漆黒に覆われた世界が白み始める。店の窓から見える景色にローランサンは目を細めた。彼の背後には酔い潰れた男達がテーブルに額を刷り寄せ気持ち良さそうに眠っている。鼾が頻繁に響くが、耳には入ってこなかった。彼の周りは常に沈黙が渦巻いていた。酔うことが目的で酒場を訪れたのにアルコールが理性を流すことは無く、昨夜と変わらない冷えた感情が彼を包み込んでいる。それほどどうしようもない蟠りが胸に募っていた。

「これから人を殺しに行くみたい」

奥に引っ込んでいた女将はカウンターに身を乗り出すなり、彼をそう比喩した。奥から出してきた新しい酒を彼の杯に入れてやる。朝の光を浴びてキラキラと輝く液体に目を眩ませたローランサンは、それから顔を逸らした。今の自分の感情と似ても似つかない色をしている液体に苛立って仕方がなかった。「貴方が納得してなくてどうするのよ」と内心を見透かされたような言葉を迷いなく紡ぐ女将に、目を逸らしたまま彼は力なく笑う。

「納得出来るなら此処に来てねえし。女将さん、その喩え間違ってないと思うぜ。殺したくて殺したくて体が疼いてやがる」

「そんな殺気駄々漏れの状態で戻ったらあんたが殺されるわね。貴方に助けを求めないイヴェールの気持ち、私なら分かるわ。いい加減割り切らないとあの子が可哀想」

「随分饒舌じゃねーかよ。お前こそ殺されたいのか?」

「そんな勇気も無い小僧が玩具振りかざして喚いてんじゃないわよ」

男と女の物騒なやり取りを耳にする者はこの酒場には居ない。しかしそう思っているのは彼だけかもしれない。誰に見られているか、聞かれているか分からない。そんな苛立ちが常にローランサンを纏っている。女将は確信していた。この目の前の男は剣を鞘から抜くことはない。何故なら此処はそういう街だからだ。誰かが彼らのやり取りを覗き見ているかもしれない。もしくは寝ていると思っていた背後の男達は振りをしているだけで、静かに彼らの話を聞いているのかもしれない。誰が敵なのか理解できない。そんな気持ち悪さがその街には存在していた。

「運が悪かったと思いなさい。伯爵は貴方たちが敵に回していい方じゃないのよ。命があるだけ有難いわ」

ローランサンは血が滲むほど強く唇を噛んだ。こんな気持ち悪い街早く逃げ出したい。そう思っても行動に移せないのは、女将の言葉通り敵に回してはならない男を敵にしたからだ。それは情報収集を怠っていたローランサンにも非があった。しかし後悔先に立たず。今更悔やんだところで彼が街から解放されることはない。

一昨日。二人組の盗賊が豪邸に忍び込んだ。使用人としてその邸宅の主人に使え、構造やそれを踏まえた作戦を丁寧に模索し、気が熟したのを見て実行に移したのだ。彼らにとっては完璧な計画だった。しかし一つ誤算があった。彼らは時間を掛けて邸宅の価値を調べていたが、その時間分監視されていたのを考慮していなかったのだ。しかし気づかないのも無理はなかった。監視していたのは普通の何処にでもいる街人だったのだから。この街には至る所に目がある。敵の蜘蛛の糸に気付いたのは縄で両手を縛られた後だった。
後で知った話ではあるが、邸宅の主人、つまり彼らの獲物である人間は、彼らの中の一人が使用人として使え始めてから目をつけていたのだという。それは盗賊としてという意味ではなく、寝床を世話する相手として。情人としてだ。皮肉な話ではあるが、イヴェールの容姿に惹かれていた男は独自のネットワーク、つまり金で雇った街の住人で彼らを外側から徹底的に調べあげ、結果的に彼らを盗賊と知ったのだ。そんなことも露知らず餌を食いに来た盗賊たちを仕留めることなど容易かった。男は捕まった盗賊たちに向かって理解し難い提案を提示した。

『私は慈悲深い。お前たちを諫めることも、警察につき出すこともしない』

ただし、と男は条件を突きつけてきた。

『そこの銀髪、一晩私の相手をしなさい。一晩で良い。それで手を打とう』

彼の目的が初めからそれであると気付くには遅かった。使用人の時に向けられていたおぞましい違和感に気付いていたら、こんな事にはならなかっただろう。イヴェールを指差した醜い右手を、ローランサンは物凄い剣幕で睨み付けていた。しかしイヴェールはその指が自分を指していることに気付き、直ぐに表情を改めて、ただ一言「はい」と答えた。ローランサンに責任を押し付けることもなく、嘆くこともなく、静かにその命令を受け止めていた。

イヴェールの容姿が捕まった原因とはいえ、解放されるのも彼の容姿のおかげで時間の問題となった。ローランサンは一時縄を解かれ、一晩彼らの部屋の監視役に命じられることになった。事に及んでいる間に誰かに寝首をかかれたら堪らないという理由でだ。その『誰か』が自分を指していることは疾うに分かっていた彼は、その言葉で自分が逆に監視されているのだと気付いた。街には至る所に目がある。伯爵の息がかかった人間が何処に潜んでいるかは分からない。これは警告だった。
男はそれらに言ったのだろう、『とにかく白髪の青年が街を出ようとしたり、妙な行動を起こしたりしたら伝えろ』と。彼らはその理由も知らないままローランサンを四六時中何処かで監視している。盗賊として捕まる前にイヴェールを調べあげた様に。何処に張られたか分からない罠に猪突猛進するほどローランサンは愚かではない。しかし理解するのと納得するのは意味合いが違う。

