鬱蒼と生い茂る宵闇の森。葉の隙間に葉が重なり合うため光が一切差し込まず、代わりに人ではない生き物の不気味な鳴き声が絶えず響いていた。雨が降ったのか地面が泥濘み最早道とは言い難い泥沼を、一人の男が足を捕られながらも駆け抜けていた。幾度も足が縺れて泥の中に投げ出された体は土まみれで、普段は光を反射して輝きを放つ美しい金の髪も今は宵と泥に紛れてその面影は無い。

「っは、…はぁ…は、!」

背後を振り返ると数人男の影を見つけて、息を乱しながら森の奥へと進んでいった。荒い息遣いを呑み込もうと口を閉じるが数秒もしない間に酸素を欲して口を開く。それの繰り返しだった。宵闇に不気味に聳え立つ大木の陰に隠れて遣り過ごそうと幾度も努めた。それでも相手が多勢なだけに目敏く見つけられてしまう。その度に男は舌打ちし、さらに奥へと走る為に限界を越えた足を叱咤した。男を捕らえる泥は皮肉なことに敵の足音をもしっかりと此方に届けてくる。

「あっちで足音がしたぞ!」

「チッ、死に損ないが!おい行くぞ!」

騒ぎに驚いた森の動物が逃げ出したのだろうか。運良く物音を勘違いして反対方向へと駆け出していった敵軍を視界に入れ、イドは安堵の溜め息をついた。しかしいつ気付いて戻ってくるか分からない。砲弾に撃ち抜かれた右腿を布できつく縛って止血し、再び立ち上がって木々の合間を縫うように歩いた。

此処で死ぬ気は更々無かった。その強い意思だけがイドの体力と精神を支えていた。昔から夢見続けていたことがこれから漸く始まるのだ。夢が手に届く距離にあるというのにどうして呑気に死んでいられるだろう。たとえ身体中を矢で射ぬかれようが生きて帰らなければならない。――帰って、コルテス率いる軍を新大陸まで導かなければ。

コルテスがベラスケス総督から遠征隊隊長に任命されたとイドに伝えられたのは、署名入りの辞令書がコルテスの許へ届けられて10日も経った後だった。彼が隊長になるまで色々な議論を経ていて、コルテス派の総督への説得で漸く彼が隊長と決まった後も、不快に思う者が多く蔓延っていた。特にベラスケスの親類や名が上がっていた有力な貴族たちの嫉妬は激しかった。彼の船を先導する航海士がイドルフリートだとその時は誰もが予測していたのだから、彼らは二人の通信を断って遠征を困難にしようと企んだ。実際コルテスは遠征の話が出てからベラスケスに付きっきりであったし、イドもまた大陸の品を運んでくる船を誘導したりと目まぐるしく働いていたので手紙の他に二人が接触する機会は無かったのだ。イドに知らせが届いた時には、反対派の中でコルテスの遠征手段を破壊するという意見が既にまとまっていた。それはつまり船の先導を仕切る航海士の暗殺を意味する。イドはコルテスに自分の身の危険を伝える間もなく、反対派の嫉妬に振り回される羽目になった。

――神がコルテスを遠征隊を仕切る立場に置くことを望むのならば、その横に私が並ぶことも承知である筈だ。

これは驕りでも何でもない。そうでなければ何の為に今まで船を動かしてきたのか分からない。航海士となったのも、コルテスと再会したのも、ベラスケスが彼を隊長に任命したのも、全ては新大陸征服という野望を現実にする為の下準備に過ぎない。それを果たさずして今この場で散る命では無い筈だ。

そう強く自分に言い聞かせ、イドは泥に足を捕られないように一歩一歩慎重に歩いた。走る体力は残っていなかった。何処かに身を潜める為の場所が無いかと視線を四方に動かしながら歩く。暫くすると、木々が開いた比較的明るい広場へと辿り着いた。敵が近くにいたら直ぐに見つかってしまうだろうが、今はまだ追ってこない。広場の中心に人工的に作られた雨を防ぐ屋根があり、目を凝らすとその下には井戸があった。

「…民家、が近くにあるのか…?」

こんな深い森の中に?
不思議に思ったが、深く考え込んではいられない。追われてから何も口にしていないので喉が酷く渇いている。傷口が膿まないように消毒もしたかった。水が枯れていないことを祈って井戸まで歩く。おそるおそる下を覗き込むと冷気が彼の顔面を襲い、耳を澄ませば水音が聞こえてきた。水が枯れていないと知ってイドは思わず口元を緩ませた。早速ロープを中へ垂らし、余った力でなんとか水の入った桶を引き上げる。

(あ…やば…)

水を汲み浴びるように飲んでしまうと途端に酷い眠気に襲われた。安堵から来る疲労だろう。敵がまだ森の中を彷徨いているのだと頭では認識しているが、一度崩れ落ちた体はもう働こうとしなかった。傷口を消毒する力は残ってなく、重い瞼に逆らう根気もない。イドはそのまま力尽きて井戸を背にして眠ってしまった。




『…っイドはまだ帰っていないのか!?』

『すみません隊長、2日前から行方が掴めなくて』

『これ以上遅らせるとベラスケス殿の親戚が辞令を撤回させてしまうかもしれん。早く船を出したいというのにあいつは…!』

『…もう待つのは限界かと。前回の遠征でメキシコへの水路を把握している航海士が何人かいます。多少高いですが、そいつらを代わりに買いましょう。遠征を中止させられるよりはマシです』

『仕方ない…。分かった、その旨を手紙に書いて送ってくれ』

頭の片隅で声が聴こえた。それは自分が最も恐れていた現実だった。彼は諦めたように肩を落とし部下促して遠くへ歩いて行ってしまう。段々と小さくなっていく背中を呼び止めようと、必死に腕を伸ばした。


「……ッ待ってくれコルテス!!」


バサバサッと羽が擦れる音が遠くから響いた。光と鳥の囀りが朝を告げる。伸ばした腕を視界に入れ、その先が天井にしか向いていないことに気付いてイドは我に返った。

「…っ夢…?」

其処にはコルテスもその部下たちも見あたらない。目に入るのは今にも落ちてきそうな古い木で出来た天井だけだ。イドは下ろした手を心臓に当てて大きく息をつく。どくどくと忙しないそれは彼の心の動揺をそのまま表していた。だが同時に、まだ生きていることを確認できた。
イドは起き上がるとぐるりと辺りを見渡す。腿の傷口が痛むから夢ではないらしいが、確か自分は井戸の側で力尽きた筈だ。それなのに何故か屋根の下にいて、固いベッドの上に寝かされている。薄い毛布を退けて怪我を見るとぐるぐると厳重に包帯で巻かれていた。治療の為か下着以外は何も纏ってない。視線を横にずらせば椅子に泥を拭われた衣類が掛けられていて、剣と銃が並べて置いてあった。少々間抜けなその光景にイドは苦笑した。武器を持つ人間を救い、その凶器を並べて置いておくとは無防備にも程がある。大抵軍人は民家を食糧提供の場としか認識していないのだから、イドがその気なら銃を持って家の物を一頻り持ってこさせ、そのまま退散し恩を仇で返すことも出来る。

(…まあ、しないけどな)

イドは一応礼儀を叩き込まれた立場の人間であり、強盗のような行為は彼のプライドが許さない。そんなことよりもこの家の住人に興味があった。どのくらい眠っていたのかも知りたい。イドは毛布をはねのけると、置いてある剣の鞘を杖にして床に裸足で立った。ずくりと傷口が疼き反射的に眉をしかめる。

「ああ、立たないでおくれ。傷口が開いてしまうよ」

歩こうとした矢先、掠れた声が右から聞こえた。ぎょっとして視線を向けるとドアから老女が姿を見せる。白髪が目立つ髪を頭巾で隠しながらも歳を取った気配を微塵も感じさせない女は、てきぱきとイドをベッドに座り直させ手持っていたトレーをテーブルに置いた。上に乗ったスープが湯気を立てている。

