一口。たった一口だった。注がれた酒を口にする私も大概警戒心の足りない低能だが、相対の男も同じものを口に含んでいたから疑いようが無かった。だが今更言い訳がましい事を繰り返しても何の解決にも成りやしない。
一体何を仕込まれたのだろう。口にした瞬間味の違和感に気付き、それからは一切手を出していない。しまったと思ってから体に異変が起こるのは早かった。拙速に回る毒に表情一つ変えずに耐え抜き、相手の会話に受け答えたあの時の意地を、せめてあと数分はもってくれないだろうか。覚束無い足取りで真夜中の港町を歩きながら自分に言い聞かせた。自我を失うほどアルコールに酔うことはあまり経験したことが無いが、今の体調はそれに近いかもしれない。まともに思考が働かない。体は火照り、まるで別の生き物になってしまったようだ。月の無い宵を照らす街灯がぼんやりと視界の中で滲む。そもそも私は、一体何処を目指して歩いているのだろうか。用が無くなった今、あの男からは出来るだけ遠ざかりたいという僅かな理性だけが足を動かしている。もしあの場で意識を手放していたら何をされるか分かったものじゃない。

「…く、そ……吐きたい」

頭を終始金槌か何かでガンガン叩かれているような痛みが断続的に続く。胃液がぐわりと喉に込み上げてきて、寸でのところで息を止めて耐える。しかしそれもいつまで持つか分からない。未だ動ける内に、路地裏に移動して胃の中を空にしようと踵を返した。

そこで、意識が途切れる。

頭の痛さは夢の中でも続いていた。ような気がする。分からない。だけど吐き気は少し収まっていた。なら無事に路地裏に辿り着けたのだろうか。夢に片足突っ込んだまま五感を働かせる。路地裏に倒れているなら冷たい風が身を覆っていてもおかしくないのに、何故か体は温かいものに包まれていた。ふわふわした柔らかい感触が指に触れて、引き寄せる。頬に当てるとどうやらそれは毛布のようだった。まだ夢の中に居るのだろうか。さっきまでは苦痛に埋め尽くされて惨めだったのに、此処はひどく優しい。

「イド」

名前を呼ばれる。声が聞こえたのかは曖昧だったけど名前を呼ばれたことだけは意識する。返事をしようと唇を動かしたが声にならなかった。いや、本当はきちんと喋れていたかもしれない。辛いか?と声は問い掛けて、つらくないよと私の意識は答えた。体が温かかったから、辛くは無かった。

「嘘つけよ…」

「うそじゃないさ」

段々と声が明確になる。呆れたように呟く声の方向に目を遣ると、コルテスがシャツ一枚の薄手の格好で私を見下ろしていた。何でこんなところに彼が居るのか分からなかったが、夢だと思ったら合点がいった。私のような人間も弱ると救いのある夢を求めるらしい。まるで童話の中の、寒空の下で摺付木を摺り続ける少女の様だ。

「…ああ、じゃあ…このまま、しんでしまうのかな」

「何言ってんだよ」

縁起でもない、とコルテスは吐き捨てる。きちんと声が届いているようだった。
マッチの灯火が理想を描いてくれるのなら、コルテスがこの場に居てくれることが、私の理想なのだろうか。暖かい食べ物も酒も暖炉も、喧騒な海も船も必要とせず、彼だけを求めているのだろうか。ゆるりと腕を動かして、彼のしかめられた眉間に触れる。私を前にすると出てくる不機嫌な表情だけは妙に現実的だ。笑ってほしいな、とねだるように口角に触れた。コルテスは驚いた顔をして私を見下ろした。段々コルテスを中心に視界がはっきりとしてくるのに、彼を抜いた背景だけば朧気だ。

(…好きなんだろうな)

