雛罌粟の遥か | ナノ
※一年前


 放課後、誰もいない保健室に訪れることはいつの間にか不動峰男子テニス部一年生の日課になっていた。養護教諭に一々傷や痣を見咎められるのも面倒だったし、そもそもこの学校の教諭のことだから自分たちと関わり合いになるのも嫌とばかりにぞんざいな扱いを受けるかもしれない。そのどれもが嫌でいつも誰もいぬ間に勝手にこの場所と消毒液やガーゼ、サージカルテープ、絆創膏の類を拝借し始めてから、早くも二ヶ月が経とうとしていた。
 三日前、テニス部を辞めると自分たちに泣き謝りながら、また一人入学からを共にしてきた仲間が去っていった。仲間と簡単に呼んでしまっていいものか伊武にはわからなかったが、ともかくこの二ヶ月間先輩や顧問の理不尽な仕打ちに耐えてきた『仲間』とは呼んでもいいだろう。積極的に友人を作ろうとしたことのない伊武でも、そんな内の誰かが欠けていくのは快くはなかった。
 四月からこれまで、そうやってもう五、六人の同級生がテニス部から去っていった。皆が皆残った自分たちに謝りながら辞めていくが、それを責められる者など誰もいないだろう。毎日、虐めや暴力を受けに登校しているようなものなのだ。そんな部活など辞めて当然だし、むしろまだ六人も残っているほうが不思議だ。
 それでも、伊武は心のどこかで辞めていった彼らのことを軽蔑すらしていた。責められないとはわかっているし、責めるつもりもない。彼らが悪いわけでは決してないし、彼らに愛着が無いと言えば嘘になる。だが、今残っている自分たちだけは、自分だけは、ここから去ることはないだろうと、何故だか確信していた。テニスにかける情熱だとか仲間を思う心だとか、そんなものだけではない皆から感じられる強い意地が、そう思わせていた。
「あー、なんかもったいねぇなあ」
 そんな自分たちの先頭に立って引っ張っていってくれているのが、今まさに腫れ上がった伊武の頬を手当てしてくれている桜井だった。ガーゼをサージカルテープで貼る手も最初に比べて随分と器用になったものだと口にしようとして、寸でのところでやめた。
 桜井は、協調性があり積極的で、かつ茶目っ気もあり明るく熱く、それでいて一歩引ける冷静さも持ち合わせた実に器用な男だった。入学してからこの方の短い付き合いではあるが、神尾と一緒にふざけ合ったり、短気な内村を諌めたり、内気な森を励ましたり、抱え込みがちな石田を察して声をかけてやったり、そんな姿をしばしば見かける度に、伊武の中の桜井雅也像は出来上がっていった。そして何より、人と壁を作り距離を取りたがる自分を案じてか、幼馴染みである神尾以外に初めて「深司」と呼んでくれたのはこの男だった。それからというもの、現在も男子テニス部に残る同学年連中の皆が自分を下の名前で呼ぶようになったのだが、悔しいがそのお陰でスムーズに打ち解けられたと言っても過言ではないだろう。
 つまるところ伊武は、自分には――いや、他の誰もが成り代われないだろう桜井という存在に、心底感謝していた。絶対に口に出してやるつもりはないが、自分たちがここまでやってこられているのは桜井が中心になってくれているからかもしれないとすら思うのだ。ただ、自分は森や石田みたいに素直ではないので、どうあがいてもそれを本人に告げることは出来ないのだろうが。
「お前きれーな顔してっから、顔腫れてんの、なんかもったいねぇなって」
 視線を落としたまま返事のなかった自分をどう思ったのか、今度は言葉を付け足して今一度台詞を吐いた桜井の顔に、ふと目を合わせる。保健室に並んで置かれた丸椅子に向かい合って座る互いの距離は、存外に近い。
 澄んだ一重はほんの少し細められていて、その瞳は自分だけを映していた。自慢だというリーゼントのような髪型は、先ほど先輩から強く髪を掴まれていたせいかばらばらに崩れていた。前髪を下ろすとまだまだ随分と幼い顔立ちをしているのだと改めてまじまじと見つめていれば、気恥ずかしそうにくしゃりと破顔した桜井は治療道具を片付けるとか何とか言ってすぐに立ち上がると、あっという間に視界から消えてしまった。
 いきなりの言葉に返事を忘れていたことを思い出し、咄嗟に出た声は「うるさい」などといった可愛げもへったくれもあったもんじゃないような言葉だった。
 だが、桜井はそんなものわかっていたと言わんばかりに、くつくつと喉を震わせる。
 西日に照らされ赤く染まった幼い横顔に視線を注ぎながら、簡単な治療の施された頬を片手でなぞるように撫でる。熱を帯びているのは、忌々しい先輩共に殴られたせいか、それとも――



 「今日は、俺の番だね」
