サンイヴェ

胸の中から込み上げてくる不安と、胃の中から襲ってくる吐き気が同時に俺を苛めている。耐え切れずに宿を飛び出した俺は、行く宛も無く夜の町を彷徨っていた。
動けば、体力を使うことにより空腹感がじわじわと俺を攻め立てる。此処数日間金も仕事も無く、何もない町を意味もなく歩き回っていた。仕事が見つかるかと物質していたのだが、妙に警戒心の高いこの町には付け入る隙が無い。だから、本当は動かずにじっとしていた方が無駄な体力を使わずに済む筈であり、今の俺の命を繋ぐ術はそれしか無いのだ。
しかし、宿でおとなしくしていれば恐怖と不安で押し潰されてしまいそうだった。行動しろと体が訴え掛けてくる。
理由は、金が無くなってからイヴェールの姿を見なくなったからだ。捜し回っても、目立つ銀髪を見つけることができない。
それでも走り回ることくらいしか脳がない俺は、空腹感に耐えながらイヴェールの影を追い続けた。何かに襲われて動けないのだとしたら、助けてやりたいと思う。だからエペノワールも手放さずに持ち歩いていた。

息を切らせながら走る町は静かだ。闇に染まったそこには、開いている店なんて一つも無かった。そんな場所に人が通るわけが無い。
初めは寒さに震えていた体も、今では汗だくだった。邪魔になったマフラーを外して、コートを腕に抱える。
まだ宿に帰る気にはならなかった。宿に戻っても、イヴェールが居なければすることがない。味もしない小さなパンを二人で分け合うこともできず、シャワーの水音も聴くこともなく、二人で狭いベッドで眠ることもない。なんてつまらない夜なのだろう。それならまだ、辛くても足を動かしていた方が気分が紛れる気がした。

「……?」

ふと足を止める。目の前に灯火を見つけたからだ。闇に目立つように灯るそれは、古びた店から発せられたもの。
この時間に店が開いていることにまず驚いた。中の賑やかな様子からして酒場のようだ。男たちの声がこちらまで響いてくる。
どうしよう、と考えて、結局足を踏み入れることに決めた。もし酒を頼めたとしても薄くて不味いものしか飲めないかもしれない。しかしこのまま宿に戻るよりはマシだ。
俺は歩を進めて酒場に入った。カラン、と鈴の音が聞こえる。真っ直ぐカウンターへと歩いて、主人に一番安い酒を一本持ってくるように頼んだ。小銭がテーブルの上で踊った。
俺は適当に空いている席を見つけて、崩れるように座り込む。足を休めて初めて自分がかなり疲れていることに気付いた。イヴェールの姿はまだ見えないというのに。

イヴェールが消えたことに切っ掛けが無かったわけではない。彼が消える前日の夜、久々に大喧嘩をしたのだ。二人とも金も仕事も無いことに憤っていて、小さな出来事で爆発させてしまった。
元から苛立ちでストレスを溜めていた俺は、そこら辺にあった娼館で安い女を買って気を紛らわしていた。しかし相当酔っていたのか、それを宿に連れて帰ってしまったのだ。
それで女を買ったことがイヴェールにバレて、金の無駄遣いやら仕事も見つけてないのに遊ぶなやら散々小言を突き付けられた。それは最もな理由だったのだが、苛立ちを解消する楽しみを邪魔された俺は冷静に物事を考えることが出来なかった。お前の顔を見るより女を買う方がよっぽど良い、お前は要らないと勢いで怒鳴ってしまったのだ。そして起きたら、イヴェールは居なくなっていた。
どう考えても今回は俺の方に非がある。いくら苛立っていても、それをイヴェールにぶつけるなんて間違っている。彼だって辛い思いをしながら一生懸命仕事を探していたんだ。
酔っていたのにあの夜の出来事は鮮明に覚えていた。冷静になった今では後悔しか残っていない。お前は要らないと相方に言われて、イヴェールはどんな気持ちだったのだろう。どんな想いで宿を去ったのだろう。
あまりにも馬鹿馬鹿しい記憶だけれど、イヴェールを傷つけるには十分のことを俺はしてしまったと思う。もう、あいつは帰ってこないかもしれない。

重い溜息を吐いて、伏せていたテーブルから顔を上げた。周りの人間たちは俺の不機嫌を余所に楽しそうに笑っている。
ふと、俺はそこであることに気付いた。周りを見渡して見ると、いつもの酒場より女の影がちらついた。痩せ細った薄幸の女たちが酌をして回っている。どうやら、この酒場は娼館も兼て運営しているらしい。確かに酒場の奥には個室がいくつか見つけられた。

「…女買う余裕、もうねぇな…」

経済的にも精神的にも。
イヴェールを失った今、他の人間を抱く気力なんてもう残ってはいない。頼んだ酒を飲んだら、さっさと出た方がよさそうだ。

「……ムシュー?」

小気味良いテーブルを叩く音と、耳にすんなりと入る声を聞いた。
手元には酒があり、どうやら頼んだものが来たらしい。ありがとう、と礼を言いながら、置かれたグラスに手を添えて注がれるワインを見つめていた。
そこで、酌をしてくれている女と目が合う。

「………、?」

長い銀髪を高い所で一つに纏めていて、きらきらと輝くそれはすぐに美しいものだと認識した。剥き出しの肩と腕がとても艶めかしくて、紺色のドレスは控えめなのに一層美しさを際立たせている。何より綺麗だったのが瞳の色だった。髪と同じ色をした睫毛が縁取る青と赤の宝石の色は盗賊の俺には喉から手が出るほど欲しいもの。稀にも見ない、オッドアイ。

「………っイヴェール?」

ガタン、と椅子を後ろに倒しながら俺は立ち上がった。その手を掴んでこちらを見るように引き寄せれば、衝動でワインの中身が零れる。しかしそれを気にしている場合ではない。
女はびくりと体を震わせて、恐る恐る俺を見つめた。逸らしたがるその瞳を見つけて、初めから気付いていたのだと察する。

「…ろ、らんさ……」

「……やっぱりお前か」

動揺はすぐに過ぎ去り、彼がイヴェールだと認識した途端、別の感情が沸き上がってきた。

「………なんで、此処に」

「偶然だ。……それより何だその格好はよ。お前此処にずっと居たんだな」

イヴェールは答えない。俺と目を合わせることも戸惑っていたのだから、罪悪感はあるのだろう。その反応に、戸惑いよりも先に怒りの感情が俺を纏った。
問いたださなくても理由は分かる。イヴェールは金が無いから、こんな所で恥ずかしい思いをしてでも働いていたのだ。彼は女顔のことをずっと気にしていて、自分の女らしい行動や格好を何よりも嫌っていた。それなのに何故ドレスを身に纏って働いているのかなんて、考えなくても分かる。俺の為だ。
しかし、俺の頭はそこまで冷静では無かった。イヴェールの腕を掴んだまま、カウンターまで引っ張り込む。

「、っローランサン」

未だ動揺を含んだ声でイヴェールは俺の名前を呼ぶ。俺は振り返らずに、酒場の主人を呼び止めた。

「…こいつを指名するから、個室朝まで貸してくれ。金は後で渡す」

「指名って、おい…っサン」

後ろで叫ぶイヴェールを無視して個室まで引きずり込む。周りの客が興味を示してこちらに注目し始めたが、気にはしなかった。そのまま個室にイヴェールを放り投げ、部屋の中に放置されている鍵でドアを閉める。イヴェールの咎める声はもう聞こえない。聞こうとしなかった。
鍵穴に鍵を通しながら、なんて馬鹿らしいことをしているんだと自嘲した。つまり俺は、他の女と同じようにイヴェールを買っているということだ。仕事仲間の、相方である筈の大切な彼を。
それでも、このままおとなしく引き下がるわけにもいかなかった。理由は分からない。でも俺は確かに苛立っていた。

後ろを振り向けば、イヴェールは怯えた目でこちらを見上げた。笑ったつもりなのに、堅くなった表情は全く変わらない。
イヴェールだって気付いている筈だ。俺が此処に彼を閉じ込めたのは、話をしたかっただけではない。
俺の為に無理に女に成り切っていたイヴェールは、また俺の所為で女として買われる立場になるのだ。

「……、やめろっ、ローランサン」

座り込んでいるイヴェールの前で屈んで、着ているドレスに手を掛ける。身を震わせて縋るように俺を覗き込んだイヴェールは、表情を見た途端泣きそうに顔を歪めた。ごめんなイヴェール、お前の期待裏切るよ。
後ろの留め具を半ば破るように外していき、見えた胸に顔を寄せる。イヴェールはぐっと俺の髪を掴んだが、構わずに突起を舌で転がした。

「…っや、だ、嫌」

「嘘言うなよ。悦んでいるくせにさ」

「ローランサン!」

「うるさい」

咎めるつもりで、胸に歯を立てる。すると面白いくらい身を強ばらせてイヴェールは固まった。

「なあイヴェール、お前こんなことずっとやっていたのか」

「……んな、」

「娼婦みてーにさ、客に腰振って金貰っていたのか」

胸から顔を上げて訊ねると、イヴェールは目を丸くして信じられないというように俺を見つめた。
知ってる、絶対イヴェールにこんなこと言わねぇもん、俺。
彼の口が何か言いたげに僅かに動いていた。でも俺はその言葉の内容を知っているから、無視してさらに言葉を次いだ。

「だったらさ、俺にもサービスしてくれよ」

俺だって客だろ?そう言ってイヴェールの逃げ場を無くす。何処までも卑怯で馬鹿らしいやりとり。でも、俺を苛める怒りは納まるどころか時が経つにつれ沸き上がってくる。嫉妬かもしれないと、思った。


水音が部屋中に響き渡った。俺は部屋にあった小さな椅子に腰掛けながら、下で必死に奉仕しているイヴェールを見下ろしていた。慣れていない舌使いは笑えるくらいへたくそで、それだけでもちゃんと気付いている筈だった。イヴェールは、此処に居る間体を売ったりする行為はしていない。
俺はイヴェールの髪を掴みながら表情をたまに盗み見て、やらせなければ良かった少し後悔した。苦しそうに性器を口に含む彼は、本当に傷ついた顔をしていたから。
見つけだして仲直りしたかっただけなのに、ごめんと一言謝りたかっただけなのに、俺は彼を傷つけてばかりで何の慰めにも成れはしない。

「…へたくそだな」

下唇を噛みながら苦笑すると、イヴェールは初めて目付き悪く睨み返してきた。

「……文句言うなら食い千切るぞ」

「巧いって言われても嬉しかねぇだろ」

「…どうだろうな…。ちゃんと奉仕出来るようになったら…それ相当の金が手に入るんだろう?」

イヴェールの表情に少し影が出来た。俺は訝しげに彼を見つめるが、皮肉げに笑うだけだった。

「…その方が良いのかもしれない。ローランサンにとっても、……きっと」

何が言いたいのかよく分からなかった。問う前にイヴェールは俺をまた口にくわえ、今度は丁重に舐めだした。さっきよりも快楽が下から込み上げてきて眉をしかめ、熱い吐息が漏れた途端イヴェールは嬉しそうに、儚く笑う。
違う、と思った。こんなのはいつもの俺たちの関係とは違う。行為の中、イヴェールはこんな消えてしまいそうな表情はしない。今まで俺たちは行為を互いに楽しんで過ごしてきた。それなのにどうして胸が締め付けられる思いをしなければならないんだ。

答えが出ぬまま、俺は黙ってイヴェールの顔を髪を引っ張って上げさせた。既に脱がしていたドレスを横目に、彼の背後にのしかかるようにして体制を整えた。
解いた髪が首にまとわり、流れるように背中に掛かっている。退かせば白い首筋が目に入った。顔を見ずに抱けば感情に直面しないだろうと思ったのに、その細さにまた俺は惑わされる。

「…女抱いてるみてぇだ」

溜息と一緒に小さく零した筈の呟きは、イヴェールにも届いていた。
ぴくりと細い肩を震わせて、首を振って俺から逃れようと身を捩り始める。
先程まで諦めたようにおとなしくしていたのに、突然暴れだした。

「…おいイヴェ、」

「………っ」

「いきなりどうした」

「な…んでも、ない」

問いかけても体を動かすだけで答えてくれない。
俺は力強くでイヴェールの動きを封じようと手のひらを押さえ込むが、それでもイヴェールは立ち上がろうと必死になっていた。
俺は彼の声が震えていることに気付き、押さえることに回していた手を、イヴェールの頭に添える。

「…顔、見せろよ」

表情を見ることを何よりも恐れていたのに、それよりもイヴェールのことが気になっていた。

「…っや、嫌だ!嫌、」

「………お前、何で泣いてんだよ」

イヴェールの動きがぴたりと止まった。図星、だったらしい。
俺は一度体を退けた。彼から手を離して、体を起こす彼を見つめる。おずおずとこちらを見返したイヴェールは、やっぱり泣いていた。

彼はやりたくてこの仕事をしていたわけでは無かった。女顔を気にしながらも一生懸命働いて、手に入れた金を持って俺の元へ帰るつもりだったんだ。「ごめんな、これで新しい街で仕事を探そう」と笑いながら提案してくれたかもしれない。
それでやり直しができると思っていたのだ。あの言葉と仕事の辛さは、俺が受け入れることで訂正される筈だった。彼はそれを求めていたんだ。
なのに俺はイヴェールを咎めて、苛立ちのまま女の真似事をさせた。それは彼にとってどれほど辛い裏切りだったのだろう。信じていた言葉も与えられず最も嫌っていることを強制させられて、傷つかないほうがおかしかった。

イヴェールの泣いている理由は、信じていた相方に女の代わりだと思われていると感じたからだ。
お前は要らない。女の方がマシだと俺が口にした罵倒を未だ気にしているのだ。

「…イヴェール、ごめん」

今までずっと心に残っていた言葉を、今やっと吐き出した。

「…お前、ずっと自分が女の代わりだって思っていたのか?」

「………、」

「俺が、女の代わりにお前を抱いているって」

「………違うのかよ」

「違うよ」

不安げに見上げてくる瞳に情けなく笑いながら、俺はイヴェールの髪に手を伸ばした。
確かにイヴェールは綺麗だし、女のような顔を気に入っているというのも本当だ。そういう意味で彼を抱いていると否定はしきれない。
けれど、

「女の代わりとかそういう理由で男抱くほど酔狂じゃねぇよ。そんな趣味無いし」

「…サン」

「お前だって、俺を女の代わりに抱いたこと一度でもあるのかよ」

イヴェールの唇に塗られている紅を指で拭いとると、彼は酷く驚いた顔でこちらを見た。俺は何も言わず微笑んでそのまま口付ける。
髪に指を通しながら掻き抱くと、胸からイヴェールの呼吸が聞こえた。強ばっていた肩の力は既に抜けていて、されるがまま身を預けている。
暫く黙り込んでいたイヴェールは、やがて俺の腕の中で苦笑に似た声で笑うと、背中に爪を軽く突き刺して答えた。

「無いよ」





「…っ、ぁ、う」

「…力抜け」

互いの呼吸に合わせるようにゆっくりと様子を見て慣らしたそこに入っていく。背中が強ばっていたので、キスを落しながら宥めた。乱れる息を整えようとしているのを待ちながら、やがて全て収める。上下する肩は相変わらず白いが、黙ったまま汗を舐めた。一本一本の髪を背中から落してやり、見えたうなじに口付ける。

「…大丈夫か?」

「ああ、きつい、っけど」

「すぐによくなる」

イヴェールの声を合図に体を動かした。腰をしっかりと掴み、抜き挿ししながら気紛れに背中を口で弄る。

「…や、あっ、は」

「イヴェ、かわい」

「…んう」

空いた片手で、震えている自身を柔らかく撫でた。びくりと反応するイヴェールが可愛らしくて、興奮した俺はさらに手を動かす。いつもより感じやすくなっているのか、イヴェールの息遣いはいつも以上に早く、彼自身も限界を訴えて震えている。
俺は先走りを指に絡めて舐めた。それを肩越しに見つめていたイヴェールの顔は林檎のように赤く、俺と目が合った瞬間すぐに逸らした。素直じゃねぇの。

「…大好きだよ、イヴェール」

耳を舌で弄り、吐息混じりに囁けば、イヴェールは突然頭を落した。黙ったまま固まってしまった彼の顔を上げさせると、また泣きそうな顔をしていた。さっきとは違った意味でだろう。
よく考えてみれば今まで行為の最中に愛の言葉を紡いだことは一度だって無かったはずだ。それは動揺もするか。
でも、確かに俺はイヴェールのことをちゃんとした意味で好きなんだと思う。女の代わりとか、相方としてとか、そういうのじゃなくて。この行為を楽しいと思える理由がちゃんと存在するんだ。

「ん、あ…っは、さんっ」

「…、何」

「も、だめ…!いく、ぅ」

「…ん、…俺も」

イヴェールの泣き声を聞いて俺も自分の限界を感じた。
さらに動きを早めて、二人で上りつめていく。

「ん、あ、っああぁ」

「…は、」

イヴェールを上から強く抱き締めて、二人同時に果てた。
汗だくの額を拭って背中に口付ける。イヴェールが身を捩りだしたので身体を離すと、お互いが見えるように正面を向き合い、今度は唇に口付けた。紅のついていないイヴェールは先程より艶めかしいなんて感じないけれど、それでも俺は満足だった。
それと同時に、彼が帰ってきたという安堵が漸く訪れた。これでまたイヴェールと生活が出来るようになるのだと考えると、嬉しくて仕方なかった。

眠い、とイヴェールは不満そうに呟いて、瞳を閉じた。久々に眺める寝顔に俺は微笑んで彼の横に並んで寝転ぶ。
部屋にあった薄い毛布を引っ張りだして、自分たちの上に被せた。


明日またいつもどおりの朝を迎える。
寝ようと瞼を閉じた瞬間に腹が主張の声を上げ、漸く空腹感という現実を思い出した俺は、色気がねぇなと一人笑った。
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