「腹が減っているだろう?さあ、早く召し上がれ」

「…ちょ、ちょっと待ってくれ御婦人。貴方は誰だ?」

「答えられるような名も職も立場も無いよ。森の婆とでも呼んでおくれ」

唐突過ぎて展開についていけない。慌てて彼女の肩に触れて制すと、女は不思議そうに首を傾げた。

「此処には貴方しか住んでいないのか?」

「そうさ。井戸でお前が倒れていたのを持って帰ったのだけど、女一人で男を引き摺るのは苦労したねえ」

「私はどのくらい寝ていた?」

「拾ったのは昨日の午後さ。真夜中だったら狼に食われていただろうから、お前が倒れて数日其処で放置されていたってことはないだろうよ」

「…何故助けた?」

「…何故だろうね?」

今まではっきりと答えていたのに、最後の質問には笑みで返す。それにイドはぐっと眉をしかめた。何の対価も必要とせず武器を持った男を助けた、その裏の真意を知りたかった。敵の手が此処まで回っている可能を考慮しなければならない。だがイドは、少なくともこの女が敵側に通じているとは考えにくいと判断した。そうであったら眠っている間に引き渡されていただろう。派手に動けない以上、彼女を信じるしかない。

「…有り難く頂こう」

「ほれ」

諦めて手を伸ばすと、女はテーブルにあったスープをイドの手元に運んだ。薄く切り刻まれた野菜が浮かんでいるだけの、味のない湯のようなスープだった。それだけで彼女の生活苦をある程度までは推測出来てしまう。お世辞にも美味いとは言えなかったが、イドは残らず飲み干した。船の中で食糧不足に陥り、柱を纏う牛の皮を剥いで食べしのいだ日々のことを思い出して苦笑した。あれに比べれば十分豪華な食事だ。野菜が食べられるだけ有難いことだと思う。
イドが空になった入れ物を手渡すと彼女は頭巾の下で嬉しそうに微笑んだ。あまりにも幸せそうな顔をするものだから思わず固まってしまう。お礼を言うのは此方の方だというのに、女は皿をトレーに戻す過程の中で三回も礼を繰り返した。

「食べてくれる人が居るってのは、本当に幸せなことだねえ」

ふと溢された言葉に、イドはようやく納得する。一人で住んでいたという先程の返事が初めて意味を持った。女がイドを拾ったのは、純粋に人恋しかったからだろう。それが見知らぬ男だとしても話し相手になって欲しかったのかもしれない。

「確かに…その通りだな」

イドはゆっくりと頷いて肯定した。相手の心情を理解して漸く安堵出来た。らしくもなく人見知りしていたのだろうか。年を取った女と話す機会はあまり無く、突然親切にされて戸惑ったのかもしれない。何の意図もなく年上に尽くされたことは初めてだった。子供の頃だって、そのような類いの愛は経験していない。

「美味しかったよ。温かい物は久々に食べた」

味は無かったけれど、人を想って作られたスープはどんな香辛料にも勝るのだと初めて知った。改めて礼を言うと、女は皺が刻まれた手でイドの頭を軽く撫でた。

「良い子だねえ。まるで息子が出来たみたいだ」

「私はもうおっさんだよ御婦人。息子という歳ではない」

「私の昔の旦那に比べればお前なんて若造さ。名は何て言うんだい?」

「イドルフリート・エーレンベルク。イドと呼んでくれ給え」

「じゃあイド、背中を向けて御覧」

首を傾げると、女は湯気が立つ濡れたタオルを眼前で振って見せた。その意図に気付いたイドは素直にくるりと回転する。服を着てないとはいえ、汗まみれ泥まみれの体を数日も放置していたのだから確かに気持ち悪かった。瞬時に行動を移すところを見るとどうやら人の看病に慣れているようだ。こんな人気の無い森の奥に、独りで住んでいるのに。
温かいタオルに背中を拭われながらイドは静かに考える。他人の領域にずかずかと入り込むのは趣味ではないが、それでも森の違和感が気になって仕方なかった。