約束が今日の夜だった。ローランサンは納得出来ないまま酒場になだれ込み、こうして酔えないまま朝を迎えている。何度も伯爵を殺しにいこうと考えたが、誰に見られているかも分からない状態で行動を移すのは憚られた。それに別れる前にイヴェールが笑ったのだ。自分はこういうのに慣れているから気にするなと。

『此処で妙なことして約束が無駄になるより、さっさとやること終わらせて出ていった方が良い。俺を叱るなら後でいくらでも聞いてやるから、今は頭冷やしてこい。明日そのツラのまま出てきたらぶん殴るからな』

ローランサンは頭を抱えながら杯に口づけ、苦笑して顔を歪ませた。

「無理だイヴェール。俺、無理だよ…」

酒を浴びるように飲んでも泣きそうになるのを止められそうになかった。イヴェールの叱咤の声が頭を反響しても尚、彼は醜い自分の心を隠すことが出来ない。それほど悔しかった。



「ろー、らん、さんッ」

結局酔うことも出来ないまま邸宅を訪れると、部屋でぼんやりと暇をもて余していたイヴェールが床を蹴ってローランサンに飛び付いた。彼の着替えや化粧を手伝っていた使用人の女達は、困ったように彼らを見上げるので、ローランサンはピシャリと彼の頬を両手で軽く叩く。

「ほらあいつら困ってんだろ。大人しくしてろ」

「ローランサンが飲みに行っている間、ずっと独りで寝てた俺の気持ち分かる?慰めるとか無いのかよ」

「笑顔で追い出したのはどいつだ」

「だってお前、今にも此処破壊しそうな剣幕だったからなあ。取引が成立したからには、伯爵は獲物じゃなくて旦那様だよ。ここからのラインはお前の管轄外だ。昨日のお前にはそういう理屈が通じそうに無かったから仕方ないよ」

こういう時に冷静に物事を判断するのは常にイヴェールだ。彼は昨日と何ら変わらない笑みを浮かべながら女達の間に戻っていく。香を付けられたのか、振り返り様にふわりとした甘い匂いがローランサンの鼻孔を擽った。苦手な香りでは無かったが、この手の匂いは夜の女の前で嗅ぐ種類のものだ。主人の趣味が底知れるようで思わず舌打ちした。まだ熟していない美少年を囲うのならまだ理解出来る。しかし成人した男相手には悪趣味だ。

「有名な話だったらしいよ」

女に髪を弄られながらイヴェールは呟く。ローランサンの視線で彼が何を考えているのか気づいたのだろう。真っ直ぐと軽く化粧を塗られた自分の顔を見つめながら、苦笑混じりに話始める。

「旦那様は男色という素晴らしいご趣味をお持ちだって。側近は殆ど16も満たない少年たちで、たまに家を出ては金のない子供を引き取ってやるんだ。家族を助けたければ私に使えなさいってね。慈善家って言えば聞こえは良いけど、つまりは愛妓探しだよ。でも息子一人差し出せば生活を援助してくれると考える頭の弱い親もたくさん居る。この街の人にとってはメシアさ。そう考えるとこの街の不気味さも理解出来てこないかい?」

ローランサンは思わず眉をしかめた。合点がいったのだ。街の中心部に立つ人間は自分が振り撒く餌に食い付く輩を求める、彼らは犬と成り、銘じられた部外者を音もなく威嚇する。

「伯爵は其処らの特権商人とも通じていて、兎に角金が尽きることは無い。他国を独占させ、アガリを貰い、それを街に振り撒き、この街を形成していく。盗賊風情が手を出して良い獲物じゃ無かったのさ。なんせそいつは街全体に護られてんだからな」

「…反吐が出るな」

イヴェールの講釈に彼は低く、ただ一言紡ぐ。何の感情も籠らないその声色は彼の普段の性格とは対称で、部屋の空気が薄暗く変化したように感じられた。イヴェールの飾り付けを嬉々として手伝っていた女達もその様子に身を縮こませ、動かしていた手を一度止める。目の前の青年が今にも剣を振りかざしそうな剣幕で一点を睨み付けていたからだ。沈黙が支配した空間が鋭利な刃のように恐怖を煽った。イヴェールはそんな相方の様子を見て呆れを含ませながら、しかし何処か満足したように口元を吊り上げる。長い間共に過ごして忘れがちでいるが、彼は本来獰猛な性格なのだ。性質が荒く、些細なことで直ぐに得物を抜き、人を殺すこともためらわない。イヴェールと出会ってからかなり丸くなったが、それでも本質が消えることはない。イヴェールはじっくりとそんなローランサンを眺め、本気で苛立っている彼を網膜に刻み付けた。ほんの少し恍惚に歪んだイヴェールの表情に彼は気付いていない。

「ま、単刀直入に言えば変態さんの御守りがこの街ってことなんだな。暴れる気力は無いし帰してくれるっていうんだからその通りにするよ」

「…酷いことされるって思わないのか?女装強要されてる時点で今夜のことを考えると胃が痛くなるんだが」

「だよな。ドレスは無いよな」

普段通りの調子に戻って会話をする彼らに女達は胸を撫で下ろし、作業を再開する。腹の中に溜め込んだ憎悪や嫉妬を隠したままローランサンも笑う。時間が刻々と過ぎる度に感情が黒く染まっていくと自覚しながら、ただ夕暮れを待った。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -