「くそ!開けろ!!!この低能!!!」

ガンガンと底の厚いブーツが扉を断続的に蹴りあげる。船一の強固さを誇る扉が不吉な音を立て始め、そろそろ罅くらいは入りそうだ。腕を後ろ手に固く縛られた青年は、額に青筋を浮かべ、苛立ちを隠そうともせずに扉を蹴り続ける。部屋の向こう側からは船員たちの慌ただしげな足音、上官の空間を割くような大声、そして何よりも耳をつんざくような大砲の音が響き、頻繁に船を揺らしていた。それに負けず劣らず声を張り上げるのは、身動きを封じられたまま床に転がされたイドルフリート。室内に積み上げられた樽の一つに座り込み、その様子をじっと見下ろしている一人の船員――ベルナールは、何度目かも分からない溜め息を吐いた。





事は一時間前に遡る。
比較的穏やかな天候。それなりに強い風を受けた帆は、順調に船を前へ前へと押し出す。これならば食料に困ることはなく、予定通りに陸地に着けるだろう。そう満足そうに確認したコルテスは、船員たちが寝泊まりする大部屋からイドルフリートを見つけ出し、自分の部屋の寝台に連れ込んでいた。というのも先日、彼はとある私掠船に乗り込む際に数ヶ所体に怪我を受けてしまい、無事戻ったのは良いものの船医には航海を続けるのは厳しいと言われていた。だが四方海に囲まれている状況で怪我人だけを船から降ろすのは無理な相談だ。それ故にコルテスは船医が一番忙しくなる時刻だけはイドを部屋に連れ込み、簡単な治療を施してやることにしていた。常に航路を確かめる為に顔合わせはしていたから、それも同時進行で行えば時間の無駄にはならない。いつも甲板で行っていた作業が船室に移動しただけの話だった。

「…その不機嫌そうな顔、不愉快だからやめてほしいのだが」

「元からこの顔だ」

「………」

傷を手当てするコルテスは決まって機嫌が良くなかった。いや実際は、私掠船を拿捕する為に動いたあの日から機嫌が悪い。文句があるなら正直に言えば良いのにと思うが、本人が口にしようとしないことをわざわざ催促する気にはなれず、大人しく治療を受けるしかなかった。コルテスは血で汚れた包帯を取り除いた時に露出する塞がりきっていない傷痕を凝視しては、まるで自分の仕業だと言いたげに眉をしかめる。傷の心配をしてくれるのは素直に有難いが、コルテスのそれは度が過ぎているように思えた。イドの失敗はイド自身にあり、いくら最終的に敵船に乗り込むことを許可したのがコルテスだからといって、過度の罪悪感を抱くのはお門違いだ。何か話を投げ掛けても一言二言目の短文で返されるだけで、会話にさえならない。イドは目の前の男に気付かれないように、呆れから来る溜め息をついた。
大雑把な性格に似合わない程丁重に巻かれた右手の包帯を取れば、爪の剥がれた痛々しい指先が露出した。それでも、数日しか経っていない割には爪は新しく生えている。まだ痛くて右手で物を扱うのには苦労するが、この様子ならわざわざ左利きに為るための練習はしなくても良さそうだった。

「…爪って意外と伸びるのが早いんだな」

イドが自分の指先を眺めながらぽつりと呟けば、コルテスはその手を取ってくるりと新しい包帯を巻き付けた。

「髪短く切ったら伸びが早く感じるだろ。爪も同じだ、速度の増減はある」

「どうせ剥かれるなら左手が良かったな。武器庫に放置した剣が埃を被ってしまう」

「そりゃあちらさんに文句言わなきゃな。まあ、今頃檻の中だけど。ほら口開けろ」

言われて顎を上げて口を開くと、コルテスは照明の光に気を使いながらイドの口内を覗く。殴られ、舌を血が滴る程思い切り噛んでしまった傷口を丁寧に確認した。

「ああ、口内は問題ないな。さすが一番治りが早い。もう物食べても痛くないだろ?」

「…口内炎はあるけど」

「それくらい我慢しとけ。手ェ突っ込まれて薬塗られたいなら話は別だが」

「遠慮しとく」

苦笑して口を閉じる。口内炎のある舌を指でつつき刺激を与えてみるが、治りかけだからかあまり痛くは無かった。口内に異物感があるのは落ち着かないが、逆にそれくらいで済んでいるのだから良しとしよう。次にコルテスは殴られ過ぎて赤く腫れ上がったイドの頬に手を触れる。真剣に患部を見つめてくる瞳の色がまるで黒曜石の様だと、イドは場違いにも感想を抱いた。つり上がって皺が出来た眉間さえ穏やかなら、女に好かれる顔立ちなのに勿体無い。だが原因がイド自身にある以上、彼は賢明に口を閉ざしていた。

「コルテス将軍」

コルテスが船医から借りた軟膏に手を伸ばしたところで、扉が数回ノックされる。コルテスは視線でイドに待つように指示すると、立ち上がって部屋の外へ出ていった。その様子をイドは訝しげに見送る。コルテスを呼んだ船員は声からしておそらくベルナールだろうが、その声は彼に似合わず何処か慌ただしく聞こえた。何かあったなと、イドは直感的に判断する。だが天候は頗る晴天。ある程度なら天気を予測出来るイドも、最近は雨の匂い一つ嗅ぎとっていない。だから嵐が来るとは考えにくい。どちらにしろコルテスが忙しくなるなら治療くらいは自分でするべきかと思い始めたとき、予想に反して彼はすぐに部屋に戻ってきた。

「イド、薬が切れたから下で治療する。ついてこい」

「は?」

ベルナールとの話の内容を聞かされると思っていたのに、コルテスから出てきたのはそんな言葉だった。今さっき薬品に手を伸ばそうとしていたのに、何故今更。疑問に思った直後コルテスの言葉が建前であることに気付いたが、有無を言わさず寝台から手を引かれ、仕方なく立ち上がる。分かりにくいがこれは命令なのだろう。床に置きっぱなしにしてある包帯に一瞥もしないまま、コルテスはイドを外に出して引き摺るように階段を降りた。途中で擦れ違った船員たちは皆何処か落ち着き無い表情をしていたが、コルテスの歩く速度が速くついていくのに必死で気に止める暇は無かった。一緒に来るように言われたのか、後ろからベルナールも小走りでついてくる。彼も船員たちと似た何処か不安そうな表情をしていて、足を動かしながらも辺りをあちこち見渡していた。何かあったのか。そう尋ねようとしてもコルテスの背は遠く、声は届かない。
階段、後部艙口を降りた場所に重く閉ざされた部屋がある。帆布庫、ロープ庫と並んで一番奥にある部屋で、航海士であるイドも一二回しか立ち寄ったことがない。おそらく船員の中でも入ったことのある人間など片手で足りるだろう。監獄部屋だった。と言ってもこの船が海賊船を拿捕することは少なく、反乱を起こそうとする船員は皆無であるため殆ど倉庫と化していた。ロープや小さい樽と一緒に置かれた鎖が辛うじてその名残を主張する。

「…コルテス?お前何を…、っ!?」

嫌な予感がして背後を振り替えると、コルテスは瞬時にイドの右腕を掴み捻り上げた。怪我した方の腕を掴まれてはろくに抵抗出来ず、直ぐに左腕も捕らわれて足を払われる。重力に従って体が床に叩き付けられ俯せで倒れたイドの体に、コルテスは足を封じるように体重を掛けて跨がった。赤く腫れた頬が床に擦れチリチリと痛む。激痛で怯んだイドの隙を見て、彼は器用に彼の両手首をロープで後ろ手に固く縛った。

「…ッコルテス!!?」

「ベルナール、他の怪我人は別の場所に隔離したか?」

罪人にするようにイドの体を力で押さえ付けながら、コルテスは感情の籠らない静かな声でベルナールに問い掛けた。その声にびくりと体を跳ねさせたベルナールはそれでも表情を変えずに無言で頷く。そうか、と短く応えてイドから体を退かしたコルテスは、イドを一瞥もせずに部屋の扉まで歩いていく。イドは信じられない物を見るような目でその背を追い掛けた。

「ベルナール、お前は此処に残ってこいつを見張ってろ」

「わ、私も戦います!」

「いや、残れ。万が一のことがあったら困る」

コルテスは狼狽えるベルナールに武器庫から取り出した剣を差し出す。細身のそれは比較的身軽であるベルナールが愛用している得物であり、それが彼の物であるとコルテスは把握していた。何か言いたげに口を開いたベルナールも、その剣を見ると大人しく口を閉ざしてしまう。頼んだぞと一言呟いて、コルテスは部屋を後にした。ガチャリと鍵が締まる音が重く響く。

「ベル、説明しろ」

しかしその背後から聞こえる獣のような唸り声の方が何十倍も重く聞こえた。






海の上にぽつりと黒い影を見つけたのは、眠気に囚われた瞼を擦りながら見張りをしていた船員だった。遠目から見える黒い旗は望遠鏡を通すと、はっきりと海賊船であることを主張している。真っ直ぐとこの船を目掛けて速度を上げるそれを認めたその船員は、直ぐ様鐘を鳴らして甲板にいる船員たちに事を伝えた。丁度甲板に居たベルナールはそれに素早く気付き、船長に伝えるために船長室に訪れたというわけだった。

コルテスという男は、戦闘に関する作戦は穴を見つけられないくらい事細かに語ることが出来るくせに、重要なことは何一つ伝えていかない。おそらく彼は怪我人であり怪我人であることを自覚しないイドを、多少やり方は乱暴だが敵の目が届かない場所に隔離して、彼の安全を確かなものにするべきだと判断したのだろう。コルテスの行動をベルナールはそう解釈し、説明してみたのは良いが、イドがそれで納得するとは微塵も期待していないし、実際納得していない。

「だから何故!私だけが閉じ込められなければならない!!」

「だってイドさん、海賊船が襲って来たなんて知ったら直ぐ武器庫に走り込むでしょう…。怪我がまだ塞がってないのに」

「当たり前だ!私の船だぞ!?私が動かないでどうする!」

「でも航海士である貴方に万が一のことがあったら私たちも路頭に迷うんですから、頼むから大人しく安静に」

「していられるかド低能がッ!!」

八つ当たりにガンッと重い扉を蹴りあげる。ベルナールにとってそれは頻繁に響く大砲の音よりも耳に痛かった。イドは足を打撲している筈なのだが、何故そんなに強く蹴られるのだろう。扉に罅が入る前に骨に罅が入ったらどうするつもりなのか。ベルナールも出来ることなら今すぐイドの縄を解いてあげたかった。しかし船長命令は絶対である。一兵士の個人的な感情で上からの命令に背くべきではないと彼はきちんと理解していた。それにコルテスの意見も一理ある。海賊ごときでイドを喪ってしまうわけにはいかない。イドとコルテスの思考の板挟みに戸惑うベルナールは、余計な罪悪感を目の前の男に抱き、視界に入れないようにぎゅっと目をつむる。イドはもう弁解を求める気すら失せたのか、扉を蹴っていた足を一度床に降ろした。

「…私は…、」

それでも、何かを訴えるように扉を力なく叩く。

「私は、…閉じ込めて愛でるだけの、籠の鳥になった覚えはない…」

弱々しい声でそう小さく紡いだ彼は、ベルナールに背を向けて大人しくなった。おそらくその訴えはベルナールではなく、外で敵と戦っているであろうコルテスに向けられたものだろう。そう分かっていても、彼の心は休まらなかった。この二人はきちんと向き合って話し合えば分かり合うことができるのに、どうしてお互いに言葉にしようとしないのだろう。ベルナールには、二人がお互いに何かを隠し持っているように思えてならなかった。それは心配だからとか、責任だからとか、そんな単純な話ではなく。そして二人ともそんな相手の様子に落ち着かなくなっていて、結果的に上手く付き合うことが出来ていない。もし海賊を無事討伐できたとしても、今度はこの二人の間で争いが勃発してしまいそうだった。


その時、遠くに聞こえていた唸り声が酷く近くに耳に響いた。
ベルナールははっとして扉の向こうに耳をそばだてる。大砲の音の代わりに、人の束があちこちで叫んでいるような酷く纏まりのない声が徐々に近付いてくる。イドも気付いたのか、体を動かして扉に耳を当てた。「まだ火はつけるな!!」「黄金は何処だ!」「邪魔だ!」と、穏やかとはいえない男たちのあれくれた声が襲ってくる。海賊がとうとうこの船に乗り込んできたのだ。

「…っコルテス、しくじったな!」

事の重大さを知りイドは舌打ちする。ベルナールは慌てて手にした剣の鞘を抜き、扉の前で構えた。いくらこの部屋が奥にあるとしても、破られるのは時間の問題だ。イドが怪我をしている以上、守るのは自分しかいない。

「この中が怪しい!突き破れ!」

そうしている合間にも、敵の声は近くなり、ドンッと外側から扉を蹴られた。ベルナールの手に滲んだ汗が剣を伝い、床を濡らす。イドは膝立ちになりながら、縄から逃れようと必死に両手首を捻った。

「ベル、縄をほどけ!」

「駄目ですよ!どうせ武器庫も占領されているんですから、貴方に勝ち目はないです!」

「君一人で大勢の海賊と渡り合えると思ってるのか!?下手したら死ぬぞ!」

「怪我を自覚しない航海士が暴れて死ぬよりはましです!」

「言うことを聞けド低能!!」

「低能で結構!!」

ミシッ、と不吉な音と共に、目の前の扉が貫かれて太い幹が顔を出す。イドが散々蹴りあげていた為に、破られ易くなっていたのだ。大きく罅が入った場所から攻撃を加えられた扉は、あっけなくその役割を終える。コルテスが掛けた錠前が虚しくベルナールの足元に転がり落ちた。破片を手で払いながら中に入ってきた海賊たちは、すぐ眼前にいるベルナールに目をやる。それに彼はぐっと剣を構えた。

「おい坊主、この部屋に黄金は?」

先頭に居る男が問い掛けてくる。ベルナールは何も答えずに、ざっと辺りを見渡した。敵は4人だろうか。見覚えのある武器を手にしている男も居て、武器庫がやられたのは間違いないと確信する。後から敵が増える可能性もあるが、時間を稼ぐことくらいなら出来るだろう。四人なら、まだなんとか。無謀にも思える決断をして、彼は海賊を見据えながらイドに声を掛けた。

「イドさん。今の内に隣の部屋に逃げ……って、あれ?」

ベルナールは視線だけイドへ投げ掛けたが、そこにはもうイドの姿は無かった。縄がほどかれた形跡は無いが、部屋の何処にもイドの姿はない。さっとベルナールの顔が青ざめる。

「うそっ…逃げた…!!!?」

目の前の海賊に構わず、ベルナールは絶句した。



コルテス船長率いる船は通常のものよりは大きく、海賊対策のためと用意された大砲の数も多い。しかし船員の数は彼含めて37人と必要最低人数しか乗っていなかった。僧や船医を覗けば船員は全員兼軍人であり、それなりの海賊には対抗できる実力を持った者ばかりではあるが、今回はその前の私掠船との交戦による怪我人が多く、動ける人数よりも相手の方が数を遥かに上回っていた。下手な隊長よりも実力があり先導を仕切る航海士が満身創痍であるのも、劣勢の原因になっていた。コルテスは船尾に移動し、乗り込んでくる海賊たちと剣を交える。その背を守るようにアルバラードという若い兵士が立ち、目の前の海賊たちを薙ぎ払っていた。

「こう多くちゃキリないな。船首の方は大丈夫か?」

「それよりもありゃ、武器庫やられてるぞ。イドの部屋は大丈夫なのか?」

「はは、イドより自分の身の心配しとけ、アルバラード」

艙口から出てきたであろう男たちの中で、見覚えのある武器を持った者もちらちらと見える。大方隔離された怪我人が使っている武器だろう。不味いな、とアルバラードは舌打ちする。余裕そうに受け答えするコルテスも、圧倒的な敵の数に疲れが溜まっていた。眼前に見える男の腹を蹴り飛ばし、隙を見て襲い掛かる相手の剣を弾き飛ばす。戦闘こそコルテスが優勢だが、それもいつまで持つか。船首にいる船員たちが加勢してくれなければ、袋叩きにされるかもしれない。

「将軍!」

「……ベルナール?」

交戦する兵士たちの間を潜り抜け、額に汗を滲ませながら慌てた様子で掛けてくる声に、コルテスは目の前の男の首に肘鉄を食らわせてから振り返った。走ってくるのはベルナールで、倒れた敵の上を跨ぎ転びそうになりながらも叫ぶ。

