星が良く見える美しい夜だった。息を吐けば闇にふわりと白が混じり夜に溶け込んでいく。冬の足音が近付いてくる。コルテスは毛布を一枚引っ張り出し、折角持ってきた酒も飲まず一人で船の見張り台で星を見上げていた。此処は海の上では無い為、船の中は非常に静かだ。港の方に見張り番を命じた船員がちらちらと見える程度だろうか。疎らにいる人の中から金色を見つけ出そうと無意識に視線を下げていたことに気付いてコルテスは自嘲する。毎日騒がしい日常を送っているからだろう。夜の静寂が身体に痛く凍みた。

思い返せば此処数週間は飽きず彼の背中を揺れる金色を追っていた気がする。正面を向いて名を呼んだのは何時だったか。きちんとした会話をしたのはどのくらい前の話か。最後に一緒に食事をしたのは?挨拶をしたのは?自覚はなくとも時は無情に過ぎる。苛立つ事に何一つ思い出せない。
酒を持ってきたのも、彼と飲みたかったからなのかもしれない。彼は騒がしいのが得意な性では無いから、こうして静かな場所で一人待っていれば気付いてくれるだろうと淡い希望を抱いたのかもしれない。我ながら何と幼稚な思いつきだ。そんなことが容易に現実になるのなら、会話も挨拶もしない状況が数週間も続くわけがないのだ。結局彼が船に乗ることはなく、港へ姿を現そうともしない。一人酒で鬱憤を晴らすにはあまりにも星が綺麗過ぎる。深更の船の上、地平線の先を照らす星の美しさを教えてくれたのはイドルフリートだった。
何だかんだ言いつつ毎夜のように酒場に付き合ったりコルテスの話に耳を傾けていたイドが、数週間もまともに顔を会わせようとしない。その時間の長さを単なる気のせいとして流せるおめでたい頭は持ち合わせていない。其処に何かしら意図があるのは間違いないだろう。だがその原因がコルテスには全く分からなかった。悩むにもそれに値する対象が見当たらないのだから、無意味に振り向かない背中を追い掛けることしかできない。気になって随分前に一度だけイドに声を掛けたが、付き合う暇はないと言わんばかりに伸ばした手を振り払って立ち去ってしまった。コルテスの存在を視界に入れることなく毎日何処かへ消え、何時の間に自室で眠っている。出航日さえ来れば不可解な距離感は自然と元に戻るだろうとは幾度も考えた。しかし未だに金銭面の準備が万全では無く、食料も軍備も乗員も儘ならない状態だ。こんな状況で大海に繰り出せるわけがない。出航日も自然に延びる。

「…お前は、一体何を考えているんだ…」

真夜中に一人で考えると思考が勝手に悲観的になる。星の美しさがコルテスの苛立ちを煽り「どうして俺ばかりが」と届く筈が無い輝きを、宙に上げた掌で掴む振りをして視界から追い払った。金色が煩わしかった。此方の感情を攪乱するだけしておいて、何一つ掴ませてくれやしない。求めるのも余裕が無いのも何時だって自分だけだ。頭の中が苛立つ相手のことで埋め尽くされる苦しさを、イドは決して知らない。
人恋しいとは思わない。一緒に朝まで酒を飲んでくれる仲間はいる。だが何処かで感じる虚無感は、構われたいだけという欲求とはまた別物だろう。コルテス自身自覚している悲観的な思考回路を、杞憂だと彼に笑って否定して欲しかった。

「コルテス、其処に居ると風邪をひきますよ」

人の声がして見張り台から下を見下ろすと、ベルナールが呆れた表情を隠そうともせずにこちらを見上げていた。「ほっとけ」とぶっきらぼうにコルテスは答えるが、彼が厚そうな毛布を数枚手にしているのを視界にいれて仕方なく持っていたワインを翳した。ベルナールはそれに頷くと、シュラウドに張られたラットラインを器用に上がって来る。

「寒いの苦手って言う癖にそんな薄い毛布一枚で真夜中見張り台に居るだなんて、本当に酔狂な人ですね」

「そんな俺の様子をわざわざ見に来るお前も相当だがな」

「毛布あげませんよ」

「悪かった」

悪びれる様子もないのに謝罪の言葉だけ口にするコルテスにベルナールは溜め息をついて毛布を何枚か渡した。先程まで持っていた薄い一枚の上に重ねて肩から被る。ベルナールも倣って残った毛布にくるまり、手渡されたワインを注ごうとして栓を抜いたところでグラスが無いことに気付く。困り果てて視線を上げると、コルテスはばつが悪そうに毛布の後ろに乱雑に置かれていたグラスを引っ張り出した。何故か、丁度二つ。

「……まだイドさんと話せてないんですか」

それだけで色々と察してしまったベルナールは呆れと同情と気まずさを混ぜたような視線を向けた。若いといえど彼の洞察力は航海士並みに優れている。コルテスはそれに何も答えずに膝に頬杖をついて押し黙った。沈黙は肯定だ。
とくとくと宵を透かして暗く濁った赤黒い液体が二つのグラスに平等に注がれる。芳醇な葡萄酒の薫りが風と共に漂う。船に積み、売れ残った品物の一つだ。乾杯という気分にはなれなかったが、いつもの癖でグラスを重ね合わせた。二人同時にこくりと喉を動かしてグラスの中身を飲み込む。

「船を降りて三週間は経ちますよね。喧嘩したわけでも無いのに、何でまた」

「…わかってたら苦労しねえよ」

コルテスとイドの違和感はベルナールにも朧気ながら伝わってきていた。勘の良い仲間たちの中でも陰で噂になっている。また女でも取り合って喧嘩したのではないかという意見が多数であり、ベルナールも初めはそうだろうと納得して流していたのだが、コルテスの様子を見るとそうは思えない。本人にも理由が分からないとなると重症だ。イドに訊く方法が一番早いだろうが、ベルナール自身彼とは一切会話していない。姿を見る機会さえないのだから。

「あー、くそっ!こんな意味分からないことになるんなら金集めに船出なんてしなきゃ良かったんだ。無駄に寒い上に、こういう時に限ってあちこち豊作ときやがるから何も売れやしない」

「その話ですけど、将軍。結局あの富豪に資金援助頼みに行くんですか」

頭をかきむしるコルテスに、ベルナールは深刻そうに尋ねた。確かにイドのことも気になるが今はそれより大切なことがある。馬を調達する為の金を集めようと北国まで船を動かしたのは良いが、予測の甘さが招いた誤算により帰国する為の準備金まで底をつく羽目になってしまったのだ。得られる利益があれば貿易船に金を貸してくれる富豪がこの国に居るという情報を耳にし、そこでコルテスが駄目元で手紙を送ったところ、二つ返事で引き受ける旨が返ってきた。と言うのも、向こうに既に名前を知られていたらしい。それを胡散臭いと眉を寄せたのはベルナールだ。

「エンコミエンダからの恩恵を分け与えるだけで良いなんて、そんなあてにならない利益を交換条件に本気で資金貸そうなんて思いますか。私がその富豪なら鼻で笑いますよ」

「…まあそうなんだよなあ。まだ征服したと決まった訳じゃなし。今の所有物は全てベラスケス殿の管轄内だから俺が好き勝手することも出来ないし」

「怪しいにも程がある。彼方に木曜日に行くんでしたっけ?貴方一人じゃ頭から喰われますよ。『ああ良いとも、その代わり』ってそのまま寝台連れていかれたとしても、貴方ちゃんと断れるんですか」

「だからってお前やイドを送るわけにはいかんだろう。それしか方法が無いのだから仕方ない」

「………」

コルテスは諭すようにベルナールの頭を軽く叩く。それに納得いかずにベルナールは眉をしかめるが、コルテスが全てを理解しその上で決めていることを知っているから無理に止めることは出来なかった。それしか方法が無いのも確かだった。
こんな大変な時にあの航海士は何をしているのだと腹が立たないと言えば嘘になる。部下の隅に至るまで何とか食糧難を防ごうと躍起になっているというのに。だが今日は月曜日。約束の日まで3日だ。その3日間で三週間掛かっても手に入れられなかった金を集めようとは考えない方が良い。ベルナールは溜め息をついて残りのワインを飲み干した。アルコールで身体が火照っているとはいえ、まだ風は刺すように冷たい。コルテスはそんな若い部下の飲みっぷりを横目で見ながら、自分は飲みもせずにグラスの中身を無意味に回していた。飲む気になれなかった。喉に突っ掛かる魚骨のような違和感が酒の味を悪くする。

「…早く海に出ないと、って急かすんだよ。話もしてないのに、イドが」

星を見上げて、ぼそりとコルテスが呟く。ベルナールは飲み干したグラスを横に置き、薄く見開いた瞳を彼に向けた。

「船にさえ居ればきっといつも通りやれるって思ってんのかな、俺。さっさと金集められるなら何にだって縋りたい気分なんだ」

「………」

ベルナールは相槌も打たずに毛布に顔を埋める。イドに対する苛立ちから酷いことを口走ってしまいそうだった。

「掌中の珠ってのは、落としてから気づくもんなんだなぁ」

あいつが居ないことがこんなに苦痛だとは思わなかった。
彼は次いで呟くとワインを無理矢理喉奥に流し込む。陰険な気分も自虐的な感情も全て胃の底に流し込めたら楽になれるのに。上手く動こうとしない現状への苛立ちを、そのままイドに向けてしまいそうになる。ゆっくりと顔を付き合わせて話したいとは思うが今会ったところでまともな会話は何一つ出来ないだろう。
毛布を頭から被り黙り込んでしまったコルテスの様子を見て、ベルナールは毛布から顔をあげるとワインのボトルに栓をした。其処で寝たら風邪をひきますよ、と口にしたがコルテスは動かなかった。



航海士という立場上、イドは船長であるコルテスの横をあまり離れない。それを当然の事だと思ってしまっていたのがそもそも自惚れであったのだろうか。陸に降りた途端に、イドの背中を見ることの方が増えた。
何時だってイドの背中を追い掛けてばかりだ。思えば学生時代のときもそうだ。大学に訪れてはコルテスの元ではなく真っ先に天文学の教授の元へ教えを請いに行くイドの後ろ姿を、やり場のない感情を抑えながら眺めていた。イドに恋情を抱き始めたのは再会してからではない。大学で初めて会ったときから惹かれていたのだ。それを形に出来たのが、彼が航海士としてコルテスの所有物になってからだというだけの話だ。好きだと言えば受け止めてくれるし、抱きたいと要求すれば仕方ないと肩を竦める仕草はするものの拒むことはしない。だが彼から求められたことは一度でもあっただろうか。コルテスの身を焦がす焔の様な恋情と同じものをあのイドが抱えているとは考えにくい。

いつの間にか眠っていたのだろうか。朧気に覚醒し始めた思考が風の冷気を感じ取り、体温を奪われた身体を抱えて身震いする。芯まで凍えていた。毛布の中に四肢を無理矢理潜り込ませて視線だけ動かす。まだ日が昇る気配は無かった。うたた寝をしていたのだろうか。それにしては身体が重く寝起きも良くない。背中に当たる固い感触は船の側面に取り付けられた板だった。どうやら、見張り台から降ろされて舷側に寄りかかるように寝かされていたらしい。ベルナールの使っていた毛布も膝元に重ねて被せてあった。
同じ体勢で痛んでいる身体を動かそうと毛布の中で身動ぎした。寝違えていないか確かめるために首を上にあげると、眼前に無数の星が広がる。その中で一等に輝く金が視界の端を揺らめいて、コルテスは息を呑んだ。星ではない、人の影だ。船に居るのは自分一人だと思い込んでいただけに心臓が異様に跳び跳ねた。影もコルテスの視線に驚いたのか、びくりと身体を揺らて数歩彼から遠ざかる。

「イド」

「……っ」

逃げようと踵を返すイドの背を見て、コルテスは毛布を捨てると翻るコートを掴んだ。腕を取り、肩を掴んで此方を向かせる。久々に見た彼の瞳が碧から闇を含んだ紺色に染まっていた。眉間にぐっと皺が寄り、何か言いたげに口を開くがすぐに目を逸らしてしまう。

「イド」

「…放せ」

「此方を向け、イド」

無理矢理顎を掴み、頑なに逸らされた視線を合わせた。不機嫌そうに歪められた表情が、苛立ちを隠そうともせずコルテスを睨み付ける。顎を固定したまま放そうとしないコルテスの腕をイドは乱暴に払い除けた。

「…いつから起きていた」

「たった今だよ。いつからって、今まで俺に何かしていたのか」

「…するか!!」

犬の様に吠えるのに、ネコ科の動物の様に背中を丸めて威嚇してくる。

「君こそこんな所で眠るなんて阿呆の極みだな、凍え死にたいのか。聞けば見張り台の上に夜中居ただと?貴様は何時になったら自分の体調を自分で管理出来るようになるんだ。南国生まれの君が北国の風が頻繁に当たる場所に長時間居たらどうなるかなんて自明だろう、このド低能が」

何時もの彼の毒を混ぜた戯言なんて右から左に流していたのに、その言葉を聞いてコルテスは無性に苛立った。誰が何を思って其処に居たと思っているんだ。そもそもイドが何日も何日も自分を視界にも入れようとしないのが悪いのではないか。
かっと頭に血が上ってイドの胸ぐらを掴みあげる。唐突に内臓が浮き上がりイドは息を呑むが、ぎらぎらと光るコルテスの鋭い視線を一身に受け、静かに目を瞑った。コルテスとイドの間に、一風の冷気が通る。

「…クソ」

悪態を吐いてコルテスは腕を突き放した。重力と衝撃に従ってイドの身体は後退する。

「本っ当阿呆らし…」

何がイドに会いたいだ。三週間執拗に視線が背中を追っていたことも、先程まで見張り台に上がって頻繁に港を見下ろしていたのも、こうして一人で激昂しているのも全て馬鹿馬鹿しくなった。久々に顔を合わせたというのにイドは喜びの表情一つしないで、ずっと不機嫌そうに眉を寄せて此方を睨んでいる。そんなに露骨に嫌そうな顔をするならわざわざ阿呆の極みである将軍の顔なんか見に来なくていい。陰で凍え死ねばいいと笑っていたらいいだろう。

「お前は何しに来たんだよ」

言外に別の意味を込めて言い放つと、イドは一瞬驚いたように顔を上げた。言われたことが心外だとばかりに目を見開く。それさえ白々しく映るのは相当彼に対して苛立っているからだろうか。イドは複雑そうに表情を歪め、唇をぐっと噛んだ。

「…我々を率いる立場である人間があんなところで眠っていると聞いたら、放っておけるわけがないだろう」

「今までずっと俺を視界に入れようとすらしなかったお前が?はっ、笑わせんな」

「…ッ私だって、」

嘲笑に乗せられたイドが勢いで口を開く。

「……私だって、好きで君から離れたわけじゃない」

ぼそぼそと風の音に掻き消されるような声が伏せた顔から聞こえてくる。他に誰もいない船の上、イドの呟きはしっかりと伝わっている。予想だにしない言葉に今度はコルテスが目を見開く番だった。俯いて顔を上げようとしない彼の真意を知りたくてじっと見据えた。身体を刺す風も今は全く気にならない。コルテスの視線に耐えられなくなったのか、僅かに出来た沈黙を破りイドは口を開く。

「…忙しかったんだ、此処数週間。木曜日までにはどうしても終わらせようと」

「…木曜日」

コルテスが富豪の家に直接出向く予定の日だ。どうやらあの手紙を、イドにも見られていたらしい。思い返せば、確かにイドがコルテスと顔を合わせなくなったのはその援助相手からの返事の手紙が届いてからだった。

「あんな胡散臭い契約を易々と受け入れるなんて、君は一体どういう頭の構造をしているんだ」

「………」

「どうせ口で止めても君は向こうに行ってしまうだろうから、行けない状況にしてやろうと思ったんだ。目先の欲しか目がない低能ども相手に君が尻尾を振る必要なんてない。自分を犠牲にすれば全て解決出来ると本気で思っていることが全くもって腹立たしい」

早口で捲し立てたイドがぐいと掌を押し付けてきたので、何事かと手を開くとサインの入った紙切れを手渡される。其処には丁寧に書かれた異国語とイドルフリートのサインと、目を向くような金額が書かれてあった。富豪と契約した金額には届かないものの、スペインに戻るのに必要な食料と軍備を船に十分に詰め込める金額だ。コルテスは言葉を無くし、腕を組んだままそっぽを向いているイドへと視線を上げる。紙を握る手に力が籠った。
彼は手紙を読んで全てを察し、今の今まで船とコルテスのために働いていたのか。

「…イド」

「言っておくが、君のように何処かに媚や身体売って得た金ではないから…、ッうわ」

「ありがとう、イド」

紙を持ったままイドの腕を引き寄せて抱き締める。ぎゅうと背中に回された体温に驚き咄嗟に抜け出そうともがくが、久々の体温を逃す気は更々ないコルテスはさらに腕の力を強めた。自分より幾分細い肩が動揺に揺れる。それでも、行き場を無くした腕が居所を求めて背中に当てられたのをコルテスは温もりと共に感じ取った。

嗚呼、これだ。俺が今まで探していたのはこれなのだ。

二重三重に暗憺とした出来事が積み重なり自暴自棄になっていたのかもしれない。コルテスは漸く自分が何れ程愚かな行動に出ようとしていたのか自覚した。慣れない北風に吹雪かれながら異国で過ごす日々。帰る宛が見付からず、待てど暮らせど金が集まった報告は来ない、一番近くに居てくれたイドも傍にいない。日常が戻ってこない事が恐ろしく、手元に寄ってくる話なら何にでもすがりつきたかったのだ。周りの人間はこんな状況でも変わらず自分を想ってくれているというのに。

