(サンイヴェ+ノエル/イヴェールに妹が居る設定)


おはよう、と朗らかに挨拶してくれるこの街の住人の言葉は私が馴染んだ言語とは少し違い訛っているように聞こえた。比較的南方に位置するこの地域は、南国の影響を色濃く受けている。南の住人の方が北に比べて住民の人間性が明るく感じられた。異国の文化も程よく共存し、船の中継地点としても栄えている。私は北から訪れた余所者だけれど、この街の雰囲気には直ぐに溶け込める気がした。
この街に訪れたのには理由がある。先日ローランの苗字を捨てて名のある男と籍を入れた時に、タイミングを見計らったかのように兄からお祝いの言葉を添えた手紙と品物を貰った。兄は程々の学があり、大学の図書館に詰められているような書物を読み漁るのが趣味のような人だ。手紙の達筆さと知的な文章に夫もまた刺激されたらしく、一度お会い出来ないだろうかと私に頼んできたのが切っ掛けだった。ただ、兄の職業を知っている私としては直接夫と会わせるのは憚られる。しかしその申し出を断ることなんて私の立場からは出来ないのだから、夫の前に私が先に会って兄にその旨を伝えることにした。手紙でも良かったが兄とは数年は顔を合わせていない。折角の機会だからと夫と共に南下することにしたというわけだ。私が兄の元へ行く間に彼には今近くの宿で待っていて貰っている。

手紙の封の裏面に書いてある宛先はこの街を指していた。人に尋ねながら歩いている途中に、露店の若者から兄の名前は良く耳にした。どうやらこの街では本業はしていないらしく、露店での売り子として生活費を稼いでいるらしい。「ああイヴェールさんね、知っているよ」という話から始まり、どんなに彼が気前の良い青年かまるで自分の息子を自慢するかのように話すのを他人の振りをして聞くのはなんだか擽ったかった。
住宅街にたどり着いたらすぐに目的の宿は見つかった。階段を上り、宿屋の女将に挨拶をして部屋に向かう。あまり広くはない場所だったけれど、北のスラムよりはよっぽどマシな場所だ。両親が亡くなって兄と二人肩を寄せ会ってそのような場所で暮らしていた過去がある私にとっては、こんな些細な場所に泊まれることでさえ極上の幸せのように思えた。
もうひとつある階段を上りきり、ぎしぎしと床を鳴らしながら部屋の前のドアに立つ。呼び鈴は無く、仕方なくドアノブを持ち上げて数回叩いた。反応は無い。太陽は昇りきっていないがこの街の住人は皆動き出している時刻だ。それなのにまだ寝ているのだろうか。扉を叩いていたドアノブをそのまま押したら呆気なく開いてあまりの無防備さに驚いたけれど、一応事前に手紙で報告しているからと中に足を踏み入れた。
入れようとした、が、

「…誰、あんた」

背後に音もなく現れた陰が、かなりの至近距離で静かな声を響かせた。疚しいことをしていたわけでもないのに肩が跳ね上がり、反射的に後ろを振り向く。そこには、私よりも頭二つ分ほど背の高い青年が鋭い眼孔でこちらを睨んでいた。いつからそこにいたのか全く分からない。宿に入っていくのに気づいて後ろから追跡していたのだろうか。底のあるブーツが歩くだけでぎしぎしと音を鳴らす床の上で無音を貫いていたのかと思うと酷く不気味だ。
何故、と疑問が浮かぶ。どうして私が睨まれなければならないのかしら?自分は兄に用があるのであり、睨まれる事をした覚えは全く無い。しかし目の前の青年は私が一歩でも部屋に踏み入れようものならすぐにでも掴み掛かりそうなほど警戒心と威圧感を漂わせている。

「…部屋、間違えていませんか?」

「あんたが間違えてんじゃねーのか」

「いや、合ってます、けど」

「女が此処に何の用だ」

青年は一向に警戒心を解かない。こちらこそ、どうしてこの男が兄の部屋に用があるのか聞きたい。帰れと言外に言われているのが分かるのに反論出来ないのは、もしかしたら自覚している以上にこの青年に恐怖心を抱いているのかもしれない。ぎゅっと手持ちの荷物を抱き締めながら、震える唇を噛み締める。男の手には黒々と鈍い光を放つ大剣が握られていて、堅気の人間じゃないと直ぐに理解した。鋭い眼孔は獲物を狙う肉食動物のようで、おそらく男は女一人どうにかすることなんかに全く躊躇などないだろう。被害に遭うのは正に自分だと気付いたとき、足が床に絡めとられたかのようにぴくりとも動かせられなくなった。

「黙ってんじゃねーよ…」

チッと男は不機嫌そうに舌打ちした。これだから女は、とブツブツ恨みがましく文句を口にし始める。

「もしかして、お前、アレか?イヴェールを訪ねてきたのか?」

「……」

口が思うように動かせられずにコクンと縦に頷いた。男はそれに眉をしかめると、剣を鞘に収める。しかし機嫌が直るどころか益々と苛立ち始める男に私は内心逃げ出したかった。イヴェールと名前を出したのだから彼は本当に兄と面識があるのだろう。だけれど、私もそうだと知って不機嫌になる理由が分からない。どうしようか迷ったが、逃げるにも出口は彼が塞いでいるため部屋を出ていくことは出来ない。ならばさっさと兄に会ってこの微妙に誤解された状況を何とかして貰うしかない。私は勇気を振り絞って男にお辞儀をすると、背を向けて早足で中に入っていった。

「あ、おい!!」

背後の男が声を荒げる。私は何も聞こえていない振りをして兄の姿を探した。早く早く会いたい。恋しさとはまた別の意味で焦る心と泣きそうになる感情を押し殺しながら、奥の部屋に足を向ける。おそらくこの奥は寝室だろう。人の気配はするから此処に兄が居るはずだ。ドアノブを握ると、バリッとなにかが破壊される壮絶な音が私のすぐ隣で響いた。拳が壁にめり込んだ音だ。男は呆然としている私を覆い逃げられないように壁へ追い詰める。陰が視界を埋めた。

「帰れ」

先程からずっと聞こえていた言葉は漸く音になって表に出てきた。まるで襲われているかのような体勢で言われた言葉に唖然とする。恐怖心に覆われながらもその意味を理解し、疑問と、そして怒りが徐々に沸き上がってきた。何様のつもりなのかしら。貴方こそお兄様の何なの?兄はもしかしたらこの男に好き勝手に居つかれているのではないのだろうか。そんな疑問が浮かんできたくらいだ。自分が理解しているよりもかなり苛立っているのだと、男を恐怖の対象にしながらも思う。
沈黙を保ちながらも睨み返してきた私に今度こそ男は顔を歪ませた。血管がこめかみに浮かんでいるのが見える。彼はグイッと私の胸ぐらを掴みあげてもう一度、帰れと繰り返した。「帰りません」と私は初めて返答する。ここまで来たら意地だった。私も兄譲りの負けず嫌いの頑固な性格で、それは相手が巨漢だろうが恐怖を抱く対象だろうが人間じゃなかろうが関係ない。私の目の前で今度こそ男は腕を振り上げる。威嚇の平手打ちくらいでは済まさないだろう。男の暴力は受けたことが無いからどれ程痛いのか分からない。覚悟する暇もなく私はぎゅっと反射的に目を瞑った。

「いい加減にしろ」

懐かしい声が背後から聞こえた、と思った瞬間バランスが崩れて後ろへ倒れ混む私を温かい腕が支え、もう片方の腕が目の前の男に向かって伸びるのを視界に捉える。そのまま視線を追い掛けると腕の先には小さな刃物が握られていて男の首筋に当てられていた。ぬっと這い出るように現れたのは間違いなく兄の姿をしていて、私と男の間に割って入る。刃物の位置は変えずに男と対峙した。しかし男も怯まない。

「てめえ…何処の女だそりゃ。いいご身分だな。部屋にそういうもん連れてくんなって言ったのは何処のどいつだよ」

「何のことか分からないけど、女に手を上げるなんて最低だろ。その分別も忘れたの?」

「そうやってフェミニスト気取って女のご機嫌取りか。良かったな様になってるぜイヴェールさんよォ」

「お前の行為は強姦魔と何ら変わらねえって忠告したのがそんな風に聞こえますか?」

どうすればいいのこの空気。
先程の怒りも恐怖心もぶっ飛んで私はあわあわと二人の間に入ろうとしたが、兄の背中に阻まれてそうもいかない。多分私が原因なんだろうなとは分かるけれど状況も理解出来ていないから打開策もない。でも男が二人で喧嘩したら口喧嘩では済まない気がしてきて、実際手や足も出そうな雰囲気を醸し出している兄の間をなんとかしてすり抜ける。「あの、」と口を開くと、目の前の男が驚愕に目を見開くのが分かった。

「私、ノエルです。イヴェールお兄様の、妹です」

その一言をさっさと言うべきだったのだろう。先程まで眼孔を鋭く光らせていた男の表情が一気に垢抜けた。






「へぇ、俺も是非会ってみたいな。お前の結婚に関しては無頓着だったし良い機会かもしれない。ひとつ訊くけど、ノエル。結婚の承諾に俺は関係してないよな?」

「お兄様が心配しているようなことは何もありませんわ。私の独断で、良い人だと思ったから承諾しました」

「なら良い男だ。手紙でもきちんとお前のことを気遣っている。文体から分別もあって素敵な人だと伝わってくるから安心したよ」

夫から手渡すように頼まれた手紙を読んだ兄は、微笑みを浮かべて喜んでくれた。私はホッと安堵して用意してくれた椅子に腰かける。とりあえず第一関門は突破した。あとは兄が上手く夫を迎える準備をしてくれるだろう。

あのあと誤解も解け、自然な流れで朝食を食べるように言われた私は「食べてきましたから」と断って二人が食事をするのを眺めていた。兄は手紙を読みながら食事をするものだから勿論寡黙になるし、もう片方の先程の男の人も口を食べること以外に使おうとしなかった。たまにちらりと私の方を向いては、気まずそうに目をそらし食事を再開することを繰り返す。私としてはもう気にしていないからそこまで拒絶しなくても良いのにと思っていたが、彼が誤解とはいえ私の何がそんなに気に入らなくて手を上げるほど帰って欲しかったのか良く理解できなかった。あの剣幕は初対面の人間に向けるようなものではない。親の仇でも睨み付けるような眼孔で、私はまるで蛇に睨まれた蛙のように縮こまって動けなくなってしまった。
兄は兄で、あのやり取りがあった後は何事も無かったかのようにダルそうに手紙の文字を追っ掛けていた。常にしゃんとしている人なのに行儀悪く肘を付いてパンにかぶり付いている。珍しいこともあるものだ。珍しいといえば、食事の間は薄いシャツを羽織っているが、寝室から出てきたときは上半身は何も着ていなくてまとめてもいない長い髪をだらしなく背中に散らしている格好だった。兄の裸なんて見慣れているから頬を染めることはしなかったものの、疑問は消えない。兄は本来、裸で寝ることなんてしない人だ。どんなに暑い日でも必ず何か薄いものを着て眠る。なのに今朝は何故裸で部屋から出てきたのだろう。女性の可能性も考えたけれど、男の私を見たときの反応を見る限り此処に別の人間が居たとは思えない。兄の肩に散る赤い花弁が見えたから、そういうことがあったことは間違いないのだけれど。
じゃあ、もしかして、目の前の彼が相手なのかしら。
そこまで結論がたどり着いたとき、自分が物凄いお邪魔虫になってしまった気がして居たたまれなくなった。余計な詮索は程々にしておいた方が良いかもしれない。
食事の時間を誤解の真実、兄と男の関係についての考察で埋め尽くして、食器が片付けられる頃にはそんな結論を出して思考をシャットダウンした。


「さて、じゃあ職業隠蔽のネタ探しから始めようか。といっても今は俺は本業には手をつけてないけどね。そっちは専らローランサンが…」

兄はそこまで口にした時、はっとした表情をして私に向き合う。

「ノエル、言い忘れてたけど、こいつはローランサン。俺の相方だよ」

「えっ、じゃあ手紙の相方さんってこの方なんですか…!私はてっきりもっと年がいってて図体が大きくて熊みたいな方を想像してました」

「熊!?」

ブハッと兄が吹き出した横でローランサンという方は怪訝そうに眉をしかめる。素直な娘さんだなとブツブツ呟くのが聞こえた。そんな嫌そうな顔をされても、手紙には容姿なんて描写されていないのだ。大剣を振り回して敵と大立ち回りを繰り広げる名のある盗賊だと誇張されて書かれていたら誰だってもっと強さを肉体的に表現しているような人間を描いてしまうだろう。

「お前、なんて手紙に書いたんだよ」

「事実しか書いてないよ。仕方ないじゃないか、俺だって出会う前のお前の情報で描いた想像上のローランサンはキモいくらい巨漢だった」

「お前の想像がきめーよ!」

顔を真っ赤に染めて兄に吠えるローランサンは、先程の面影を全く見せない。普通の人間だった。あの非情を絵に描いたような男は何処に消え去ってしまったのだろう。そう疑問に思うくらいはギャップがあった。あの時の彼は私を殺すことさえ厭わなかっただろうに。
ローランサンは兄の軽口に反発したあと、くるりと私の方に視線を向けた。思わずビクリと肩が強張ってしまう。じっと逸らされることのない瞳は先程とは違う色をしていたけれど、やっぱり何処かに威圧感はある。彼は怯えた素振りを見せた私を捉えて、深々と頭を下げた。

「すげぇ今更だけどさ…さっきは、悪りぃ」

「…え」

想像もしていない謝罪の言葉に唖然としてしまう。彼は軽く頭を上げると、気まずそうに髪をかきあげた。

「お前のこと、イヴェールの妹だって知らなかった。怖がらせてごめん。殴ろうとしちまったことも、その」

「気にしないでください。何も言わなかった私が悪いんですから」

あら、と思った。子犬みたい方だ。おそらく私よりは年上だろうに、眉を垂らして許しを請う姿は小動物みたいだった。あんなにも大きく見えた彼が今は小さく見える。纏っていた冷たい空気が一辺してまるで別人に謝られている錯覚に陥った。百面相だ。どれが本物の彼なのか分からない。いや、本当は全てが本物の彼なのだろう。元は本来感情表現が豊かな人間なのかもしれない。兄の傍で暮らしてきた私は、そんな人間にあまり出会わなかったからなんだか新鮮だった。一言で言うなら、可愛い人だ。


ローランサンが食器洗いに席を外した時、今まで私と彼のやりとりを黙って聞いていた兄はクスクスと笑いだした。

「面白い男だろう?」

「ええ」

自分の宝物を自慢するかのように話す彼はとても楽しそうだ。私は相槌を打って兄の方を向き合う。

「あいつ、俺の代わりに今盗みやっててさ、神経ピリピリしてたんだ。露店で働いてる俺と盗賊やってるあいつが関係持ってるなんてバレたら大変だろ?お前に剣を抜いたのは、まあ、そういうことだよ。許してやってくれ」

「…はい」

ローランサンは兄が盗賊であると私が知っているということを知らないし、初対面だったのだからそれは理解できる。でも、なら私が「イヴェールの関係者か?」という質問に首を縦に振ったときに彼が益々苛立った理由にはならない。

おそらく彼は妬いたのだ。私が、「イヴェールに関係ある女」だと思って苛立ったのだ。

目の前でそんなことも露知らず呑気に話している兄に、そのことを事細かに教えてあげようか悩む。でも肩に咲いた花弁には刻々と独占欲が見てとれて、見せ付けられている気分に陥った私は言うのを止めた。これは細やかな私のヤキモチだ。兄はもう私だけの兄ではないのかという寂しさからの感情だ。でも悪い気分ではない。このくらいの仕返しは許されてしかるべきだと、私は一人小さく笑った。



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