水は二面性を持つ。枯れた地に雨が降るだけで飢えた生き物を救うことができ、その反面、洪水や津波は人の命を容易く奪う。この考えは古今東西普遍的なものらしく、例えばギリシャ神話のポセイドンは座礁した船を水を操って救ったり荒れた波を静めもするが、怒りに触れるとトリアイナで嵐を起こし、船を沈めるのだという。海は人類が最も触れることを恐れる世界なのだろう。狼が潜む深く暗い森を平気で開墾して行った私たちの祖先たちは、水平線の向こうには滝があり、怪物が大口を開いて墜ちてきた船を飲み込むのだと本気で信じていた。陸で流行っている冒険譚には様々な恐ろしい化け物が海に住み着いている。未知は人々の恐怖心を煽る。嵐が起こることを、私たちはセイレーンの歌声を聞いたと言った。語り継がれる神話を馬鹿馬鹿しいと一笑に付す人間はこの船には居ない。皆何処かで化け物が船を沈めるのではないのかと震えているのだ。霧が起これば幽霊船が見えるだの、海草が海を覆えば絡めとられて引きずり込まれるだの、あちらこちらで屈強な男たちの不安な声が絶えない。

「…馬鹿馬鹿しい」

いや、一人居た。一番海とは縁が無さそうな、帝国から来たという黄金の髪を潮風に靡かせる航海士。彼は甲板上に張られたライフラインを片付ける船員に目をやった後、舷側に寄り掛かる私に向かって歩いてきた。

「ベル、そこに居るな。危ないだろ」

「波はもう高くないですよ?」

「……ああ、すまん。まだ昨夜の感覚が抜けきれてないな」

イドさんは苦笑しながら私の横に立ち、静まった波を確認した。先程ライフラインが片付けられるのをしっかり見ていたではないか。おそらく疲れているのだろう。仮眠を取ると部屋に引き込もった筈なのに、それから一時間も経っていない。

「…部屋は喧しい。船員たちの面白くない神話は聞き飽きた」

私の心を読み取ったかのようにイドさんはぽつりと呟く。私が執拗に彼の横顔を眺めていたのを気づかれたのだろうか。慌てて視線を海に戻した。
波が穏やかとはいえ、海の底を表したような深い色は少し恐怖心を煽る。なのに太陽の光を浴びてきらきらと宝石のように輝く海は、どうしてか嫌いにはなれない。

昨日の真夜中まで、3日続けて嵐がこの船を襲った。船を飲み込もうと波が荒れ狂う中、マストを畳ませ船首から船尾まで目まぐるしく移動し、船員を勇気づけたのは誰よりもこの航海士と船長だったように思う。不安に心臓が嵐と同じように波打つ中、長い嵐に代わり番で立ち向かった船員たちも相当疲労が溜まったように思うが、少なくとも私が起きている間常に姿を見せて声を張り上げていたイドさんが一番疲れているのでは無いかと思う。同室の船員たちが皆同じ事を言うのだから多分この人3日は寝ていない。
船内で語られる古い神話を馬鹿馬鹿しいと彼は吐き捨てるが、きっとイドさんと同室の船員たちは胸に巣食う不安を、誰でもないこの勇敢な航海士に無くして欲しくてそんな話をしたのだろう。信憑性の無い話だとイドさんに笑って欲しかったのかもしれない。その気持ちは少し分かる。この人についていけば海に飲み込まれることは無いのだと、心の何処かで安心できる。皆が皆そう構って欲しい思っているから眠れずに此処に来ているのだろうけど。
私は迷惑そうに眉をしかめる彼に苦笑した。信頼されている証拠なのだと、船の一員でありながら微笑ましくなる。

「隈凄いですよ。寝不足だと船酔いしちゃいますし、体調も悪化しますから是が非でも寝た方が良いと思います。ああそうだ、船長の部屋ならきっと静かですよ」

「…いや、逆に外に出た方が眠れるのではないかと思ってね。部屋に居ると、未だに外は嵐ではないかと不安になるんだよ」

「……」

「でも駄目そうだ、今度は太陽がうるさい」

私は首を傾げた。イドさんのような男でも、不安になることがあるのかと不思議に思った。海に関しては神の加護も必要としないのに。
眠気でとろんとした瞳は覇気が無い。でも瞼は閉じようとはしなかった。

「……太陽が、うるさいんですか?」

「ああ、寝不足の頭に響くくらいにはうるさい」

光が眩しいということだろうか?妙な言い回しに疑問を覚えながらも、ダルそうに目元を覆う彼を、見られていないことを良いことに眺めていた。部屋では眠れないと言っていたが、このまま放置するわけにもいかないだろう。嵐の恐怖に皆が怯えている今、叱咤する航海士に倒れられては困ってしまう。やはり船長室に運ぼうとイドさんの腕を掴んだ。しかし彼は少しも動こうとしない。

「…もー、イドさん…」

「…すまんベル、もう少し放っておいてくれ…」

「………」

力なく紡がれた一言に腕を離す。そんな言い方されたら黙って従うしかない。放っておくことなんて出来やしないのに。仕方なく距離を放してイドさんの様子を眺めることにした。気配が消えて、私が居なくなったと思ったのだろう。イドさんはぎゅっと自分の腕を抱いて、其処に顔を伏せた。嵐の中では勇敢に見えたその背中が小刻みに震えていると気付いたのはその時だ。私は見てはいけないものを見てしまった気分に陥り、やり場のない視線を甲板に移した。ライフラインはもう取り外してあった。
その時、ゆっくりと濡れた床板を踏み歩く重い足音が近づいてくる。

「…イド?ベルナールも。どうしたこんなところで」

「…コルテス将軍」

足音の正体は将軍だった。不思議そうに私とイドさんを見遣る。だが私のすがるような視線と、未だに背中を向け続けているイドさんを見ておおよそ察したのだろう。はあ、と大きく溜め息をついて頭を掻いた。「またか」とひとりごちながらイドさんの背中を叩く。

「おいイド、俺の部屋行くぞ」

「…フェルナンド…?」

「ああ。俺のベッド貸してやるから今日は休め。…ほら、大丈夫だ、もう嵐は来ないよ」

イドさんの重心を自分の方に引き寄せながら将軍はそう囁いた。するとその言葉が切っ掛けだったとでも言うように、イドさんの体から力が一気に抜ける。倒れ込みそうになる彼の体を支えつつ、肩だけじゃ足りないなと将軍はその体を横抱きにした。

「あの、コルテス。またとは?」

「ああ、こいつ労働は人の義務だとか人足らしめるものだとか屁理屈捏ねて眠んない時があるんだよ。今回の嵐も他に航海士がいるっつってんのに起きっぱなしだったろ?あと緊張感の切り方が下手でな、ああ言ってやんないとなかなか寝ようとしない」

「…はあ」

「まあ世話掛けたなベルナール。お前も昨夜から寝てないだろ?寝不足は体に毒だ、今のうちに休んでこい」

将軍はそう言ってイドさんを抱えたまま船長室に戻っていった。濡れた床板に滑らないように気を付けながら歩くゆったりとした振動が響いたのだろう、イドさんが身動ぎして将軍の首に腕を回していた。それをしっかりと目撃してしまった私は、ふるふると首を降った。あの安心しきった穏やかな寝顔はなんだろう。嵐の中で弱音を一度も吐かずに船員たちを叱咤していた男と、船長に抱かれて眠る男が同一人物だとはどうも思えない。
イドには船を導く使命感がある。長く続いた緊張感はなかなか切れない、と将軍は言っていた。寝不足もそれが原因だろうと。
確かにそうだと思うけれど、それだけではないと思った。緊張感が切れないのは他の船員たちも同じなのだ。またいつか恐怖に飲み込まれるかもしれない。セイレーンの歌声を聞いてしまうかもしれない。だから船は沈ませないと豪語する航海士の言葉を頼る。彼に不安を解消してほしいと願う。イドさんにとっては、多分、それが将軍なのだ。大丈夫だという言葉が将軍から紡がれるだけで、彼に何れ程安堵をもたらすのか、将軍自身は知らないだろう。イドさんも怖くて眠れなかったのだ。嵐がもう来ないという確信を、将軍から貰いたかったのだ。

「なんて本人たちは気付いてなさそうだな…」

ふあ、と欠伸する。眠そうなイドさんを見ていたら私まで眠くなってきた。日はもう高い。段々と船員たちの不安から来る雑談も鎮まってくる頃だろうか。静かな波をもう一度確認して、私も大部屋で一休みすることにした。


――――
三徹したら逆に眠く無くなってくる不思議。

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