「本当お前の言う通りだ、イド。俺はとんだド低能だ」

「…そんなどうしようもない君を軌道修正するのが有能な私の仕事だから別にそのままでいてくれて構わない」

「…お前なぁ」

「ふふ、航海士は導くのがお仕事だからね」

コルテスの首元でイドはくすくすと喉を鳴らして笑う。その声を聞きたくなって、コルテスは彼の肩を掴んだ。促されるようにイドは頭を上げる。彼は薄く笑みを浮かべてコルテスをじっと見つめた。散らばる星屑を背に微笑む彼の姿はどんな星よりも一等に眩しい。コルテスは大きな掌で金髪を掬い上げると軽く引っ張って引き寄せた。それにイドは少し迷ったような間を開けて顔を近づける。白い指先がコルテスの頬に当てられ、次の瞬間には唇が触れあっていた。驚く暇も無く唇が離れる。

「……お前からしてくれたのは初めてだな」

「……指摘するか、そこを」

そう言いつつ、自分でも思うところがあったのだろう。イドは恥ずかしそうに手を離した。そのままコルテスから契約書を奪い取ると、自分のコートのポケットに詰め込む。

「数週間頑張ったんだ、御褒美くらいくれたまえよ」

「勿論。俺こそどれだけ焦らされたと思ってやがる」

「どの口が、女誑し」

くすくすと軽口を叩きあいながらも、いつもの調子を取り戻した二人は再び久々の温もりを求めて腕を絡めあった。



コルテスは舷側に寄りかかりながら、此方に体重を傾けてくるイドの髪を掻き上げる。航海士なんて仕事をしている癖に傷む気配もない金髪は、指先に柔らかな感触を与えながらするりするりと指の隙間を抜けた。空いた片手でイドの後頭部を片手で抑え、唇を割って舌を絡め合わせる。抵抗されるかと思いきや彼もまたコルテスの肩を掴み、足りないと言わんばかりに求めてきた。息継ぎの合間に見上げてくる情欲を宿した紺の瞳に、コルテスの身体がぞくりと興奮に震える。求めているものが手中にあると実感すればするほど沸き上がってくる支配欲は止まることを知らない。
イドは押し入ってくる舌に応えながらも片手をコルテスの下肢に移動させた。細く長い指先が衣服の上からコルテスの雄を煽る。形をなぞりながら刺激を与えてくる指先に彼は息を詰まらせた。イドが肩を叩いてきたので名残惜しくも唇を離すと、二人の白い吐息が混ざって宵に消える。イドの右手は未だ下肢に触れたままだ。撫でる動作から確かめる様に触れていき、衣服の上から見る限り何の反応も無いそれに眉をしかめる。

「…変化無いな。歳か」

「阿呆。さっきからずっと此処で寝かされていたから寒くて萎えてんだよ」

「…阿呆はどっちだ。熱でも出ているんじゃないか」

北国生まれであり、航海士として年中冷たい潮風に当たっているイドにとってはこれくらいの気候は肌寒い程度の感想しか抱かないが、南国生まれのコルテスには結構堪える寒さだ。身体を震わせることはしないもののひとつひとつの動作が鈍い。数時間も風当たりの良い海の近くで眠っていたとなると、体調を崩していてもおかしくない。宵の影に隠れている為コルテスの様子は良く分からなかった。だからと言って解放する気はないのだろう、彼は掴んだイドの腕を放そうとせず、それどころか余計に力を込めてくる。その意図を汲み取ったイドは呆れの溜め息を吐き、コルテスの前に跪いた。

「…イド?」

怪訝に問われた視線には応えずにイドは器用にベルトを抜くと下肢を纏う布を引き下ろす。そして露になった自身に両手で触れた。その思いきった行動にコルテスはぎょっとする。彼の反応に気を良くしたのだろう、僅かに笑みを浮かべたイドは顔の横にある長い金髪を右耳に掛けて、先端部を口に含んだ。

「…っ」

「む、…ん」

冷たい空気に触れた自身を生温かい感覚が通る。女にされたことなら幾らでもあるが、イドにされるようなことは今まで一度だって無かった。彼も勿論男のものを口に含むのは初めてだろう。先端部をおそるおそるといった様子で愛撫し、時折ちろりと舌を出して舐めた。そのもどかしい快感が余計にコルテスの熱を煽る。

「んむ…、んん…む」

「っ…く」

そうしているうちに段々慣れてきたのか、イドは口に入る限界まで雄を愛撫し始めた。それでも入りきらない部分を片手で撫でてゆっくりと頭を前後に動かしていく。伏せられがちなイドの瞳が気紛れにコルテスを見上る度に彼は顔に身体中の血が集まるのを感じた。あのイドが、と思うだけでじわりと情欲を滾らせていく。

「…っ、イド」

「ん」

イク、と前髪を掴むとイドは頷いて半分だけ口から出す。てらてらと唾液で光る自身の先端に軽く噛み付いた。その僅かな刺激でコルテスは達す。

「…っん、む」

口内に出てくる白濁をイドは眉をしかめながらも受け入れた。受け止めきれなかった液体が口の端を伝って床に落ちる。それを追うことはせず、イドは口に白濁を含んだまま顔を上げた。徐々に近付いてくる顔と、何処か意地悪く歪んだ目付きにコルテスは息を呑む。

「…うっ、んん!?っ」

唐突に唇を合わせられ、イドの舌に乗せられた白濁が唾液と共にコルテスの口内に入ってくる。巧妙な舌使いでそれを飲み込まされ、自分のものを口にしたという不快感にコルテスは顔を思い切り歪めた。尚も送り込んで来ようとするイドの肩を突飛ばして盛大に噎せる。

「ッごほ、げほっ…!おま、イド…!!!」

「ハハハ!間抜けだなフェルナンド!」

「おぇ…っうぇぇ気持ち悪ィ…!舌にまだ残ってやがる…」

「観念して全部飲み込みたまえよ。正しくそれが君の強欲の味だ」

イドは自分の口の端についた残りをぺろりと舐める。初めからこうするつもりで自分からコルテスの熱を愛撫したのだろう。そう思うと遣る瀬無い気持ちで胸が鬱積した。舌で愛撫されている最中、様子を伺うように見上げてくるイドの瞳はこれ以上無い程自分を煽ったというのに。
コルテスは悔しさをぐっと堪えて未だ笑い続けているイドの腕を引き寄せた。すると彼は途端に真面目な顔になる。この先の行為への期待か、不安か、そんなものはコルテスには分からない。顎の辺りに未だ残っている精液を拭ってやり、その場に座るように腰を押した。促され膝を折るイドに倣って、コルテスも床に座り込む。肩を半ば乱暴に床に押し付けてもイドは一切抵抗しなかった。熱と共に吐かれた吐息の白が視界に移り、コルテスは風の冷たさを思い出す。わざわざ室内に戻る余裕は無いが寒空の下での行為は明日に響くだろう。宵闇に紛れたイドの透けるような白い裸を存分堪能したいのが本音だが、寒くて集中出来ないとなると本末転倒なので、コルテスは仕方なくイドのコートの上から巻いてあるベルトだけを外して床に放り投げた。一緒に外したレイピアや短剣も床に置く。身軽になったイドの下肢に手を伸ばし、先程自分がやられたように衣服の上から撫でた。そのまま布を取り除くと僅かに反応したイドの熱が視界に映る。

「…っあ、コル…」

そこを握ってやり、滴る先走りと共に上下に扱いた。行き場を無くしたイドの手のひらがコルテスの肩を掴み、引き寄せる。促されるままイドに覆い被さるように身体を移動させたコルテスは、自身で濡らした指先をするりと奥へと動かし一本中へと突き入れた。眼前に見えるイドの表情が苦痛に揺れる。

「ひ…!あっ、いっ、痛…ぁ、んん」

「…っ、久々だからな。悪い、耐えろ」

「う、ッは…」

コルテスの太い指を二本三本と受け入れる度に、イドの身体が痛みに弾む。小刻みに震える太股は寒さからだけではないだろう。彼の苦痛に耐える声を聞きながら、コルテスは中をぐちぐちと解していく。最後に彼を抱いたのは国を出る前だろうか。疾うに1ヶ月を過ぎての行為はそう簡単にコルテスを受け入れようとしなかった。変に力の入った下腹を衣服の上から撫で、緊張した身体を少しずつ行為に慣れさせる。

「…ッ、っ、あ、ぅ」

くっ、とイドの喉元が引きついた。前立腺に当てた指先を曲げて何度もそこを突くと、肩に乗せられていたイドの指先がコルテスの首筋に爪を立てる。痛み以上に快楽も感じ始めたのだろうか、その証拠に腰がもどかしそうに動いていた。指摘すると拒絶される可能性があるのでコルテスは一瞥するだけで直ぐに目の前のイドの表情を確認することに集中する。この持て余した熱を解放しないまま逃げられでもしたら非常に困る。
もう良いだろうか。コルテスが指を抜くと、息を詰まらせていたイドが安堵に似た溜め息を吐いた。執拗に弄り回した中はさらなる快楽を求めて疼いている。半勃ちだった自身も鎌首を擡げていた。

「…イド、大丈夫か…?」

「は…ぁ、っも…、ッほしい…」

「…イド?」

首筋に顔を埋めていたイドがぼそりと耳元で呟いた言葉にコルテスは目を見開く。彼は我慢出来ないといった様子で腰をコルテスの下肢に押し付け、唯一露になっている足を腰に絡ませた。

「い、ッ…いれてくれ、フェルナンド…!」

「…!」

まさかのイドから求められると思わず、コルテスは己の中にある熱が一気に盛り上がるのを自覚した。衝動に突き動かされたままイドの首筋に歯を寄せて痕をつける。彼の匂いが一度に強まり、アルコールに侵された様な心地好い酔いに呑み込まれた。支配するつもりであったのに、反対に支配されている。愛しさや恋しさを遥かに越えた欲望が身の内で暴れ出した。
コルテスはイドの首筋に顔を埋めたまま、彼の太股を持ち上げて見えた蕾に自身を当てる。ぴくりと強張った身体を見て見ぬ振りし、先端から徐々に中に入っていった。

「あぁ、っあ、ひ、ん、あ、ああ、ッ」

「…ん、はっ…ぁ」

ぐう、と一度に飲み込んでいく中の気持ちよさにコルテスは達しそうになるのを懸命に耐える。さすがに今イクのは早すぎるだろう。久々の行為で多少きつくなったイドの中は熱を奪おうと絡み付いてくるので、抜いてもらわなかったらイっていたかもしれない。心地好い締め付けを目を瞑って遣り過ごしながら金と黒の茂みが重ね合うまで深く貫く。はぁ、と二人の白い吐息が宙に吸い込まれた。獣のように息を荒くしたコルテスは、僅かな理性でイドの様子を確認する。イドは胸を深く上下させながら、同じくコルテスを見上げていた。目が合っても今度は逸らそうとしない。イド、と名前を呼ぶと、彼は乾いた喉を辛そうに鳴らした。切なそうに眉をしかめるその表情だけで理性の糸が切れそうになる。

「動くぞ」

「っ…」

唇をきつく噛んで片足を肩に担ぐと、一度最奥まで捩り込んだものを半分外に引き出した。イドが悲鳴と共に息を呑む様子がやけにリアルに目に焼き付く。彼の肩を掴み、また一気に中に押し入った。

「っああぁ!」

イドは耐えきれずに絶叫し、絡められていた踵がコルテスの腰を叩く。彼は気にすることなく律動を早めていった。また変な力の入り方をしてひきつっている下腹が視界に入り、これはもう癖なのだろうと結論付ける。指で解した時に見つけた前立腺を容赦なく抉り、わざと水音を響かせて中を出入りした。イドは律動に合わせて腰を軽く持ち上げ、コルテスの熱を受け入れ易いように足を広げる。おそらく無意識なのだろう。そういった仕草で彼の余裕の無さを感じ取り、コルテスは愛しさで胸を満たした。高慢で無駄に自尊心が高い彼を無性に可愛いと思うのは、言葉にしない所でコルテスを求めようと懸命に腕を伸ばしてくるからかもしれない。

「あ、っあ、んぅ…!コルテス…ッ」

「ん…イド、…っイドルフリート」

「はぁっ、も、あっ…いく、いく…あ、ああ…〜〜ッ!」

熱に浮かされたまま名前を呼んでやるとイドはぎゅっと内壁をコルテスに絡めて達した。後を追うようにコルテスの中に出す。出されている感覚はあまり分からないのが一般らしいが、イドはコルテスが達している間ずっと目を固く瞑って内を満たす感覚に震えていた。衝動が去り、コルテスが首筋に埋めていた頭を上げると火照った顔のイドと目が合う。お互い引き寄せられるように唇を押し当てた。

「…は、コルテス」

「………イド」

コルテスは顔を上げるついでにイドの頬にキスを送ると、気まずそうに身体を放す。放心状態だったイドがその声によって理性を取り戻し、やけにつらそうなコルテスの様子に気付いた。疑問を浮かべつつ視線を追って二人が繋がった場所に目をやる。半分だけ外に出ていたコルテス自身が萎える所かまだ熱を保っている状態をしっかりと視界に入れてしまった。

「……すまん」

「…こ、この…ッ絶倫…」

「……だってよ、今までお前構ってくれなかったじゃないか」

恥ずかしさと興奮で顔を真っ赤にしたイドを見下ろしながら、ぼそりとコルテスは言葉を落とす。その声にイドは頬をひきつらせた。構えなかったのはコルテスの為ではあるとはいえ、その期間仕事のストレスから必要以上に無下に扱ってしまった自覚はあり、それから来る罪悪感も一応あった。どうするべきか迷っていると、ぽたりとイドの鼻先に冷たい滴が落ちる。

「……あ?」

「雨だ」

ぽたり、ぽたりと数滴イドの頬を濡らしたかと思えば、いきなりシャワーのように大量の水滴が落ちてくる。そういえば昨日から雨の匂いがしていたことをすっかりと忘れていた。それを伝える為にわざわざ船に足を運んだと言うのに。コルテスは突然音を立て始めた雨に目を見開き、仰向けで横たわるイドを守るように覆い被さった。

「…コルテス、さすがにこれ以上此処では無理だ」

「………部屋ならいいか?」

雨を吸いとった黒髪がイドの顔に陰を作る。水に濡れても尚つらそうなコルテスの表情を眼前にして、イドは溜め息をついた。肯定する代わりに、彼の首に腕を回して上半身を持ち上げる。

「…丁重に運んでくれたまえよ?」




カーテンの隙間から入り込む一道の日光が顔面に直撃し、イドは目を覚ました。風が強かった為に雨雲も一晩掛からずに流れてしまったのだろう。気恥ずかしさから来る鬱積とした思いに相応しくない、苛立つくらいに快晴な天候だ。雨風の後に訪れる晴天は、船の上に居ないとそれほど有り難く感じられない。

「………〜〜っ」

身体をコルテスの腕の中から逃がそうと持ち上げた途端襲ってきた鈍い痛みにイドは思いきり顔を歪めた。腰が痛い。尋常でなく痛い。一体何回やったんだ。
悔しいことに、部屋に連れ込まれて二回イかされた辺りから記憶が全く無い。隣で呑気に眠っている男を海に突き落としたくなった。初めてやった日も此処までは酷く無かった気がする。アルコールを口にしていないのに途中で意識を飛ばすのは珍しい事だ。逆を言えば素面なのに気絶するほど何回も求められたという事になる。イドはぐっと唇を噛みしめシーツに顔を伏せた。

(…恥ずかしい)

初っぱなからあらぬことを口走った気がする。薄くしか記憶に無いのだ、熱に思考を支配され混沌とした意識の中何を言っていてもおかしくない。コルテスが昨日やけにしつこかったことも思いだし、船の上での彼の熱の籠った台詞やら動作やらを次々と思い浮かべてはあまりの恥ずかしさに頭をシーツに押し付けた。どうせ途中で意識が吹っ飛ぶなら最初から綺麗さっぱり記憶を葬りたかった。

「…やはりマテはさせない方がいいのか」

ふむ、と頷いて結論付ける。三週間、コルテスだけでなくイドも欲望を持て余していたのは間違いなかったが、それよりもコルテスを怪しい人間に引き渡さないことの方が重要で、金集めのために働くのに精一杯だった。そんな事を考えている余裕などない。コルテスにとっては異国のこの地は、イドにとっての故郷に近い。言語は通じたし、持ち前の才能で貿易に介入すれば彼一人で何とか目標金額を達成することが出来た。代わりに肝心のコルテスを無下にしてしまい、ああして昨夜手酷く抱かれたわけだが。久々に会話したベルナールには何故かいつも以上に毒を吐かれ親の仇を見るような目で睨まれるし、結構最悪な日だった。一体アレに上司を無言で威嚇するような躾をしたのは誰だ。コルテスか。

「…ほんと、君は強欲だよ」

つん、と熟睡しているコルテスの頬をつつく。こんな男に隅から隅まで支配されている事が悔しくて仕方ないが、事実であるのでどうしようもない。ついていくと決めたのはイドであり、求められる手を振り払わなかったのもイドである。
イドは痛む腰を叱咤しながら肘で上半身を持ち上げ、コルテスの頬に手を当てた。悔しさや苛立ち、羞恥心が混沌としたやり場の無い感情をぶつけるように、眠っているコルテスの唇に自分のそれを押し当てた。
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