「私が倒れていたあの井戸は今も使われているのだろう?なのに此処以外の民家が近くにないのは何故なんだい?」

「…おや、あの井戸はもう誰も使っていないよ。昔は人が居たが、病気が蔓延してからもうみんな何処か行ってしまったのさ」

「病気」

「突然バタバタと人が死んだんだよ。井戸に毒が入っていたのが原因らしくてね」

「…………」

イドは思わず自分の喉元に手を当てた。その毒が入っているらしい井戸の水をがぶ飲みしたのだが。

「…私は生きているよ?」

「じゃあ噂は嘘だったのかね」

振り返って尋ねると女はあっさりと頷いた。満足気に笑って拭い終わった彼の背中を軽く叩く。何がそんなに嬉しいのか分からなかったが、女は説明しようとしなかった。




それから暫くお互いのことを語り合っていたのだが、喋り疲れたのかいつの間にかイドは眠ってしまっていた。心地よい眠りから醒めてぼやけた視界で辺りを見渡す。明かりの灯らない部屋は暗く、外も夜であることを知った。毛布が擦れた音に反応したのか近くの椅子で眠っていた女は「起きたのかい」と優しい声で語りかけてくる。まさか椅子で寝ているとは思わず、イドは慌ててベッドから体を起こした。

「私は貴方の寝台を奪っていたのか。すまない、次からは床で眠るからきちんと此処で寝てくれ。体が冷えてしまう」

「ああ、遠慮しないでおくれ。私の寝室は別にあるんだよ。好きでこうしているのさ」

「ではこの寝台は誰の…」

「娘の」

女は目を伏せて小さく言葉を溢す。

「娘のさ。こう見えて一人子供を産んでいてね。といっても、私にはあまり似ていないのだけど」

膝の上の指を組み直して、背凭れに体を預けながら笑ってみせる。伏せた目は指先に向いたまま一度もイドの方を見ようとはしなかった。

「…こうしてベッドの傍に座っていると、娘が村の子供に石を投げられて熱を出したのを看病した頃を思い出すよ。あれは体が弱い訳ではないのに、すぐに気に病むんだ。そういう環境に産んでしまった私が悪いのかもしれないがね…」

「私を拾ったのは、私と娘を重ねたからなのかい」

「自覚はなかったけど、そうなのかもしれないね。ああ、何ならムッティと呼んでくれても構わないよ。この家に娘がいない今は、私はもう母でも何でもないけどね」

「…そういうのは、娘に直接呼んでもらい給え。私が呼んでも虚しくなるだけだろう」

「…なら、もう一生呼んでもらえないのかねえ」

ちらりとイドを見た瞳が寂しそうに細められる。その瞳はかつてイドが亡くした、妻の眼差しに似ているような気がした。子を想う母とは皆例外なくそのような表情をするのだろうか。
イドは床に足をついて座り直すと、寝起きで肌寒かったのでシャツを取って羽織った。まだ疲れは残っていたが寝直す気にはなれなかった。

「私にも一人娘がいるよ。仕事の都合で、今は離れて暮らしているが」

「そうかい、イドはファーティなのかい」

「寂しい思いをさせてしまっているだろうが、帰ったらうんと甘やかしてやるつもりさ」

何時だって娘の成長した姿を想像しては顔が自然と綻んだ。それを仲間に指摘されては蹴散らす日々を何ヵ月と続けている。最後に笑顔を見たのは結構前の話だ。それでも戻ったら、またファーティと呼んでくれるだろうか。

「娘のやりたいこと、居なかったぶんだけ何でも願いを聞いてやりたい。次別れても繋がっていられるように」

「良い父親だね」

「本来親とはそういうものさ」

手探りでしか愛情を見つけられないけれど、娘の笑顔を見るたびに「ああこれで良かったのだ」思えるのは確かだ。それを愛しく想えるのは親の特権だ。少なくともイドはそう思っている。女は先程の寂しそうな影を残しながら、そうかいと笑って相槌を打った。そして腰を上げて椅子から立つと灯りが灯った蝋燭をテーブルから手に取る。

「此処に居たらイドは寝ないだろうから、私は私のベッドに戻るとしますかね」

これで話はおしまい、と女は笑って言った。そこで話を切られるとは思わなかったのでイドは呆けたまま数回瞬きを繰り返す。

「…気を遣わなくてもいいのだが」

「私が眠いんだよ。婆はそう遅くまで起きていられないからね」

背を向けられて少し勿体無いと思ったが、彼女の方が正論なので大人しく毛布に潜り込む。これ以上付き合わせてしまうのも悪い。相手がコルテスなら容赦なく寝かせないのだが、相手は年とった女だ。無理はさせられない。夜更かしがしたい子供が叱られて無理やり寝かせられる様だと自分で思って苦笑した。母に言われたら不貞腐れて眠るしかない。

「…なあイド、子供は親といたいと望むものなのかねえ」

「…言える立場ではないが、そうだと思うぞ」

話を終わりにすると言いながら、唐突に話し掛けられる。ドアに手を掛けつつもぽつりと尋ねてきた女に、イドは首を傾げつつ答えた。

「どんなに辛くても一緒にいたいって思うのかね」

「…ああ」

「……そうかい」

彼女は溜め息のような息を吐き、イドに背を向けてドアを開く。

「でも親は、子供に幸せに暮らしてほしいって願うものなんだよ…」

涙声で霞んだ小さな呟きは、自分自身に対して紡いでいるように聞こえた。正確には、娘にだろうか。イドはその呟きに答えることができず、黙ったままその背を見送る。夜の挨拶をすることも忘れた。あの頼り気のない小さな老いた背中は、独り娘を想い寂寞した夜を過ごすのだろうか。今日だけでなく、今までもそうして過ごしてきたのかもしれない。親という立場に置かれても子という立場を知らないイドは、女の苦悶を正解に導くことは出来ない。ただきっと、娘が自分を待ってくれているように、その娘も母を待っているのではないだろうか。そう思った。

「……娘か」

イドは醒めてしまった瞳を瞬かせて、仰向けの体勢のまま天井を眺める。そうして、間抜けな起き方をしてしまった今日の朝のことを思い出した。夢にまで見たのだからおそらく相当コルテスに置いていかれるのが恐ろしいらしい。一方で、ああして娘を想う母の言葉を聞いていると娘と離れて暮らしていることが何処か寂しく感じる。自分がどのような生き方をすればいいのか、そんなものは自分が決めれば良いと思っていたし、だからこそ故郷を捨てて南方へ向かい生まれつき絡み付いていた鎖を全て捨て去った筈だった。だが、そう言いつつ自分も随分と柵に捕らわれているらしい。海に想いを馳せる気持ちもありながら、純粋に娘に会いたいと思った。優柔不断な生き方だと笑われても、どちらかに絞って生きることは到底出来そうに無かった。




次の日、朝日が昇る頃になってイドは目を覚ました。陸にいる間はそんなに早く起きることはないのだが、どうやら老人の朝が早いというのは本当らしい。叩き起こされて朝食を食べろと小さなパンを2つ用意された。寝起きで霞んだ視界を指で擦りながらも、少ない朝食であるために数分で食べ終わってしまう。
倒れてから2日過ぎ、そろそろ仕事の方の様子も気になり出す頃だった。足の怪我は2日程度で簡単に治るものでは無かったが、痛みは大分引いたし気力も体力も十分に蓄えている今敵側に対抗する自信はいくらでもあった。その旨を伝えようと思い、台所にいる彼女の元に向かう。しかし刹那、玄関の扉が大きな音を立てながら開いてイドの心臓がはねあがった。

「ッイド!!!無事か!!!?」

「……っコルテス!?」

なんと将軍の直々のご到着だった。ずらずらと玄関先に並んだ十数人の兵士にイドは目を剥いて佇んでしまう。先導に立つコルテスは目敏く彼の姿を見付けて、ほっと安堵の息を吐いた。後ろを向いて兵士たちに合図をすると、煩わしそうに甲冑を鳴らす。

「なんだ無事か。村人に金髪の男が魔女に浚われたと聞いていたのに、心配して損した」

「……魔女相手に軍隊で突撃する気だったのかい」

「おやまあ、これはまた大勢のお客人だね」

台所にいた女が顔を出し、それが老女だと気づいたコルテスは目を見開いた。噂の魔女は彼女のことを指していたのだろう。嘗ては同じ村で暮らしていたのだろうに、その村人の薄情さにイドは嘆息する。随分悲惨な時代になってしまったことだ。未だ状況を理解出来ずに混乱しているコルテスに苦笑しながら、彼女に向き合い、深く礼をする。

「御婦人、世話になった。迎えが来たから私は行くよ」

「…そうかい。もう行ってしまうのかい」

「…一応訊くが、一緒に来る気はないかい?住む家なら用意してあげられるし、其処でなら魔女と呼ばれることも無いぞ」

「…烏滸がましいかもしれないが、娘と住んだこの家で、娘の帰りを待ちたいのさ」

昨日の夜と全く変わらぬ表情で微笑んで見せた女に、イドは仕方なく伸ばした手を引っ込める。歪んでしまいそうになる顔を引き締めて、小さく微笑んだ。

「…分かった。Auf Wiedersehen.」

そしてもう一度礼をすると、背を向けてコルテスの肩を叩き、兵士の間を潜って外に出ていってしまう。取り残されたコルテスは戸惑いがちに彼女に挨拶をし、兵士たちを率いて彼の背を追った。



「お前でも、母親の前ではあんな顔をするんだな」

「やかましい。人の顔盗み見るな」

「って母は否定しないのかよ」

「ムッティと呼んでくれとは言われたね。確かに私に母が居たなら、あんな風に接してくれたのだろうと思ったよ」

「ムッティって呼んだのか?」

「…呼ぶ顔だと思うのかい」

「心の底から思わない」

「なら訊くな低能が」

森の中を進みながら先導の二人は先程の女について話し合っていた。何が起こるか分からない深い宵闇の森の中でいつものやり取りを止めようとしない二人に兵士たちは妙に感心する。コルテスは既に甲冑を着こんだこと自体が馬鹿馬鹿しいと言い始め、森に入る頃には馬の背に全て預けて身軽になっていた。実際、彼の中では例の暗殺事件はとっくに解決していたのでわざわざ緊張感を張り詰めて武装する必要は無かった。代わりに徒歩で、未だ足が悪いイドを肩で支えながらゆっくりと進むことを選ぶ。

「お前の行方をアンドレース殿が教えてくれてな、彼の手伝いもあって遠征反対派を黙らせておいた。もう殺されることは無いから安心しとけ。悪かったな」

一頻り語った後、コルテスはイドが行方を断った間の詳細を説明した。彼自身も反対派に嫌がらせを受けていたが、大したものでは無いと切り捨てていた。だからこそイドの事を聞いたときはショックだった。彼らが直接コルテスに手を出せないのは当然で、代わりに周りを沈めるだろうということは少し考えれば分かる筈だった。認識の甘さが招いた事態だ。そう思いイドに謝罪を口にすると、彼は気持ち悪そうに身を捩った。

「…今夜は槍が降るらしいな」

「お前本当失礼だよな」

「この怪我は私の不注意が招いたものだ。君が謝る必要は無いさ」

むしろ船が私を置いて行かないでくれたのだから有難いことだ、と満足そうに紡ぐイドに、今夜はコルテスが気持ち悪さに鳥肌を立てる番だった。変な夢でも見たのだろうか。だがそう正直に言ったら怪我をしていない方の足で回し蹴りしてきそうだったので、彼は賢明に噤口した。周りの兵士たちも訝しげにイドを見ていたが、何も言わない将軍に倣って誰一人指摘しなかった。




そしてそれから数年の時が過ぎ、魔女と航海士は皮肉な再会をすることになる。魔女となった嘗ての女は、焼け屑と化したボロボロの体を、屍揮者となった嘗ての航海士に晒して笑った。その笑顔は、あの夜の時と幾分も変わらない娘を想う母としての寂しそうな表情だった。彼女が魔女だとは悲惨な時代だと、嘗てイドが自分で紡いだ筈だった。


『…子も母も、多くのことを望んでなどいなかったのだが、な』


子は母を求め、母は子の幸せを求めた。それだけのことだ。
あの時紡がれた彼女の苦悶を思い出して、イドはメルヒェンの中で静かに涙した。



―――
火刑の魔女と航海士。今まで書いた中で一番長いお話でした。
火刑の魔女の娘と母の擦れ違いが悲しすぎて、ていうかあの曲大好きすぎて是非イドさんと絡ませたかったんです。
地理というか国をまるごと移動させたような書き方しましたが、気づいちゃっても気にしないでください。
著者ベルナール・ディーアス・デル・カスティーリョの『メキシコ征服記』を参考資料として使わせて頂きました。
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