かぷかぷかぷ

息苦しい

酸素がないと人間は死んでしまうんだって

お水の中は気持ちいいけれど

とっても苦しい

きっとわたしたちの生きていくところじゃないんだね



そう思ってた


だから

衝撃的だったの


お母さんに言われて嫌々入ったスイミングクラブ


となりのレーンで楽しそうに、まるで水族館でみたきらきらのお魚みたいに泳ぐ


あなたの姿









「七瀬くん、はい…これ…」

「…ああ、…ありがとう」

私が差し出したノートを隣の席の男子、七瀬遥くんはいつもと変わらない無表情で受け取った。

決して嫌われているわけではないのだろう。
彼はもともとこういう性格なのだから。

そう分かっていてもそこで終了してしまう会話に虚しさを感じた。



先生に頼まれて配るクラス全員分のノート。
先日提出した英作文の課題。

高校生らしい何気ない日常。

窓際の席の彼に背を向け、次に配るノートに書かれた名前を見る。
ここと正反対の位置の子のものだ。
せめて列ごとに揃っていれば配るのも楽なのに。

春とはいえ、少し暑いくらいの気温。
ふぅ、と私は息を吐きながら一歩踏み出す。


「…松井」

そこに、呼びかけられる声。

驚き振り返ると、ノートの重みを忘れていた私はバランスを崩してしまった。
がつん、と自らの机に足をぶつけ、斜めになる体、ノートのタワー。

「あぶない」

抱きとめられた肩から制服越しの暖かさを感じて心臓が跳ねた。
プールに体を入れたあの時の感覚をなぜか思い出す。

無様にも倒れかけた私を助けてくれたのは七瀬くんだった。

頭一つ分大きな彼の身体にしっかりと支えられた私は不自然な体制ながらも火照る頬で彼の顔をみる。
冷たい水のように涼しげな彼の表情は先ほどまでと一切変わらないのに、いつのまにか立ち上がって私の背後にいた。

「ごごごごめん!」

彼により掛かっている自分の状態に気付いて、恥ずかしくなってすぐさま離れる。

しかし、足もとに散乱しているノートたちが私をますます慌てさせた。

「ああ!」

まだ配れていないクラスメイトの大半のノートがそこに散らばっている。

恥ずかしい、申し訳ない。

俯いて慌ててそれを拾い始めた。


些細なことに驚きすぎだ。

七瀬くんは私の名前を呼んだだけだ。

それだけ。

それ、だけ。

気にしているのは私だけ。

だって向こうは覚えてもいない。


小学生のころ一方的に憧れていた彼が同じクラスにいるなんて、私以外誰も知らない。

知るはずもない。


ふと視界に影が落ちる。


「…え?七瀬くん?」


口を閉ざしたまま、七瀬くんは私と同じようにノートを拾い始める。

「あ、ごめ…」

ちらり、彼青い瞳が私を捕える。
それは、深海のようだと思った。綺麗でどこかせつない、海の色。

「…ありがとう……」

視線を逸らされて、私も床を見ながら礼を口にした。
七瀬くんの顔を見ていると口が開けない。
まるで水の中にいるみたいに息ができなくなるんだ。
あの頃も、そうだった。
真っ直ぐ顔を見て、彼と言葉を交わすことが私にはできないらしい。


「明希どうしたの?手伝おうか?」

「あはは、ごめん、大丈夫だよ」

無様に地を這いつくばるような私の姿に気付いた友人が声を掛けてくれた。けれど、もうそのほとんどを七瀬くんが拾ってくれていたので私は自分のすぐ目の前に散らばった数冊を拾えば終わりそうだった。

七瀬くんにはすごく申し訳ない。

手伝ってもらったこともだし、こんな風に地味で情けない、地面にしゃがみこむ姿を彼にさせてしまったこと。
彼には、似合わない。


拾い終えた私が立ち上がると、真正面で七瀬くんも起立していた。

「本当にごめんね、七瀬くん」

片手で拾ったノートを持ち、もう片方を彼に差し出す。
七瀬くんの手にあるノートを受け取るためだ。

しかし、七瀬くんは私をじぃっと見つめ、ノートを返そうとしてこない。


「あの…七瀬、くん?」

なぜだろう。
もしかして何か怒らせるようなことをした?

七瀬くんのあの瞳が私を映し、また私は息苦しくなる。



かぷかぷかぷ

口から吐いた息が泡になって上がっていく


苦しい


ななせくん


くるしい


差し出していた右手。

その手を、七瀬くんの左手が掴む。


「え?」

その瞬間、息ができた気がした。


「溺れてた」

「…え?」

「松井、また溺れてた」


繋がれた手、体温、心配そうに見つめてくる瞳。
私は、知ってる。


「…ハルくん」

苦しくて怖くて、嫌いだった水中。
そこから救い出してくれた少年。

憧れてた。


「……その呼び方、なつかしい」


ふと微笑む顔にまた心臓が跳ねる。

ぶくぶく沈むだけだった水の中で、私を引っ張ってくれた人。
私を陸へ上げてくれたのに、私がまた水に入りたくなってしまう原因を作る人。


『ハルくん、くるしいよ』

『もう平気だよ』


『ハルくん、またわたしが溺れたら助けてね』

『うん』


幼い日の憧れは今も色褪せない。

「…覚えててくれたの?」

「一応」

「そっか…うれしい。ありがとう」

どうしようもないほど、溢れる思いはどこへいくのか。
口から吐いた息が上へ上へと昇って行くようで、
水のようにつかめない。

「これ、配る」

「えっいいよ。私の仕事だから」

「…明希を助けるって約束したから」


「ハル…くん…?」






『うん、明希が溺れてたらまた俺が助ける』




遠い日の、約束。

忘れていたのは私のほう。


お互いの苗字なんて知らなくて、ただ呼ばれてた名前で呼んでた。
そこに深い意味なんてなくて、いつもあのプールにいけば会える友達みたいな、知り合いみたいな、そんな関係。


中学生になる頃にはぷつんと切れてたそれが、今になってまた蘇る。


どうして私は彼を覚えていたんだろう。

どうして私はあの約束を忘れていたんだろう。


「…あ、りがとう。ハルくん」

去っていく彼の後ろ姿に、口を開く。

彼はいつもいつも私の憧れだ。


すぐちかくにいて、届かないのに、手をのばせば、握り返してくれる。

優しい背中。

冷たい海のような瞳。


これからもまた、私は彼に溺れてしまうのだろうか…。




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