日が水平線に沈む。波が太陽に掛かる時間帯になると、浜辺に何人かが軽食を片手に集い始めてきた。彼ら彼女らの視線は一斉に沈みかけた太陽に向けられている。過ぎていく時間を視覚的に感じるということは何かしらロマンチックな雰囲気を演出するらしく、浜辺には恋人同士が多く見受けられた。太陽が真上にあるときは誰もそれに興味なんて示そうとしないくせに、どうして生まれる瞬間や沈んでいく瞬間には立ち合いたいと考える人間が多いのだろう。黄昏色に染まった空は段々と宵闇色に侵食されていき、ぽつぽつと港に炎の光が灯されていた。浜辺で砂をかき集めて遊んでいた子供たちは「海月が出るぞ!」という大人たちの大人げない脅しに驚いて、慌てて家で夕食を準備して待っている母親の元へ我先にと駆け出して行った。これからは大人たちの時間が始まるのだろう。

「お」

浜辺を背にして、一人のきらびやかなドレスを纏った女性が姿を現した。腰まで伸びた黒髪を高い所に括り、青いドレスで清楚な雰囲気を演出した美しい女性である。彼女は女性たちの羨望や嫉妬、または男性たちの下心を含んだ視線を一身に受け止めていた。コルテスとて例外ではない。船の欠陥部分報告と修復の必要性の有無が詳細に書かれた羊皮紙を眺める視線を上げて、その女性を見つめた。彼女は注目する人々に向けてドレスの裾をちょんと掴み控えめにお辞儀すると、胸に手を当てて大きく息を吸い込んだ。そしてその小さな体の何処から出したのか疑問に思うほどの声量で、美しい歌を唄い始めた。歌姫だったらしい。

「…綺麗なものだな。ああいうパフォーマンスは、俺が子供の頃には無かった気がする」

「この国にも、祭りや踊りを楽しむ文化が徐々に生まれてきたんですかね。最近若者は陽気な人ばかりですよ。特に港は騒がしい」

「はは、年寄りくさいことを言うな、ベルナール」

コルテスの苦笑に、ベルナールと呼ばれた男は「そうですかね?」と答えながら視線を羊皮紙に戻す。コルテスもそれに倣い目で文字を追った。細々と書かれたスペイン語は全てベルナールの筆記だ。その文字の横に乱雑にチェックが入っている。コルテスが行っているのは確認作業であり、彼の前にこの羊皮紙を頼りに実際に部下に指示命令を下していたのは別の人間だ。兵士や馬の導入はコルテスが直接手をつけるのだが、船や水夫に関してはベルナールや航海士に全て任せてある。その方が効率が良かった。地図に描かれた地形と導き出される距離、風や波の機嫌を読み、それを踏まえた労働力と食物の必要数を計算するのはコルテスよりも彼らの方が優れていた。
日が沈む頃には確認作業も終わるだろう。そう思っていたから、コルテスの気分も高揚していた。夜の港は騒がしく、あちこちで若者が食べたり踊ったりしていた。それに影響されたのかもしれない。華やかな空気は人を幸せにする。
コルテスの持つ羊皮紙に横から順々に説明を加えていたベルナールは、ふと顔を上げて背後を一瞥した。コツコツと一定の速度を崩さない音が背後から聞こえてきたのだ。段々と音量を上げるその音に耳の良い彼はすぐに気付いた。説明する口を止め、背後を振り返りながら「あ」と声を上げた隣の男に、コルテスも不思議そうに顔を上げる。同時にどん、と背後に衝撃が走る。体が前のめりに揺れた。

「…あ?」

見下ろすと両の腕が自身の胴体に絡み付いているのが見えた。見覚えのある指先と袖口に、コルテスは後ろを振り向く。だが衝撃の犯人はコルテスの背中に頭を埋め込んでいるようで、顔を確認出来なかった。ただ束ねられた金髪の尻尾が背後で揺れているのはちらりと視界に入った。

「イド?」

「………」

「イドだよな?」

「…私にもイドさんに見えますけど」

確認するように投げ掛けられたコルテスの疑問にベルナールは思わず口先を歪ませながら答えた。彼の位置からはコルテスの背中に顔を埋め込んでいるイドの姿がしっかりと見える。彼はコルテスの肩甲骨辺りに額を乗せて長い金髪で表情を隠し、長い両腕を存分に使って胴体にしがみついたままぴくりとも動かなかった。勿論コルテスとベルナールの会話にも反応しない。胴体に巻き付いた腕はぎゅううと音がしそうな程服に食い込んでおり、ベルナールは思わず痛くないのかと聞きたくなった。だがコルテスの表情を見る限りその様子はない。彼はどんなことが起こっているのかきちんと把握しきれてないようだった。

これは何か声を掛けるべきだろうか。

一切動こうとしないイドを見てベルナールは悩んだ。コルテスは驚いてされるがままなので、この妙な空気を打破するのは自分の役目なような気がしてくる。第三者から見れば、イドがコルテスを背中から抱き締めているという状態なのだ。体格的に抱きついていると表現する方が正しいのかもしれない。イドが無駄にプライドが高く、そのような行動をする人間ではないということをベルナールは良く知っている。だからこそこの状況を把握しつつも、原因についてまでは把握できるわけがなかった。指摘するべきか悩むのは当然だろう。段々周りの人間たちも集い始めて、彼らを囲むように円ができはじめる。これが男女のカップルなら、「お熱いねえ」程度で人々の興味も消え失せるのだが、イドもコルテスもどう見てもいい歳した成人男性だ。先程も言ったように此処の若者には陽気な人が多く、特に夜の港は遠慮を水平線の彼方に殴り捨ててきたような人間ばかりが集う。彼らは野次馬根性丸出しで興味深く視線を向けてくるので、視線がかなり痛い。片方が長い金髪だということで目立った。酷く目立った。歌姫に向けられていた視線と同様のものを一斉に受けて、第三者でありながら第三者になりきれないベルナールは困惑する。しかし根本の原因であるイドとコルテスは自分の世界に行ったまま帰ってくる気配が無かった。

「…何があったんだよ。お前、食物調達し終わったから酒場で飲んでくるって言ってなかったか?」

「………」

イドは応えない。その様子だと酒場で何かあったのだろう。ベルナールとは別の意味で困惑するコルテスは、羊皮紙を持っていない方の手で胴体に巻き付いたイドの腕をするりと撫でた。咎めるわけでもなく、ぽんぽんと軽くあやすわけでもなく、慰めるように優しく撫でたのだ。イドの指先が動揺にぴくりと動く。どうした?と尋ねる声が少し熱を帯びているように聞こえたのは、港の夜の雰囲気がロマンチックを演出しているからだろうか。ところ構わずな将軍の様子に「隣に私いますよー」と思わずベルナールは声を掛けたくなった。
しかしその時、黙ったままだったイドがようやく動き出す。

「………君は、無駄に肩幅が広い割に腰まわりは細いな」

彼はそう呟きながら顔を上げた。胴体から腕を離し、何事も無かったかのように数歩退く。コルテスに抱きついているときは泣いているようにも見えたのに、金髪から覗いた表情は爽やかな笑顔を浮かべていた。

「悪かったな。身体検査でもしにきたのか?」

「私がそんな暇人に見えるか?」

「じゃあなんだよ」

若干ぶっきらぼうなコルテスの言動と、イドの全てを払拭する笑顔から先程の違和感が嘘のように自然に二人の日常が成立する。普段の調子で話し始めるイドとコルテスにベルナールが拍子抜けする一方で、何事も起こらないと察した野次馬はつまらなそうにばらばらと散り、それぞれの娯楽を続行し始める。華やかな騒音が再び鼓膜を刺激した。非日常の再開である。
そんな周りの様子など露知らず、イドは先程までコルテスに抱き付いていた両手をコートのポケットの中に突っ込んで笑っている。酒を飲みに行くと言い残してから姿を見ていなかったが、イドの顔色は平常となんら変わっていない。おそらく酔うほど飲んでいないのだろう。口を開く調子もいつもと変わらなかった。

「コルテス、時代を感じる程私は歳を取ったつもりはないのだが、それでもなんとなく肌で感じるんだ。この国は華やかになったな」

「…は?あ、ああ。さっき俺もベルナールとその話をしていた」

唐突に何の脈絡もない話題を口にするイドに、話の意図が読めないままコルテスは曖昧に頷く。それに気分を良くしたのかイドはにっこりと微笑んだ。

「知的な言い方をすれば、文化的に開けたというべきだろうか。この国の人間は以前より陽気になったし、歌や踊りを楽しむ人間が増えた。だがなコルテス、周りの気分が高揚すると逆にテンションがだだ下がりする人間も現れることも覚えておかなければならない。周りのテンションがうなぎ上りするとやる気が氷点下に落ちるんだ。なんだこいつら馬鹿じゃないのか、と冷めた目で見始める人間も出てくるのだ。人が協調的な生物であり、周りの雰囲気に比例して生きていけると思ったら大間違いだ。例えば私なら夜の酒場でお祭り騒ぎな低脳どもを見ると、思わず哀れな視線を送ってしまう」

