「玲士くん」
俺をそう呼ぶ人間はこの世に数人しかいない。
思い浮かぶのは好ましくない面々ばかり。
だから、名前を呼ばれるという行為はあまり好ましくない状況でしかない。
苗字である冥加と呼ばれる方がまだましだ。
よって、今、「玲士くん」とよばれ心臓を鷲掴みにされたような気持ちになったのは俺にしてはあまりにも予想外の出来事だった。
良くない状況。
ある時はヤツの手のひらで転がされる時。
またある時はやっかいな仕事の話を御影に伝えられる時。
その他いくつかあるのだが、主だったそれらから外れた今の感覚。
不愉快な気持ちになる事が一切なく、反射的に顔をそちらへ向けてしまった。
ぎゅっと心臓を掴まれ、逃げられない。
懐かしくも、酷く息苦しい感覚。
「玲士くん…。やっぱり、やっぱり玲士くんだ」
嬉しそうに微笑んだ少女。
枝織と似ているが、それより大人びた姿。
「冥加さま」
車を降りたところで立ち止まったままの俺に運転手が声をかける。
食い入るように彼女を見つめていた俺は視線をそらせずそのままに、その運転手に3時間後にまたここに来るよう伝えると一歩踏み出した。
天音学園のすぐ前。
生きる檻でしかない日常の風景にパズルのピースが一つ落ちてきた。
それに手を伸ばすように、俺は俺の名を呼ぶ彼女に歩み寄る。
「明希…なのか」
「久しぶり。本当に、本当に…!」
そんな俺を歓迎するかのように彼女は俺の手を左右の手でそれぞれ握った。
暖かい体温。
無機質な天音学園とは対照的に彼女は今、たしかにここに存在しているのが分かった。
明希は俺が今の俺になる前の知り合いだった。
今の俺になる前、というのは全てが起こる以前の俺のことだ。
天音に入学するより、あの忌々しいコンクールより、アレクセイに出会うより、そして、冷酷な現実を幼い俺が目の当たりにするよりもそれよりも前の、ただ温かな日常に笑みをこぼしてすごしていたあの頃の知り合い。
俺の手を今こうしてとっている少女はそんな俺の今を何も知りはしないのだろう。
だから、あの時と変わらぬ体温で、微笑みで、俺の手を取れるのだろう。
「大きくなったね、玲士くん」
「明希は…あまり変わらないな」
そんなことない!と不満そうな表情を見せる彼女に俺の真意は伝わらないのだろう。
幼い頃の俺を囲む環境はヴァイオリンと、家族と、そして度々ヴァイオリンの音を重ねた明希で構成されていた。
同じ日本人で、同い年で、同じヴァイオリンを奏でる少女は決して秀でた才能があったわけではない。
それでも小さな俺の世界の大きな部分を占めていた。
無くしていたものが蘇る気がした。
失ったものはもう戻ることはない。現実は冷たく、無慈悲だ。
それを痛いほど理解しているはずなのに彼女を見ていると過去の幸せな時間が甘い夢のように脳裏をかすめる。
「玲士くんとここでまた会えるなんてびっくり」
「明希は今はここに住んでいるのか」
「うん。祖父母が横浜に住んでてね、星奏学院って知ってる?そこに通っているの」
ふふっと笑って見せる彼女はふわりと空色のスカートを揺らした。
「玲士くんは天音なんだね。すごい」
ころころと変わる表情は俺とは真逆だ。
10年ほど経ってもなお、色褪せる事のないアルバムを見ているようだ。
「枝織ちゃんは元気?」
「ああ。今はここの中等部に通っている」
「そうなの!?また会いたいなぁ」
明希は枝織にとっても姉のような存在だった。
『明希さん、明希さん』と幼い枝織はよく後を追いかけて、明希に手を握って貰っていたのを思い出す。
俺たち兄妹にとって大きな存在。
あの事故以来一切会わなくなった明希が今こうして、ここで再会することになるとは思いもしなかった。
『家にくればいつでも会える。枝織も喜ぶ』
そう伝えようとした言葉が喉元で止まった。
子供の頃のあの日々のように気軽に家へ呼んだところでどうなるというのだろう。
明希は今日この瞬間まで幸せな日々の延長を生きてきたのだろう。
俺たちとは違う、別の人生を。
それを咎めるつもりはない。
彼女が幸せに生きてきたという事実を妬みはしない。
しかし、そんな彼女を俺たちに関わらせて良いのだろうか。
何も知らないまま、今後も彼女はこの笑みを携え生きていくべきなのではないだろうか。
そう考えた途端、話せることはなくなった。
もし、万が一にも、彼女の存在を悪魔が知り俺たちへの生贄にだなんて良からぬことを考えたりすれば一気に彼女の幸せは地に落ちることだろう。
這い蹲り、生きることにしがみつくだけで精一杯の生活など、この無垢な少女には似合わない。
俺の存在が彼女を脅かす可能性があるというのなら今すべきことはただ一つ。
過去を断ち切り、生温い思い出になど縋らないこと。
「…明希」
「なぁに?玲士くん」
幼い日の記憶がちらつく脳内を振り切って、俺はしなければならないのは。
「もう俺たちはあの頃とは違う。関わらないで貰おう」
冷めた目で見つめる。
もう元に戻れるはずもないのだから。
突き放した言葉に明希は瞳を丸くした。
「れい…」
「これ以上話すことももうない」
踵を返すと、天音の制服がたなびいた。
天音へ、俺の生きる世界へ戻ろうと踏み出す。
すると、振り払ったはずの手がまたぎゅっと力強く握られた。
「イヤ」
「俺に触れるな」
凄んで声を荒げる。
やり過ぎたか、と後悔する暇も無く手を引かれた。
油断したことで俺より遥かに小さなその身体に引き寄せられる。
「イ・ヤ!」
見上げられた顔が近づく。
負けん気の強い瞳が俺を睨んでいた。
ふわふわした先ほどまでの印象とは打って変わって、一歩も譲るつもりはないとばかりに明希は俺を見ている。
「あの日、突然姿を消して、私がどれだけさみしかったか知ってる?どれだけ心配したか知ってる?玲士くんたちに次会ったら話したいと思ったことどれだけあるか知らないでしょ?」
その瞳が潤んでいることに気づかないほど、俺の目は節穴ではない。
「玲士くんに話すことがなくても、私には山ほどあるの!全部聞いてくれるまで、許さない」
そうだ、思い出した。
幸せな記憶は、夢心地で写真のように一欠片ずつしかない。
けれど、本当の明希という人間は俺の世界を支配していたといっても過言ではないほど俺を縛る。
俺のヴァイオリンがどれほど素晴らしいと世間に言われようと、ただ一言彼女が「今日の玲士くんの演奏、へたっぴだったね」と言えばそれで全ての価値が決まってしまうほどに、彼女の存在は俺のルールになっていた。
それは、俺がどれだけ拒もうとも拒みきれない。
そう、なぜならあの頃俺は。
明希を…。
「玲士くんが、私のこと好きだったこと、私知ってたよ」
違う。
そんな言葉ではない。
愛していた。
報われなくても、受け入れられなくても、それでも。
「私は、…私も、玲士くんのこと大好きだったの」
明希の口から聞く愛の言葉に僅かながら動揺する。
過去のこととはいえ、俺の根本に彼女の存在がある以上無視できない感情。
ああ、だから明希は苦手なんだ。
憎らしいほどに、俺を捉えて離さない。
「言いたいこと言えずに消えちゃうなんて、許さないんだから」
俺の思うがまま、言うがままには決してならない彼女に今ここで出会ってしまったが最後、俺はまた囚われてしまうのだろう。
それが心地よいなど、口にしたくはないが本心は欺けない。