「イドさんが部屋から逃げました!」

「ああ…やっぱり逃げたか」

「…やっぱりって」

ベルナールの予想に反して、コルテスは溜め息をついただけだった。どうして逃がしたのかと責められることを覚悟したのだが、どうやらイドが逃げることは想定内だったらしい。

「で、イドは何処だ?」

「おそらく船首の方に……っていうか、」

「?」

「あの…私まだイドさんの縄解いてないんですけど」

「は?」

意味が分からずコルテスは首を傾げた。いや意味は分かるが、そんな状態で甲板に出たらどうなるか自明だろう。海賊がうようよいるこの船で、両手が不自由なまま抜け出してどうするつもりなのか。気まずそうに説明するベルナールは、ちらりと後方を振り替える。コルテスも倣ってその方を向くと、姿は見えないが、海賊たちがやたら騒いでいる声が耳に入ってきた。それにひくりと頬がひきつる。

「…すまんアルバラード、任されてくれるか」

「あ、ああ…大丈夫だ。それより、あいつ何考えてるんだ?」

「知るか。ベルナール、お前もついてこい」

コルテスの言葉にベルナールは頷き、アルバラードと彼率いる兵士たちに後を任せて階段を降りた。前方から襲ってくる海賊をコルテスが、後方からの海賊をベルナールが薙ぎ払いながら船首の甲板を目指す。どうやら敵は首の方に集中しているらしく、襲ってくる敵は少なかった。海賊のリーダーも其処に居るとするなら、いよいよイドの命が危ない。最悪の場合を危惧した二人は駆け足で前方を目指し、階段を上がった。しかし予想に反して、敵も味方もまとまって呆然と何処かを見つめているのが視界に入る。異様な光景にコルテスは目を見張った。

甲板の中心で、金髪が風に靡いて踊っている。

相手が刃物を振り回して襲ってくると、その軌道を見抜けているのだろう、掠りもせずに彼はタップを踏んで避ける。後ろ手で縛られているというのにそのハンデも感じさせない俊敏な動きで敵の首筋を蹴り上げた。バランスを崩すことなく優雅に床を踏み鳴らすその男の顔には笑みさえ浮かんでいる。銃を構えている男も居たが、コックする前にするりと合間に入り音も立てずに手首を蹴って銃を奪った。彼の周りには既に倒された海賊たちが呻き声を上げていて、死屍累々の如く転がっている。敵味方関係なくその光景に圧倒されていた。コルテスは辺りを見渡して溜め息をつくと、ぽつりと呟く。

「…足も縛った方が良かったかもな」

「言ってる場合ですか…!」

ベルナールは透かさず突っ込んだ。扉を蹴っていた時も思ったのだが、足を怪我していて何故暴れまわれるのだろう。あんなに動いたら罅が入って悪化してしまう可能性もあるのに。ハラハラと現状を分析するベルナールに苦笑して、コルテスは剣を構えた。こうなってしまった以上、なんとか戦闘の合間に入り込んでイドの縄を切ってやるしかない。だが飛び出そうとしたところで、彼はイドの背後に忍び寄る影に気付いた。

「イド!後ろっ!」

「っ!」

剣が突き刺さるギリギリでコルテスの声に反応したイドは前方へと床を蹴った。振り返れば、同じ長い金髪を振り乱し、瞳が海の様に碧い海賊がイドに剣を向けている。避けられたことに海賊は舌打ちして剣を再度構えた。今まで戦っていた敵とは違う雰囲気のその人間に、イドはすっと目を細める。

「…貴様が頭だな」

体格こそ細身だが、剣の筋は確かだった。金髪を翻した海賊は、イドの呟きに応えずに剣を突き出す。素早い攻撃に対応できるイドも、その動きの鋭さに体のバランスを崩した。避けることは出来ても僅かな隙を与えてしまう。再度振りかざされた刃がイドの首筋に小さな傷を付けた。赤い線が宙を舞い、床に落ちる。

「…ちっ」

イドは舌打ちすると体勢を整えて海賊の腹に蹴りを繰り出した。海賊はそれを体を捻って避け、イドの首を狙って剣を振る。そのせいで右側に掛かった重力が、海賊の動きを僅かに封じていた。髪が切れるすれすれで刃をかわしたイドは、その隙を見て海賊の剣を足で弾き飛ばした。からんとイドの足元に剣が音を立てて落ちる。勝負あった、とイドは口元をつり上げた。しかしそれも束の間、海賊は服の袖から短剣を取りだし襲い掛かってきた。

「っさすがだな…!」

それは数日前イドが私掠船で行っていたことと同じだった。敵にやられるとうざいものだなとイドは嘆息する。武器も持っていない彼にとって、その短剣を振り回されるのは非常に厄介だった。短い分、リーチに入られると足が使えない。今まで優勢だったイドが、段々と劣勢に回り始める。

「将軍!イドさん助けないと…!」

「いや、」

状況を見兼ねたベルナールが声を荒げる。しかしコルテスはじっとイドとその海賊を見据えたまま、腕を組むだけだった。

「大丈夫だ」

船長のその言葉にベルナールは押し黙る。何か言いたげに口を開いたが、それを喉に押し留めた。海賊が来るという知らせを聞いてイドを閉じ込めたのはコルテス自身だというのに、どうして守ろうとしてやらないのか不思議で仕方なかった。イドに万が一のことがあったら大変だと、何よりもコルテスが知っている筈なのに。

短い弧を描いて襲ってくる刃をイドは後方によろけながら避ける。長い剣では無いために海賊から隙を見つけだすことが難しく、眈々と反撃を狙っているがどう見ても海賊の方が優勢だった。それに追い討ちを掛けるように太陽が西に沈み始め、東側に居るイドからは逆光線になり正確に敵を捉えられない。目が潰れる程の光の眩しさに辟易する。ついにトン、と彼の背中が船の先端の板に当たった。後ろに逃れる術を封じられ、イドは歯噛みする。

「もう終わりかい?」

海賊は初めて小さく笑うと、イドの首を狙って短剣を振った。

「…っは、まだまだ!」

イドはそれに笑みで返す。首目掛けて振られた刃を避けることはせず、いきなりぐっと顔を前に突き出した。その行動に黙したまま見守っていたコルテスとベルナールも目を剥く。唐突の予測していなかった海賊はぎょっとし、思わず手の力を抜いてしまう。その隙を見逃さず、イドは振られた短剣の刃を歯で受け止めた。

「っな…!ふざけるな、離しな!」

「はなふものか、ほのへーのーがっ!」

ギリギリと至近距離で睨み合う二人。押して駄目なら引くべきだと海賊は短剣を引っ張り出そうとしたが、彼の顎の強さがそれを許さない。海賊の重心が後方にずれたのを見て、イドは刃をくわえた口元を歪めて笑った。狙い通りだったのだ。海賊の動きに合わせるように唐突に重心を前に移動させ、体重を掛けられた相手はなす術もなくバランスを崩す。

「うわっ…」

床に倒れこんだ海賊の上にのし掛かり、イドはその両腕にしっかりと膝を乗せて動きを封じた。その衝撃で海賊はついに短剣を右手から離す。音を立てて転がった得物を視界に入れ、イドは笑った。

「勝負、あったな」

「…ちくしょう」

諦めた海賊は額の汗で床を濡らし、悔しそうに顔を歪める。それにわぁっと味方側から歓声が湧き上がり、ベルナールは顔を安堵に緩めた。コルテスも満足そうに頷く。だが味方の声も何処吹く風、勝者本人はまじまじと視界を下ろしていた。指をすり抜けるような美しい金髪が床に散らばっている。その光景にイドは、漸く逆光で見えなかった海賊の姿を視界に正確に捉えられることに気付いた。荒い呼吸に合わせて上下に動く胸には豊満な膨らみがあり、上気を含んだ瞳は碧く輝き、膝を乗せた腕は予想していたよりもずっと細い。男ではなく、女の海賊だったのだ。イドはその見知った姿に目を大きく見開いた。

「…っ君、もしやレティ…」

「こぉぉぉらぁぁぁぁ!!!ズィマああああ!!!」

カコーンと小気味良い音が響いた。
その間抜けな音に、辺りはしんと静まり返る。ただでさえ後頭部を怪我していたイドは、背後から襲ってきた衝撃に成す術も無く海賊の上に崩れ落ちた。さっさとイドを回収しようと甲板に上がっていたコルテスは、その唐突に起こった出来事にろくに反応できず、気絶したイドを目の前に唖然と佇む。イドの背後には、片手にフライパンを持った可愛らしい少女が立っていた。