働かない頭の中で考える。普段感じることは無いのだけど、おそらく私はこの男が好きなんだろう。目の前に居ると満たされるような、そんな好意を彼に抱いている。
薬が回った頭ではろくなことを考えられない。抱き締めてほしいと思ったから手を伸ばす。キスしてほしいと思ったから唇をなぞる。言葉を使っていないのに、コルテスはその仕草の意図を全て理解して応えてくれた。普段なら言葉を使っても思考が擦れ違ってしまうのに、今はなんでも読み取られてしまう。嗚呼本当に、此処は私が作り出した夢なのだ。自分の願いが叶うとひどく満たされた。抱かれた腕の温かさに浸り、胸板に顔を押し付けながら思う。

「………コルテス」

確かめるように名を呼んだ。背中に回る腕の力が応えるように強まる。夢なら何をしても許されるだろうか。いつもは自制してしまうのだけど、せめて、夢の中では。首に腕を回してねだると、コルテスは何も言わずに私の手を取ってベッドへと押し付けた。



彼の前では余裕でなければならないと、常に自分に言い聞かせていた。私は彼を導かなければならない。その使命感が私の口を塞ぐ。否、本当は根本的に言葉にする能力を欠如していたのかもしれない。何故なら今まで言葉にする必要が無かったから。私の言葉に耳を傾けてくれる人間なんて居ないと思い込んでいた。私の独り言は私しか受け止められない。もし植物に耳がついていたら、海や船に、あるいは潮風に。そうしたら私は吐露することが出来たのだろうか。本当は全く余裕なんて無いんだと。だがそんな妄想を描いたところで何の意味もない、ただの夢物語だ。

(嗚呼、でも此処が夢なら…)

ぐちりと鳴る水音を何処か遠くに聞き、現実の私だったら耳を塞ぐのだろうな、と思考する。もっと欲しくて手を伸ばすと、彼の体温は簡単に私の手元に入り込んできた。

「…熱いな、イド」

コルテスが私の手首を掴んで頬に当てながら苦笑した。髭がくすぐったくて指を丸める。先程まで外に居たのだろうか、彼の頬は驚くくらい冷たい。それが逆に気持ちよくて、じわりと混ざってとけてしまえば良いと思った。

「薬、のんだから」

「…薬?夜会で何か盛られたのか」

「一口だけしかのんでない。きもち悪くて、すぐ逃げた、から」

「…だからそんなふにゃふにゃなのか」

まるでアルコールを大量に摂取したみたいだな。コルテスはそう言って、汗に濡れた私の前髪を解いた。優しい温もりに甘えたくなる。アルコールのような薬が、媚薬のように甘く。くらくらした頭が快楽を導き出す。この症状自体があの薬の役割なのかもしれない。眼前に降りかかってくる出来事がすべて夢のように、官能的に感じてしまう。これ以上私を壊さないでくれと懇願するのが理性、もっと欲しいと無様に縋るのが本能。薬は何の戸惑いもなく衝動を引っ張り出してくる。

「コル、…っふ…フェルナン…フェルナンド…」

物欲が無いなんて口で宣っておきながら、この貪欲さは何だ。夢の中の私は相当酷い。普段行為になだれこむ時だって、一時の快楽に流されていかないように、喘ぎ悦ぶだけの体ではないのだと彼に言い付けるように、ある程度理性で押し止めているのに。枷が外れるとこんな風に甘えてしまうのか。コルテスのことを欲深なんて嘲笑えない。強欲なのは私の方だ。遠くに視点を持って、第三者として抱き合う二人を眺める。

「イド…そんな呼ばなくても聞こえてるぞ」

「……キス」

ねだるように彼の唇に手を当てて、人差し指を差し込んで開く。

「唇にか?」

「首…痕つけて」

「夢で終わらせたいんじゃねーのか?」

「…しらない」

コルテスが意地悪く口元を吊り上げて訊いてくる。夢で終わらせたいのかなんて、夢にだけは尋ねられたくない。ただでさえ頭が痛いのにこれ以上翻弄しないでほしい。コルテスの首筋に爪を立てて、此方にぐいと引っ張りこむ。コルテスは「後悔すんなよ」と一言だけ言葉を落として、私の首をぺろりと舐めた。唾液に濡れた其処に力強く吸い付く。後悔なんて薬を口にした時点でしている。もしくは、コルテスに手を伸ばした時点からだ。手遅れなら、泥沼で溺れ死ぬまで引き摺り込んでやる。息を止めて、鎖骨辺りに唇を寄せる彼を待つ。彼が動く度に繋がった部分が音を立てて、切なさで壊れそうだった。

