放課後の教室、ただ一人自分の席に座って一枚の紙を見ていた。
文字と数字、そしてグラフ。右端にはご丁寧に学校名にクラス、そして私の名前がしっかりと刻まれている。
クラスメイトたちは既に部活へ行ったり帰宅しているので教室には誰もいない。SHRで担任から「結果が届いたぞー」と配られたそれを覗かれる心配もなく、私は模試の結果と言う名の現実を見つめていた。
現代文に古文、数学、英語など分けられたマス目。となりには得点、そして全国・校内での偏差値、順位がはっきりと記されている。聞いてもいないのに前回の結果との比較や弱点の指摘までされたその紙を握る手に力が篭る。私は高2、受験まではまだ1年ある。
まだ1年、いや…1年しかないのだ。
ついこの間高校受験をしたばかりな気がするのに、また受験だなんて。
私の結果は、正直良くない。
頭が悪いのかと言われたら、違うと思う。失礼な話ではあるけれど、うちの学校よりレベルの低い高校なんていくらでもあるし、学年の中で比べても私より下の人はもちろんいる。
しかし、それ以上に上が多い。東大だとかそういう名門の大学に進学したいとは思わないし、この成績でできるはずがない。それでも私より上の人たちがたくさんいるのは事実で、私はその人たちに確実に負けているんだ。
今日も一度帰宅したら、塾へ行かなくてはならない。先生にこの模試の結果を見せたら何と言われるだろうか。志望校だっていい加減決めろと言われている。目標がないからやる気がでないんだ、お前の目標はなんだ、将来どんなことがしたい。槍のように私の心を傷つける言葉たち。
そんなこと、私が聞きたい。私はなんのために勉強をしているんだろう、どこへ進学し、どんな道に進めば1番良いのか?
誰も教えてくれないし、自分自身で考えれば考えるほど何もかもが違ってみえて、余計に苦しくなる。
進路だなんて簡単に言うけれど、今の私が決めてしまっていいものなの?諦めて適当な大学を選んで進学したら楽しい生活ができるの?頑張って難しい大学へ入って私は一体何を得られるの?専門学校へ行くのなら何を学ぼうとするの?なら、高校出たら働く?『社会人』だなんて立派な肩書きを私は名乗れる?
わかんない。
友達にも聞けない。
聞けるけど、それは相談というよりその子の意見を聞くだけで私の意見じゃない。その子に言われたこと全て受け入れたらそれは私の進路じゃないし、選択した先で後悔したくない。だからこそ、余計決められない。
もう頭のなかぐちゃぐちゃで、すごく苦しいのに解決策が見つからなくて、辛い。
私はなんでこんなに苦しんでるんだろう。
ぽたり、
涙が印刷された文字を溶かす。
泣いて、全てがこの文字のように溶けてしまえばいいのに。
難しいことなんてなくなればいい。
どうして私はこんなことでこんなに悩まなければならないんだろう。
辛い…………よ…。
ガラッ…
教室の扉の開く音。
「え…!?」
油断していた。
つい音のした方を振り返ってしまう。醜い、自己嫌悪の涙を流したままのその顔で。
「あ?」
そこにいたのは同じクラスの男子、榛名くんだった。
やばい、そう思って崩れた顔と涙で滲んだ模試の結果を隠すように机に伏せる。
「…なに?…してんだ?」
榛名くんとはそんなに親しくもないのに、その声で簡単に不思議がる顔が想像ついた。
「なんでもない」
泣いてたから、鼻声になった。みっともない。
見られたかな、泣き顔。教室で一人で泣いてたなんて相当変なヤツだな私。はは。
「ふぅん。電気もついてねえから誰もいねーのかと思った」
榛名くんは私の顔にも声にも気づかなかったのか、ロッカーをがさがさと漁り、さらに自分の机の中も探しに来た。
榛名くんの席は私の斜め後ろ。見なくても音だけでなんとなく何かを探してるのは分かった。
そして小さな声で「あった」と言う。
よかったね、用事が済んだなら早く教室から出てって欲しいな。
なんて言えず、私はじっと堪える。下を向いているせいで鼻水が出そうになり、軽く啜った。
「…なぁ」
私と榛名くんしかいない教室。呼ばれていることくらい私にだって分かる。
「…なに?」
小さな声で返事をした。
「なんで泣いてんの?」
「…………」
見られ、てたか。
榛名くんか、よりにもよって榛名くんか…。
私の気持ちなんて榛名くんにはきっとわからないんだろうな。
「……フラれた?」
「違うし」
「あ、そこは否定すんだ」
「私べつに好きな人とかいないし……」
部活もしてなければ、恋愛もしてない。青春なんてもの、どこかで落としてきてしまったのかも。
「じゃあなんで?」
面白そうに聞く榛名くん。彼は野球部のエース。もしかしたら推薦で大学に行くのかな。いいなあ。推薦を取ることすらできるかわからない私がいるのに。
「…進路」
これ以上突っ込まれても嫌なので素直に私は吐いた。顔はまだ、見せないままで。
「進路ォ?なにこれ、あー今日配られたやつね」
断りもなしに榛名くんは私の腕と机の間から紙を抜きとった。見られたからどうと言うわけではないけれど、なんとなく嫌で私は頭を上げて取り返そうとする。
しかし、ひょいと見事に避けられた。さらに私を指差し、ひでぇ顔と笑う。酷いのはそっちだ。
「返してよ」
「そんなに悪くなくね?俺もっと悪いし」
「…。でも榛名くんは少しくらい悪くても大丈夫なんでしょ」
「まぁな」
さらっと返せる榛名くんが羨ましくてちょっと憎い。
「榛名くんは大学行っても野球やんの…?」
「え?んー…、野球やるため大学行くか、野球やるためプロになるかだな」
「…?」
どういう意味だ…?