「もう!!なんか騒がしいと思って出てみたら知らない人の船に来てまで喧嘩なんかして!!ほんっとう男はどうしようもないのね!ズィマーもそうだけど、レティもレティよ!!喧嘩両成敗なんだから!」

「……アニエス、そいつズィマーじゃないよ」

「え?…っあら、本当!?やだどうしよう!ごめんなさいね、えっと、船乗りさん?大丈夫…じゃなさそうよね!レティどうしよう!」

どう見ても海賊には見えない小さな女の子は、慌てながらレティーシアにのし掛かるイドの顔をうかがっては、またわたわたと騒ぎだす。あまりにも場に似合わない少女の登場に周囲は唖然とし、レティーシアは大きく溜め息をついた。
コルテスはアニエスと呼ばれた少女の手に握られているフライパンを見て頬をひきつらせる。イドの後頭部を思い切り殴っただろうそれはべこりと大きな凹みがあった。あの勢いで殴られたら流石に痛いでは済まない。

「…なぁヤスロー。もし俺があの船乗りさんの立場だったら、今頃俺お頭に殺されてるよなあ」

一方で、ぼそりと呟いた胡散臭い髭の海賊の言葉に、隣に居た筋肉質の男は黙ったまま深く頷いていた。

思いがけない少女の介入より、沈黙に包まれた船。唖然としてイドが崩れ落ちるのを眺めていたベルナールは、はっとしてコルテスの背中を叩いた。それに頷いたコルテスはイドを回収しようと二人に近づく。しかし一歩遅く、いつの間にか眼前に海賊の仲間が入り込んでいた。彼らは空気を裂くようにギンッと鋭い刃物をコルテスに突き出す。首を撫でる刃に、ぎょっとして彼は後退した。

「なっ…」

仲間の迅速な反応に、レティーシアの顔に笑みが浮かぶ。

「ヤスロー!この男を運びな!」

「イドをどうする気だ!」

先程ズィマーと話していた男はレティーシアに乗ったまま気絶しているイドを米俵の様に担いだ。力無く敵側の船へ運ばれていくイドを助けようとコルテスが駆け出すが、体勢を整えたレティーシアがそれを阻んだ。海賊たちはいつの間にか皆船首に移動していて、まさかの事態に慌てるコルテスの部下たちを牽制する。

「おい…こりゃ一体どういうことだよ…」

敵がいきなり後退したことを不審に思って敵を追って甲板に出たアルバラードは、イドが敵側にいる異様な光景に目を細めた。横を見れば、コルテスが鋭い目付きて海賊を睨んでいる。ギリッと彼が歯噛みする音が聞こえた。
アニエスは狼狽えながらも、レティーシアの後ろに隠れてコルテス側を見つめている。レティーシアはヤスローが自分の船に戻ったことを確認して、口を笑みに歪めた。睨み付けてくるコルテスを指差し、声を張り上げた。

「いいか!この男を返して欲しかったら、小舟いっぱいに黄金積んで運んできな!」

彼女はコルテスにそう言い放つと、背を向けて自分の船へと駆け出す。後を続くように仲間の男たちも次々とコルテスの船から引いていった。全員が海賊船に乗り込むと、素早く添えられた船が面舵に切られ、南の方向へ逃げていく。あまりにも素早いその逃走劇に、皆が皆ぽかんとしてそれを見送ってしまった。

「…流石海賊、逃げるのは早いな」

「言ってる場合ですか。イドさん拐われちゃいましたよ」

「ああ、やばいな」

コルテスの感嘆の声にベルナールが突っ込むと、彼は額の汗を拭いながらも冷静に返す。予測していた最悪の事態を斜め上行った展開ではあるが、まずいことには代わりない。彼は敵が逃げていった方向を肉眼で確認して、船員たちに号令を掛けた。

「面舵いっぱい!目的はあの海賊船だ!野郎共急いで持ち場につけ!!」

斯くして、航海士無くしたコルテス率いる船も漸く動き出した。


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