「…お前な」

金髪をかきあげながら淡々と述べるイドにコルテスは嘆息する。その様子だと酒場で一悶着起こしたようだ。よく見たらいつも丁重に整えられている金髪が若干乱れている。苛立っていたのだろう。あまり感情を表に出すような人間ではないから、言葉にされるまでは分からなかったが。

そうこうしている間に日は沈んでしまった。手元の羊皮紙を読むための明かりは持ってきていないので、この辺りで今日の分の仕事が終わることになる。コルテスはベルナールに紙を渡し、明日顔を合わせる時間を決めてから宿に帰るように勧めた。ベルナールはそれに従い、イドとコルテスに挨拶を告げてその場を去る。結局彼がイドに先程の行動の理由を尋ねることは無かった。空気を読んだというよりは、関わりたくなかったのだろう。



「…さて、イド」

「…なんだい?」

「分かっているだろう。本当は何があった?」

「それを訊くのかい。空気を読みたまえよ」

そう溜め息をつきながらも、イドはコルテスがそう切り返すのを分かっていた。ベルナールや野次馬がいる手前、素直に理由を吐けと言うような人間ではない。彼は人の心理を読むのに長けていた。状況に困惑していたのは確かな様だが、少しは原因を推測していたのだろう。何も勘付かなかったらああして指先を慰めるように撫でたりはしない。

「…少し、怖い思いをした」

「………ああ」

「酒場なんて特に気分が高揚している奴らが集まるだろう。金髪は私だけだったから、最初は余所者かとちょっかい出されただけなんだ。だが、ああいう集団はそのうちエスカレートしていくんだな…身を持って知ったよ」

「…身体に大事ないか?」

「見たところ平気そうだろう?大丈夫、なんともないよ」

そう言って微笑んだ彼にコルテスは心の底から安堵した。事が起こる前に逃げてきたのだろう。何かを隠す為に饒舌になり事実を塗り潰そうとする癖を持つ男だが、彼はコルテスの前で嘘はつかない。恐怖を感じたのは事実に違いない。酒場から逃れてきたその足でコルテスの元へ向かったのは、その本心の現れではないか。人前で彼に抱き付いたのは、その衝動に耐えられ無かったからではないか。コルテスはそう考えながら、イドの腕を引くと顎に指を掛けてくいと持ち上げた。常に意地が強いこの男が自分だけには正直に告白してくれた事が、無性に愛しく思えたのかもしれない。衝動に任せたまま唇を寄せると、彼は片手をその合間に差し入れた。

「……落ち着けコルテス、我に返りたまえ」

「人前で抱きついてくるお前に指摘されたくなかったなあ。いいから黙れよ」

「…っ」

イドが反論する間も与えず、コルテスは唇を奪う。後頭部の髪を鷲掴みして無理矢理顔の位置を固定した。下唇を舐めて口内の歯列をなぞり、奥へ逃げる舌を絡める。イドの表情を盗み見ると瞼をぎゅっと瞑って頬を赤く染めていた。口付けが恥ずかしいというより、人に見られるのが嫌らしい。彼の意図を読み取ってコルテスはやんわりと唇を離す。

「…低脳」

「そんな表情をするお前が悪い」

「どんな表情だ。ああもう、これなら酒場も君の所も変わらないではないか」

「ん?変わらないのか?」

「……変わらなくないです」

「なんで敬語だよ」

はは、とコルテスは苦笑してイドの肩を引き寄せる。友人にするようにぽんぽんと叩いてやると落ち着いたのか肩の力を抜いた。それでようやく彼が今まで肩に力を入れていたことに気付いた。柄にもなく取り乱していたのだろうか。それに関しては口を開かないだろうから追及するつもりもないが。
イドの肩を引き寄せたまま宿に戻るまでの夜の港を散歩する。歌姫の歌声は未だに響いて人々を惹き付けている。日暮れ以上の勢いで騒ぎ立てる若者たちを眺めながら時々イドと会話を交わし、目を合わせては軽く笑いあった。点々と道を照らす明かりはもっと火を強めていくのだろう。夜はまだまだこれからなのだ。周りのテンションに左右されて気分が上がったり下がったりと激しい友人を慰めてやるために極上のワインでも開けてやろうかと、コルテスは気分を高揚させたまま頭の中で思考した。


―――
スペインの港街の雰囲気が好き。特に夜が。

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