「だからさー、まぁ次の夏の結果次第ってとこ?そのままプロになるかもしんねーし、スカウトされた大学で野球やってその後プロになるかもしんねー」
…ちょっと私、話が飛躍しすぎてていまいち理解できないんですが…。
「プロ…ってプロ野球選手?」
「それ以外になにがあんだよ」
プロ野球選手…って…小学生の夢じゃん…!高校生の進路がプロ野球選手って、そんなのアリなの?たしかに榛名くんはすごく野球が上手いらしいけど、そんなになの?なれちゃうもんなの?こんなに今近くにいる人が、テレビの向こう側でしか存在しないような有名人になったりするの?
私は、ただ驚いた。
榛名くんが冗談を言っているようにも見えない。
私が進学と言う悩みを抱えている間に榛名くんはその先を見て、考えていたということだ。榛名くんが毎日やっている部活の練習はきっと将来に繋がる。しかし、私はどうだろう。次の受験という通過点のための勉強だけに捕われて先が全く見えていない。
楽観的に笑っていられる榛名くんの方が私よりずっと真剣に将来を見据えていたんだ。
「え!?な…なんでまた泣き出してんだよ」
「ご…め…っ」
私が聞きたいよ。なんで私こんなに情緒不安定なの。感動と不安と劣等感と尊敬と。沸き起こった感情たちが入る余裕もなかったのか、また涙が溢れ出てきた。
「あっほら!ガム!これやるから、元気だせ!」
先程机の中から見つけ出したらしいガムを差し出してくる榛名くん。まるで子供に飴でも与えて気を紛らわせようとするかのように。
「………ありがと」
その必死な顔がなんだか面白くて、私は泣きながら微笑んだ。あまり好きではないキシリトールのガム。けれど、なぜか素直に頂こうと思え、手を伸ばした。
「ん」
私が笑ったのに満足したのか榛名くんも笑う。
「進路とかさ、俺は結構前からプロになるっつって決めてたから他のやつがどーすんのかよく知らねーけど。松井が泣くほど悩んで決めんのなら悪くなくね?」
「え…?」
「実際どーなるかなんてそん時にならないとわかんねえんだから、今の松井がやりたいこととかしたいこと決めたらいいんだよ。その先のことなんて、そん時の自分がなんとかすんだし」
くちゃ、榛名くんがガムを噛む。となりの机に腰掛け足を組んでちょっと偉そうな態度。けれど、私を榛名くんなりに励まそうとしてくれてるのが分かって、榛名くんってこんな人だったんだなと今更ながらに思った。本当はもっと冷たくて自分中心に物事を考えている人だと思っていたから。
「うん…。そうだね、もう一回私考えてみる。ありがとう、榛名くん」
「おう。じゃあ俺部活戻っから」
「いってらっしゃい、がんばってね」
ニッと微笑みを残して榛名くんはバタバタと出て行った。
夕暮れの陽の光が消えはじめ、教室がだんだんと暗くなる。そろそろ私も帰ろう。
榛名くんが置きっぱなしにしていった私の模試結果。なにも変わっていないのに、さっきより見るのが辛くない。
緑色したガムを口に放り込む。
鼻を抜けるような、キシリトールの味。
美味しいとは思えなくても、今日はなんだか好きになれる気がした。