「…っああ、ふぁあ…や、あ」

「っ…ん」

「あ…っやぁ、ふぇるなん…もっと、ぉ」

「…っとに、お前な…」

息を止めてしまいたくなる。吸い込んだ空気のなにもかもが優しくて甘い。この空間の柔らかさが毒だ。肺に入り込んで内側から私を壊してしまう。やさしく腰に添える手のひらで、いっそ私を起こすように叩いてくれれば良いのに。今のうちに夢はもう終わりなのだと言い付けてくれないと、きっと私はもう駄目になる。なのにコルテスはゆるりと首筋から顔を離して、ぐちゃぐちゃの私の顔を見て微笑んだ。下半身を押し付けられて、とけるような甘さに声が漏れる。いつになったら私は、塵屑の様にぼろぼろになった理性を広い集めて、本音を綺麗に包み隠すことが出来るのだろう。やめて、やめて壊さないで。俯瞰的に二人を眺めていた私がついに声を上げて泣き叫んだ。壊さねえよとコルテスは笑う。

「これは夢だ、イド」

「…っ、あ…」

「夢だから、何しても良い」

「…、ん、ふっ…あぁぁ」

囁く声に脳を毒される。どんなに厳重に鎧を纏ったって、その中に手を入れられたらおしまいだ。海の中でも無いのに、私は落ちないようにコルテスの腕にすがりついた。泥沼だって何処にだって落ちてやると先程覚悟した筈なのに、いざとなるとこんなにも怖い。
夢の中ならこの快楽は何なのだ。奥の奥にコルテス自身が入り込んできた感覚も、締め付ける度に感じるその大きさも、血管も、泣きたくなるくらい現実だ。空気だけがどうしたって偽物で、どちらに意識を傾ければ良いのか分からなくなる。辛くなって瞳を閉じると、コルテスの荒い吐息が耳を擽った。

「…っイド、イド」

「あ…や、っ…っも」

頼むからそんな声で私を呼ばないでくれ。溺れるのを恐れて腕を掴んだ手を背中に回す。きもちいいのか、こわいのか分からなくてごちゃ混ぜになる。混沌とした意識のなか、コルテスの吐息だけが鮮明に響いた。ぼろぼろと目から涙が出てきて筋を作る。

「…なに泣いてんだよ」

「もう…っ、やだ。コルテスが偽物すぎて…こわい」

「……どういう意味だおい」

「きみにこうして欲しいとか、全部、わ…私が想ってるとか…ほんと、無い」

「………イド?」

「やさしい君とか、ほんと……勘弁してくれ…」

首を傾げたコルテスは、私の言葉を聞いて動きを止めた。鼻が詰まってうまく言葉を紡げない様子に苦笑して、私の背中に腕を回す。抱き上げるように体を起こし、繋がったまま座らされた。コルテスは困ったように笑う。

「……それが、お前の本音か」

「………、」

「お前、俺のこと好きなんだな」

「……うん」

そうじゃなきゃ抱かれないと思う。胸元に顔を押し付けて、くぐもった声で頷く。すると突然コルテスはくしゃりと乱暴に私の髪を撫でた。疑問に思って顔を上げると、目元が大きな手に覆われて視界が暗くなる。

「…見んな、今顔赤いから」

「……ん」

「動くぞ」

またこくりと頷く。それを確認して、コルテスは腰に手を添えた。襲ってくる波に耐えるように目をきつく瞑る。緩やかに腰を上下され、あえかな声が自然と漏れた。この男のやさしさがいつか私を内側から跡形なく破壊してしまう。なのに否定の言葉は喉に突っ掛かって、口から出てくるのは途切れ途切れの嗚咽だけ。もっと、もっとと本能が――衝動が、強欲に彼を欲して止まらない。


