときに行けば良い。でも、島に着くまでは一緒に来てもらうよ」

「どの島に向かっているんだ?」

「船長室で話す。暫くは航海士として此処で働いて貰うから覚悟しときな」

友人から海賊の頭の表情に戻して、レティーシアはイドに背を向けた。未だ悲鳴を上げる身体を叱咤しながらイドもその後をついていく。階段下には海賊たちがびっしりと詰まっていて、興味深そうに彼女たちのやり取りを眺めていた。イドはその光景にぎょっとするが、レティーシアは慣れてるのか大きく溜め息をつくだけだった。

「見せ物じゃないよ!野郎共持ち場に付きな!」

手で虫を払うかのように屈強な男たちを散らす様子は昔と全く変わらない。イドは懐かしいその光景に苦笑しながら、その中で不安そうに此方を見てくる少女の存在に気付いた。

「レティ、あの娘は?」

「アニエス。昔のあんたと同じ様に嵐に巻き込まれたのを拾ったんだ。さっきの気兼ねしてるみたいだから後であんたから話し掛けてやりなよ。それと、この船に乗るからにはあたいのことをお頭と呼びな」

「……お頭、多分アニエスとやらの腕力はある意味君より強いんじゃないかな」

「あんたよりもね。ああ、触らない方が良い。見事なたんこぶが出来てるよ」

後頭部を撫でようと腕を動かすイドを振り返らずに咎めてレティーシアは船長室に入っていく。イドはちらりと少女に目をやると、レティーシアの後を追って室内に入った。




馬鹿なことしたなあと思うが、過ぎたことを悔やんでも仕方ない。後悔することを分かっていてもきっと同じことを繰り返すのだと思う。彼を贔屓したい訳ではない。そんなことは彼も望んでいない。だが、あのまま彼を放置しておくと、そのまま消えていってしまいそうな気がして。怖かったのだろうか。今どんな感情が渦巻いているのか分からなかったが、気持ちが良いものではないのは確かだ。

「それ、まるで恋みたいですね」

「…縁起でもない。やめろ」

「だって、傍に居ないと不安で、叶わないならせめて安全な場所に閉じ込めたいんでしょう」

「あの怪我で暴れられたら縛っとくしかないだろうが」

「…イドさんに死んでほしくないんでしょう?」

それは、そうかもしれないが。
ベルナールの指摘にコルテスは机に顔を伏せた。この恐怖は喪失だろうか。胸に渦巻く嫌な感情は不安からか。
恋と言われてもピンと来ない。女になら腐るほど甘い台詞を吐いてきたし、擦りよってくる女は大体皆可愛いと思って抱けた。結婚もどうせ血筋で選んだ品のある女とするんだろうと思っていたから、童話のような恋愛に期待したことなんて無いし、頭の隅にも置いていない。愛しいとか切ないとか、そういう気持ちを味わったことが、思い返せば無かった気がする。恋だと認識出来ないのはそもそもその感情を知らないからかもしれない。それでも改まってイドに恋しているのかと考えたら鳥肌が立った。それは無い。ただの笑い話だ。本人に話したって熱の有無を心配されるに決まっている。

「大体、何故あいつはあんなに派手に怪我してるのに安静にしてられない!?私掠船の時もそうだ。へまして捕まったのなら拷問される前に逃げれば良かっただろう!その技量もあるんだから、俺達を待たずに海に飛び込むべきだった!」

「…まあ、それは確かに将軍の言う通りですけど」

今まで溜めていた鬱憤を晴らすかのように捲し立てるコルテスに、ベルナールは圧倒されて思わず頷き返した。イドの主張とコルテスの言い分が彼の頭の中で交差する。何故毎回貧乏くじを引いてしまうのか疑問だが、それがベルナールという男の性質なのだろう。コルテスは溜め息をついて机の上に方位線や重視線がたくさん引かれた海図を広げた。彼がベルナールを呼んだのは、航海士の代わりに航路を伝える為だった。

