あのイドが自分の感情を俺に吐露したことが一度だけある。


随分昔の話に遡る。10年以上前の話だ。当時の俺はまだ学生で、父の言い付けに素直に従い机に向かって言語や法学の勉強をするだけの子供だった。
イドに初めて会ったのはその頃だった。彼はまだ航海士として活動しておらず、街で商人の下で働きながら小塚い稼ぎをしていた。俺の通う大学の学生ではなかったが、よく大学に保管されている古い書物を引っ張り出してきてはグラフや数式が散りばめられたものを読み漁っていたり、天文学の教授の元を訪れていたりしていた。

その日の夜は月の周りを白い星が一面に広がっていた。とても美しかった。天文学を勉強するイドと話すようになってから夜空を見上げることが日課のようになっていて、彼が示す星や星座の名前を頭の中で思い浮かべるくらいは出来るようになっていた。俺はその日も空を見上げながら、月明かりに照らされて浮かび上がる石畳を歩いて大学から帰っていた。
橋を渡る手前で足を止めたのは、その友人が橋の上から川を眺めているのを見つけたからだ。彼は手元に持っていた葉を落としては、ひらひらと風に舞い川の流れにそれが呑まれるのを見下ろしていた。夜空に映える金髪ですぐにイドだと気づいた俺は「よお」と声を掛けようとして目を丸くした。先に此方を向いたイドの顔が、闇のなかでも分かるくらい真っ赤だったからだ。

「やあ、フェルナンド。ひさびさだな」

「……イド、だよな?」

疑問に思うのも不思議ではない。いつものイドとは酷くかけ離れた人間がそこには居た。とろんとした目付きで幸せそうに唇を緩ませながら俺の名前を呼ぶのだ。普段の彼が何処にも見当たらなかった。彼は危うい滑舌で挨拶すると、ちょいちょいと此方に来るように手招きする。それに従って橋の真ん中まで歩いてイドと同じように川を見下ろした。隣からは、強いアルコールの匂いがした。

「どんだけ飲んだんだよお前」

「んー…。わからん」

俺は泥酔したイドを見たのは初めてだった。一緒に飲むことは稀にあるが、彼は基本的に酒に強かったし、決して限界を越えるような飲み方はしない。他人の前で理性を失うことを恥としているからだ。何故か珍しさよりも、戸惑いの方が強かった。そして、何がイドをこんな風にさせたんだろうと少し考えた。
イドはぷちぷちと橋に絡み付いている蔦の葉を千切っては川へ投げ込んでいた。風が強く吹くと葉は川ではなく地面に落ちた。その度にイドは舌打ちをし、川に落ちる確率を増やす為に手のひらいっぱいの葉をちりばめる。葉が綺麗に川の流れに乗ると、嬉しそうに笑った。屈託のない素直な笑顔だった。

「葉が船みたいだ」

俺は頷くことしかできなかった。イドの表情を盗み見ることに精一杯でまともな返事が出来なかったからだ。ふと視線に気付いた彼が首を傾げて此方を向くので慌てて顔を前方に戻した。川の流れに乗った葉が、他の障害物に当たることなく綺麗に視界の向こうまで流れていった。何度も何度も通ってきた道だが、川の底が透けるくらいに綺麗で水の流れが意外と速いことに今更気付いた。

「海にしか好意を持てないと、ずっとおもっていたんだ」

イドは葉を千切る手を止めて苦笑した。

「でも、好きな人が出来たんだ」

俺は固まった。思わずイドに視線をやった。彼の長い前髪が目元を隠すから表情は見られない。口元だけが自嘲するように歪んでいた。
イドが海を好きなのは知っている。何故天文学を学ぶのか尋ねたら、夢があるのだと言った。彼はその道が自分の前方に広がっていると確信していた。航海士という単語が彼の口から聞けたのは出会って間もない頃だった筈だ。
なのにこの歴然とした差はなんだ。人を好きになるのはイドにとってそんなに怖いことなのか。

「酔いに任せたら何か忘れられると思った。だが、無理そうだ。伝えることもできそうにない」

「…何故」

「諦める方が、楽だとおもった」

自分を失うことが怖いんだとイドは呟く。俺はその時、彼の言葉の真意が理解出来なかった。彼の言う喪失がどんなものか知らなかった。イドが恋をすることで、何を失うのか分からなかった。
手で何度も顔を擦るからおそらく今イドの顔はぐちゃぐちゃに歪んでいるのだろう。俺にはその横顔をずっと見続ける勇気が無くて、ひとつひとつ言葉を落としていく唇だけを眺めていた。泣くくらい辛いくせに、彼は唇を震わせるだけで必死に自分の感情に抵抗していた。嘆くことも叫ぶことも嗚咽を漏らすこともしなかった。あの時俺は、何を其処に求めていたのだろう。どうしてあんなにも熱心にイドの言葉に耳を傾けていたのだろう。

「…諦めようとする方が、きっと辛いと思うぞ」

俺は彼の肩を軽く叩いた。慰めたいと思ったわけではないが、自然と手が動いていた。言葉と触れられる感覚どちらに反応したのか分からないが、イドはぴくりと肩を揺らす。そして此方を見ずに「ふふ」と声を漏らす。震えていた。

「きみは時々、ひどく意地悪だな」

彼の言葉は核心を衝こうとしない。漠然とそう言われて俺は言葉を呑み込むしかなかった。
真っ赤な顔で泣きじゃくってもイドはイドだった。感情を吐露する彼は綺麗に映った。でも、彼は決して傍に居る俺の方を見ようとしなかった。意識して頑なにそうしているのだと気付いたのは、俺が彼に何らかの好意を抱いていたからだと思う。こんな人間でも恋をするのかと知った。そして、その感情が自分に向けられていないことも知った。
自尊心の強いイドが俺に対して内面の弱さを語ったのはそれが初めてだ。酒に頼ってでもそうした理由を後に俺は知ることになる。
その日の翌日、イドは何も言わずに俺の前から姿を消し一切の消息を立った。軍事訓練を受ける場を求めてヴェネチアに渡ったのだと知ったのは数年後のことだった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -