小説q | ナノ


||| サンダルフォンと星の子の終わり

「ああ……よかった。目が覚めたのね」

真っ黒の視界が白になる。見たことのない景色に言葉を失い、呆然と白と黒を行き来していると透明な声が頭上から落とされた。
聞いたことのある声だ。水の様に清らかで静かで、人の心を受け入れる声。僅かに顔を動かすと、声の主は優しく笑い再び声を発した。
「貴方が一番お寝坊さんなのよ。よく眠れた?」
「あなたは、ええと、水の……」
「そう、元水天司ガブリエル。おはようナマエちゃん、覚えていてくれて嬉しいわ。少し待っていてね、あの子たちを呼んでくるから」
形となった言葉を発する間もなく、水天司の遠ざかる足音を聞く。音の反響で、ここが狭い個室の中だと漸く理解できた。
背中にしているのは柔らかい板、ベッドだろうか。身体には薄布がかけられていて寒さは感じない。視界にちらちらと入り込むのは薄い白のカーテン。よく見ると細かい刺繍が施されている。キラキラと世界を彩る太陽の光が眩しい。空は何処までも透明に澄み渡り、のどかな鳥の鳴き声がまるで答えの様に耳に染み付いた。
――ここはどこなのだろう。終末はどうなった?
とても平和な世界の中、疑問が胸を突きさす。息を吸えば正常な空気が肺を満たし、己の見ている世界に不安ばかりが広がる。
目が覚めるまでナマエはパンデモニウムに居たはずだ。そこで……何が起きた。
言葉に詰まり息が出来ない。何が起きたのか思い出せない。これは夢に似ている。酷く悪い夢を見たはずなのに、言葉にできない嫌な感覚。喉まで這い上がる恐怖が人の心を苛み苦しめる。からからに乾いた喉が焦りを助長し、じわじわとナマエを締め上げていく。
くるしい。だれかたすけて。
声として生まれなかった空気が管を通り抜ける。息を吸っては吐く当たり前の動作が忘れたように上手にできない。胸にたまる氷のようないたみが、じわりと頭へ上り、涙になってぼろぼろと零れ落ちていくのが分かった。頬を伝うものが酷く、ひどく冷たい。
なにもかんがえられなくなる。ぜんぶがまっしろになる。くるしいときは、どうしたらいいんだっけ。いつもはそう、いたいとき、ひとがいた。あかいめの、せなかをなでて、なまえを、そう――。

「――ナマエ!」
「ガ……ゲホ、ゴホッ!おえ、ぇ……」
「水だ、ゆっくり飲め」
あかいめのひとが、せなかをなでてくれる。なまえをよんでくれる。
でもみずなんてしらない、これは、はじめて。てがつめたい、つるつる。くちのなか、きゅうってして、いきができる。
いき……そうだ、息。身体のなかが、溶かされていく。身体の管を通って、ぬるいものが身体を、どろどろにして。硬い指が頬を撫でる。冷たいものが消えて、正常にもどる。
「はあ、はあ……はーっ……は……」
「落ち着いたな」
隣から聞こえる声は、安心したように少しだけ遠ざかった。まだ視界はぼやけるし呼吸はつらいが、出来ない範囲ではない。
真剣な目がじっとこちらを見つめている。ゆっくり顔を上げると、「もう大丈夫なのか」という言葉が返された。
与えられた言葉に返事ができず、ただ見つめる事しかできない。なんと返せばいい?息がつらいと言ったら、待ってくれるのだろうか。ああ、でもこの人は待ってくれるような気がする。だから尚更なにも言えなかった。
沈黙が続く。とても重い沈黙だ。けれど、それを破るように窓から強い風が入り込む。窓際に佇んでいた鳥たちが驚いて、その羽をはためかせる音が聞こえた。時間をかけて息を吸い、形になるよう慎重に言葉を出す。
「……終末は?」
飾る言葉も持たず、本題だけを口にする。聞きたいことは山ほどある、けれど一番最初に聞くべきはそれだ。
「ルシファーの計画は阻止された。世界は、平和だ」
「しんでしまったの?」
「……ああ。説明は難しいが今はそう思っておくといい、混乱しているところに長話はつらいだろう」
団長……いや、特異点が来るまでもう少し時間がかかる。疲れたならもう一度眠るか?
優しい言葉ばかりが投げかけられる。彼は……サンダルフォンはこんな人物だっただろうか。目を細めて彼の顔を眺めるが、本当に落ち着き払っている。
見たことのあるツンとした目、柔らかそうな細い髪。けれどベッドの縁に腰かけじっとこちらを見つめる様は庇護者か何かのようだ。

ぐす、と鼻で息を吸うと鼻孔に芳ばしい香りが入り込む。なんだか、とても心の落ち着く香り。どこかで嗅いだ事のある香りだ、胸が締め付けられるような不思議な感覚がする。安心できる場所というのは、こういう香りがするものなのだろうか?
太陽の差し込む場所、若葉とぬるい幸福が溢れて落ち着く香りが世界を覆う。そんな光景が、頭に浮かぶ。
「……くるしい」
「まだ身体が万全じゃないんだろう。水を……」
「ちがうの」
「どこが苦しい?」
「むねが、ぎゅうってする。痛くないのに痛いの」
「それは……」
「おうちにかえりたい。あったかい場所に帰りたい。痛くても苦しくても、分からないことを教えてもらえる。ナマエが愛してる、あの場所に……かえりたい」
言葉が漏れる。口にした瞬間から、胸がまた凍るように冷たくなる。苦しくて思い出もぼやけていくし、何が本当で何が嘘なのかもわからない。それでも……ナマエの愛がそこにあるのは本当だ。
昔の事を沢山覚えている。右も左も分からなかったころ、ルシファーさまに沢山の事を教わった。計算も、感情も、生き物の作り方も苦しいときにどうやって泣くのかも全部。
愛されたい時に、その分愛せば心が落ち着くのを知った。愛が返らなくても、ただ尽くすだけで幸せなのを覚えた。それが結局自己愛の末至ったものだと自覚しても、ナマエはただ……ルシファーさまが生きているだけで幸せだった。ナマエの世界が愛に染められていたから。
色のある世界が幸せだった。太陽の光は白く輝いて、心地よい水はどこまでも透明で、柔らかい風は見えなくとも頬を撫で、世界を広げる土壌は調和をもたらす。幸せなら頬は赤くなった、苦しければ世界は涙でぼやけた。空の色が、仄暗い青で澄み渡って見えた。
ただそれだけのことが、心の底から愛おしかった。ナマエの愛の形は色だ、愛があるから世界が色づき、空を誰かと同じ色で見られる。
そうだ。一度だけ、空の色が青でなければいけない理由を聞いたことがある。
「理由などない。あれは相互監視の一環だ、空の色を青だと決めつけ共通認識で互いを縛っているだけにすぎん」
不思議な答えだと、今でも思う。人によって空は青くない、見えてる世界は違うということ。
でもナマエは、ナマエの見えてる空がこの青でよかったと思った。だってこれは、あなたの目と同じ色。ナマエの愛が、あなたの色をしている。

「――君の望みを叶えることはできない。そもそも君の願いは二千年前……ルシファーが死んだ時点で潰えたものだ」
でも、願いは残酷な形で打ち切られた。
「時間は戻らない。どんなに願っても、全ての存在は前にしか進むことが出来ない」
「じゃあ……ナマエはずっと、ひとりなの?冷たくて何もない場所で、真っ白の空をずっとみなければいけないの?」
声が震える。残酷だ、けれどそれを事実だと理解しているから否定することもできない。ただ、己に与えられる真っ白な未来を問うだけ。
白いカーテンが視界の端で揺れる、光を受けて白に染まる室内が眩しい。狭い部屋の中にいるのは二人だけ。でも窓際の鳥がちいちいと鳴いて、耳を割く。その向こうにある広い空は透明で、どこまでも、白い。薄布を被っている筈なのに手足は重く冷たく、動かせない。彼の目がずっとナマエを見つめてる。でもその色は?
胸が苦しい、いきができない。この感覚は何度目だろう。
初めからなかったものを思いだしているだけ。あの幸せな時間はただの酷く悪い夢――そうおもえたら、どんなに良かったか。
一度得た愛を手放すのは酷く恐ろしいことだ。身体の一部をもがれるように感覚の一つがなくなるのだから。
色のない世界でどうやって生きたらいい?どうやって誰かと空の色を共有すればいい。真っ白な世界の歩き方なんて、もう、なにも覚えていない。
「愛がほしい、ひとを愛したい。ナマエは……ナマエを愛したい」
「……それが君の偏りか」
重苦しい声が響く。太陽の光が彼の髪を煌めかせて、とても眩しい。
偏り――ああ、そうだ。知を求める者、力を求める者。それと同列に、ナマエは愛を求めていた。
生まれたときからずっとそうだ。色のない冷たい世界で嘆き続けて、凍えそうになったとき……ナマエは初めて、青と他者の温度を教えてもらった。
ルシファーさまにとっては、無価値な出会いだったかもしれない。使える道具を見つけたから拾っただけ、もしかしたら教えたという意識すらなかった可能性もある。けれどナマエはそこに永遠の価値を見出した。初めて、自分の求めるものが理解できた。
誰かを愛する理由なんてそれだけで十分だ。与えられたから与え返したかった。どんな苦痛を噛み締めようとも、ナマエに意味を与えてくれた人に恩を返したかった。それこそ、星の民の一生という長い時間を使って。獣に堕ちてまで。
「ルシファーさまを愛したら、愛した分だけ幸せだった。ナマエはナマエを肯定して愛せている気がした。尽くしたかった、恭順したかった、一方的でよかった。そうやって……そうやって生きる方法しか、ナマエは知らない」
楽園にあった綻びが、見えていないわけじゃなかった。それでもナマエは二千年前の楽園から翼を広げる方法を知ろうとしなかった。
また視界がぼやける、涙で溢れているのだろう。前が見えなくて、彼が、サンダルフォンがどんな顔をしているのかもわからない。
思えばナマエは分からないことばかりだ。ルシファーさまにものを教わる時間があんなに愛おしかったのに、なにひとつ世界を知らない。ルシファーさまのために必要なことを教わっていた。それなら、ルシファーさまの居なくなった世界でその知識に一体なんの価値がある。

「なら、探せばいい」
「むりですよ」
間を置かずに否定の声が出る。どこか嘲笑の色が混ざった。こんな言い方したいわけじゃないのに。
喪失感を別のもので代用するのは、もっとも手軽に穴を埋める方法の一つだ。最終的には彼の言う通り、何を望んだところで新しいものを探すのが結論になるだろう。だが、言葉一つで新たな道を見つけられるのならナマエはずっと昔に楽園から飛び出している。
捨てられないのだ。二千年の妄執を。願いを。救いを。
「愛は捨てるわけじゃない。どれほど重くても冷たくても、抱いたまま歩き出すことは必ずできる」
「歩いて、その先は?」
「そんなことは俺にも分からない」
「はは……なんですか、それ……」
ぐしゃぐしゃの声で呟く。拭っても拭っても溢れる涙はどこまでも邪魔だ、どうしてこんな形で生き物は生まれてしまったのだろう。とても息がしづらい。できないわけではないけれど、嗚咽が漏れようとする声を何度も遮って不快だ。
重くて冷たいものを抱えて、歩けるはずないじゃないか。愛を抱え続けたら、押し潰されるじゃないか。受け入れられなくて、否定の言葉はいくらでも浮かぶ。でも、その一つも口にはできない。
受け入れたい。否定したい。ナマエは。

「……仕方ない。先に話を通して、あとから教えようと思ったんだが……。騙すような形になった、それは謝ろう」
すう、と一拍。息を吸う音が聞こえる。
「落ち着いて聞け。ルシファーはおそらく、生きている」
そうして告げられた言葉に、息を呑んだ。
「……どういう、こと?」
目を見開き、彼の顔を見つめる。どこまでも真剣で、まっすぐな意志と願いを持った目。
「ルシファーは、神の塔エテメンアンキにて次元の狭間に捕らえられた。現状消息不明であり、こちら側から存在の感知は一切できない上接触する手段もない。故に、今の君には死んだと伝えた」
「……いきてるの……?」
「あくまで推測だ。だが、あの空間にはベリアルもいた。あの二人が素直に捕まるとは君も思わないだろう」
上手に、言葉が出ない。ルシファーさまが生きている?ベリアルも一緒に?次元の狭間、エテメンアンキ、創世神話、神のの塔――頭が混乱する。なるほど、死んだと伝えておいた方が合理的だ。理解が追い付かず、涙すら止まってしまった。
もし彼らが生きているのなら、ナマエは会いたい。会ってもう一度、ルシファーさまの役に立ちたい。けれど、会ってそして……どうしたらいい?
ナマエは自分に与えられた役割を知らない。ただ、役に立ちたいという漠然とした感情だけでルシファーさまのそばに立っていた。物事の詳細を教えてもらったことはない。教わったことの全ては終末計画に向けての予備パーツの一つだったのだろう。ルシファーさまが一つの計画にすべてのリソースを注ぎ込むとは思えない、選択肢は無数にあり、今回の状況は数多ある計画のうちの一つだった……そう考えるのが妥当だ。
でもこれは今回の話、二千年前の時点で最良のパーツを選び計画の道を整えたに過ぎない。ナマエは古いパーツだ、今更どんなに願っても一定以上の利用価値は見込めない。一定というのも、想定通りに動く駒という意味であり突出した意思表示をすればその価値も失われる。
つまるところ、何もやってももう――。

「――さて。随分と落ち込んだ様子のところ悪いが、本題だ。君、特異点と……団長たちと旅をしないか」
「……何のために」
「さあ。理由はお人好しな彼らに直接聞いてくれ」
言葉の意味を受け止めきれず、色のない薄布をゆっくりと握りしめる。波打つように皺が生まれ、こちらへと引かれた。
純粋な疑問と困惑が脳内を占めていた。利用価値のないナマエに、なぜそのようなことをするのだろう。星の民で、星の獣で、どちらでもありどちらでもない合成獣。壊れているうえ、何も知らない愚かな生き物だ。
サンダルフォンがゆっくりと口を開く。

「ナマエ。旅の中で、君は世界を見るといい。いつか旅の果てでルシファーと出会ったとき。その時君が見る奴の目の色こそが、旅の意味であり答えになると俺は思う」
――彼の言葉に、ぱちりと視界が爆ぜる。
ナマエは教わったことしかできない、見たことしか理解できない。新しい色を探すだなんて、考えたこともなかった。だってそれは、ルシファーさまへの愛を否定するようなものだから。
でも、これは愛の色を再確認するための旅。新しいことを知るためじゃない。喪失感を埋めるためでもない。己の色を問う為に、ルシファーさまに会いに行く旅。
与えられたことだけを鵜呑みにしてきた雛鳥が、自分の餌を探しに巣立つように。もし違う空の色を見つけられたなら。そのときナマエは、違うものを愛している事になる?
こんな事をしても彼らに利点なんてない。でも、それでも……ナマエの手を、あなたたちは引いてくれるの?

「なあなあ……やっぱサンダルフォンだけ先に行かせて大丈夫だったのか?」
「サンダルフォンさーん!ナマエちゃん、大丈夫ですかー!」
「ルリア、病院で走ったら危ないよ」
「はわわ……つい心配で、ごめんなさい」
「ふふ、団長さんは優しいのね。手まで繋いじゃって」
扉一枚を挟んだ向こう。音の反響から考えるに細長い廊下から、僅かにくぐもった声が聞こえる。
賑やかで、暖かい幸福が溢れている。人が人を愛してる音がする。

「全く……先に来て正解だったな。煩いのが来たぞ、早く決めないと騒がしくなる」
「……ナマエは――」
息を吸い、ゆっくりと言葉を形作る。
胸は燃えるように熱く、空の色はまだあの日見た仄暗い青をしていた。

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