「…でもイドさんは、貴方に保護されるのを酷く嫌うと思います」

「…お前はどっちの味方だ」

「まるで将軍とイドさんが敵対してるような言い方ですね」

「もういい。相談する相手間違えた」

しっしっと追い払うように手を振るコルテスにむっとして、ベルナールは目の前の海図を指差す。するとコルテスは押し黙った。不貞腐れた様子が子供のようだと苦笑する。

「…イドさんは、貴方が思っているのと同じくらい、貴方を喪うのが怖いんですよ」

「そうヤツに言われたよ。将軍が死んだら全軍死ぬと思え、ってな」

「そうじゃなくて」

「ベルナール、もう良いだろ」

聡い彼のことだから何かしら察してはいるのだろうが、今はイドのことを掘り起こしたくは無かった。少し強めに言うと、ベルナールは大人しく口を閉じる。「…臆病者」と小さく罵られたが、聞かなかったことにして海図に目を下ろした。海賊船が通ったであろう場所を指でなぞる。

「明日…いや、今日の夕方にみんなに船の物を出来るだけ海に捨てるように伝えてくれ」

「捨てる…?そんな、食料や水もですか?」

「船を軽くするんだよ。正直、この状態で海賊船に追い付けるとは思えない。此方には怪我人も多いから、出来るだけ海戦に持ち込みたいんだ。大砲は此方の方が多いし、無謀でも、船上での戦いなら向こうに乗り込んでイドを救出するくらいの時間稼ぎさえ出来れば」

「ちょっと待ってください。食料まで捨てたら私たちが餓死します」

「だから早く追い付きたいんだよ。食料や水は直ぐに手に入る。だが、陸で戦うのは少し厄介だ」

「…つまり、海賊船が逃げた先に島があると…?」





「……島?」

「そう。この方向に進むとかなりの流速の海流に乗る。その流れに乗って進むと、この無人島に着くようになってる。あんたの船もそれを分かって追ってくるだろうさ」

「…何故その島に?」

「水補給だよ。あのスペイン船から奪おうと思ってたのに、あまり手に入らなかったみたいだから」

「へぇ」

他人事のように頷きながら、イドは机に広げられた海図を指でなぞる。コルテスと部屋で話し合っていた時の船の位置と、方向を変え今向かっている航路。頭の中で時間と風の速さを計算して、ふむと頷いた。

「その島、多分明後日の朝方に着くだろうね」

「…計算ではあと4日は掛かるつもりだったんだけど、何故だい?」

「良い順風だ。そろそろ帆いっぱい膨らむよ」

にこりと笑って応えると、レティーシアは口角を上げた。

「さすがだね」

航海士としての技量は全く衰えていないようだ。レティーシアは友人にするようにばしんとイドの肩を叩く。今度は好意を示しての行為だが、余程痛かったようでイドは膝を折って肩を庇うように屈み込んだ。

「………君は少し自分の腕力の強さを自覚するべきだ」

「船長の拳骨より痛いんだっけ?其処まで力入れてないのに、コルテスってのは軟弱な野郎かい」

「君が規格外なんだ!」

涙目で叫ぶイドを視界に入れつつ、レティーシアは笑った。身体は多少大人らしくなったが、精神年齢は出会った時と大差ない。時々子供らしく突っ掛かってくるイドのことは、からかうと結構面白かった。今はコルテスという船長の所有物らしいが、機会があれば此方側に引き込んでやりたい気もする。レティーシアは海図を広げた机に乗り掛かり、向こう側で肩を抱えているイドと目を合わせた。唇が意地悪く弧を描く。

「イド、そのコルテスとやらに飽きたら此方来なよ。あんた使えるし、悪いようにはしないからさ」

「………考えとく」

直ぐ様拒否されるかと思いきや、返ってくるのはそんな応えでレティーシアは目を細めた。これは何かあったのだろうと勝手に推測する。コルテスに手を縛られていたくらいだから、仲違いというのも強ち間違ってはいないのかもしれない。まるで逃げ場所を求めて帰ってきた犬を保護しているような気分に陥ってしまう。その犬も結構利口で手放したくなくなるのもまた厄介だ。レティーシアは苦笑し、机を回って弱って踞る犬の毛皮を撫でてやった。イドは髪を擽る感覚を甘んじて受け入れ、上手くいかない自分の飼い主を想って重く溜め息をついた。



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