嗚呼、このまま死んでしまえたら、きっと幸せなのだろうに




目が覚めた。
きちんと言葉にすると、あの阿呆らしい幻想から目が覚めた。
私はよく酒場に連れていかれ、一晩を賭けて勝負を挑まれることは幾度もあるが、一度だって負けたことが無い。酒に酔うという感覚に浸れない体質なのだと思う。否、酔うことは出来る。体が火照るとか、気分が高揚するとか、いつもより饒舌になるとか、その程度なら良くある。だが余程嫌な出来事に遭遇しない限り自我を失うほど酔うことは無い。そしてそのくらい飲んだ時も決して――これは神に誓おう――その日の記憶が跡形もなく吹っ飛ぶことは無いのだ。此処まで説明すれば、私の中で何が起こっているか理解出来るだろう。つまり、私は、あの阿呆としか言い様の無い幻想で、自分が何を口走ったか、どんなことをコルテスに要求したかが、明確に、あまりにも鮮明に思い描くことが出来てしまう訳で。

「……死にたい」

嗚呼、あのまま死んでしまえたらきっと幸せだったろうに何故現実に戻ってきてしまったのだろう。このまま窓から飛び降りるのも良いが、コルテスの宿は一階だから意味がないし、そもそも全裸の状態で死にたくはない。一部始終とは言わないが、それなりに記憶が残っているから辛い。コルテスは素面だったから私以上に鮮明な筈だ。頭を叩いたら多少は記憶を抹消してくれるだろうか。薬を盛ったあの貴族に今度会ったら同じ薬を7倍盛って復讐してやりたい。

「……っあー…」

ガンガンと響く突き刺すような頭痛に声を出すと、思った以上に掠れていて死にたくなった。踏んだり蹴ったりだ。頭を襲う痛みに現実だと言われているような気分に陥って泣きたくなる。同じ台詞を昨日の馬鹿全開な私に言ってほしかった。切実に。
起きたときコルテスはベッドに居なかった。それが有難いことかは分からない。どうせまた顔を合わせるはめになるんだし、一人で悶々と悩む前に一発殴りたかった。コルテスに非があるわけでは無いが、そうしないと私の気が収まらない。
いつまでもこうしていても仕方ないと、ゆるゆると緩慢な動きで体を起こした。靴を履く気になれず裸足で机に置いてある鏡まで歩く。誰だこいつ、と吐き捨てたくなるような顔が映った。目元は泣きすぎて真っ赤に腫れ上がり、髪は乱れてあちこちの方向に向いている。リボンが無くて慌てたが、ベッドの横にきちんと置いてあった。コルテスがほどいたのだろう。極めつけは、首筋から鎖骨を結ぶ赤い鬱血の痕。要求したのは私だったが、此処まで多く付けられると隠しようがない。襟を立てれば何とかなるかと、手元のシャツを手繰り寄せる。

「……凄く変なことを、言った気がする」

というより、応えてしまったというべきか。あの状態の私に問い掛けるコルテスもコルテスだ。あれを一夜の気紛れとして流すことは、流石に出来ない。忘れて欲しいと懇願したって記憶はそう簡単に消えてくれない。私も、コルテスも。口に出して実感した。嗚呼本当に、どんな顔をして彼と向き合えば良いのか分からない。
せめて昨夜の出来事を隠すようにシャツを着る。剥き出しは怖い。醜くて汚い欲望を隈無く見られてしまうから。でもそれが手遅れだとしたら、昨日私はそのまま息絶えていた方が幸せだったのかもしれない。あの優しい手を、腰では無く、首に回して絞めてくれたら、きっと延々に夢を見ていられたろうに。なんてコルテスに言ったら、今度こそ目覚めに一発食らうだろう。そう想像して、苦笑した。現実を取り戻す為に、急いでボタンを止めた。



―――
あえかに




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