 唇の端の切れた桜井を前にして、伊武は消毒液を含ませたコットンをピンセットで摘まんで宛がいながらぼそりと呟いた。つい二、三日前は逆だったと思い出しながら口にすれば、その時に言われた何だか気恥ずかしい台詞を思い出して、少しだけ視線を落とす。
 消毒液が傷に染みるのか時折痛みを堪えるような声を上げる桜井に「我慢して」とどこか得意気に小声で呟けば、殴打を受けていないほうの頬をほんのりと膨らました目の前の男は、涙の浮かぶ瞳でじとりと上目にこちらを睨んできた。
「あのさぁ、俺にそんな顔してどうすんの」
「雅也あざとーい、ってカンジ?」
「あざといというか、うざいの間違いじゃないの」
「あー、てめ」
 口調とは裏腹にすぐに相貌を元に戻した桜井に釣られて、伊武も小さく唇を歪める。自分たちが置かれている状況を思い返してみれば笑っていられるのも不思議なことだったが、この空間でだけは何もかも忘れていたかった。
 この前ほどではないが、今日も乱された前髪を後ろに撫でつけるようにして整えている桜井が、ふと伊武の顔から視線を逸らしては窓外の夕空へと向けた。ガーゼとサージカルテープに手を伸ばした伊武は、器用にテープを切りながらもひっそりと桜井の視線の先を追う。そこに在るのは、影を濃く長くさせる校舎と、その向こうに位置するテニスコートだった。まさに自分たちが先ほど蹂躙されたその場所である。
 桜井の治療を続ける為に視線をその顔へと戻すが、断じてその場所をそれ以上見ていられなかったからではない――伊武は自身に言い聞かせつつ、丁度いい大きさにカットされているガーゼをそっと口端から頬にかけて宛がった。触れた頬は熱を帯びており、テープでガーゼを固定すれば、ぴくりと肩が跳ねるのがわかった。
 窓外に向けられたままの目を盗み見れば、澄んだ瞳に浮かぶ強い意志がゆらめいているのが見て取れ、出来れば気付きたくなかったなと内心で密やかにぼやいた。
「なー深司」
「……なに」
「俺、今からちょーっとだけお前の真似する」
「……は」
「へへっ。だからちょっとだけ無視してて」
 な、頼むよ。そう言って下手なウィンクを寄越した桜井の片頬は痛々しく腫れている。有無を言わせぬ勢いの目の前の少年が何を言いたいのか未だに掴み兼ね、しかし伊武が何の反論もしないのを肯定と受け取ったのか、桜井はようやっと視線をこちらへと戻すと、そっと唇を舌で湿らせた。
「神尾がさあ脚捻挫したらしいんだよ。でもあいつ心配かけたくねぇとか言って誰にも言わねーだろ、でもね、俺知っちゃったのよ。どうしたらいいかわかんなくて励ますしか出来なくて、でもそれ勿論あいつのスピード妬んだ先輩のせいだからさ、最悪だよな。そんでその先輩にむかっ腹立てた内村がついに突っかかってったんだけどさ、あいつ小っこいじゃん。だから先輩のオトモダチとかいうデカい先輩に鳩尾殴られて一瞬気飛ばしたんだよ。俺と石田が気付いたからよかったんだけどさ、本当に焦って泣きそうになったんだけど俺泣けねぇじゃん。だってそれ知った森がわんわん泣き始めてよ、俺は大丈夫だって言うことしか出来なくてさ。でもそしたら、もっと早く気付いて内村のこと止められなかった俺の責任だって石田が自分のこと責めだしてさ。俺、違う、誰も悪くないって言うしかなくて。でもなんかもうさ俺、ギゼンシャみたいじゃん、それ。でも弱音とか吐いてらんねーだろ、皆必死だし頑張ってるし。誰も悪くねえんだよ本当に」
 嫌になるぜ全く。そこまで一気に吐き出した桜井は、それきりすうっと口を噤むときゅっと目を細めては「悪ぃ」とぽつり零した。
 伊武はまだ、現状に思考を追い付かせることが出来ないでいた。それは桜井の話した内容に理解が及んでいないという意味ではなく、桜井雅也という人間がこんな思いを抱え、そして自分に吐露してくれたということについてだ。
 伊武はただ何も言えぬまま、長い睫毛に縁取られた目蓋を重く上下させる。弱々しく笑う桜井のその顔は初めて見るもので、彼のことを少しはわかったつもりになっていた自分が情けなく思えた。
 確かに桜井という男は弱音を吐かぬ気丈な男ではあるが、彼とて自分たちと同じく中学生になってまだ間もない少年に過ぎないのである。例えば今まで、自分たちを引っ張っていってくれる中で、顧問や先輩に抗議の意を示す中で、たった今吐露してくれたような感情を、思いを抱えていたとしたら、今までそれはどこでどうやって解消していたのだろうか。感情のコントロールが上手そうではあるから元々あまり溜めない性質ではあるのかもしれないが、それは、些細なことでも口に出すことによって解消してしまう自分などと比べてみると真逆と言えるかもしれない、と今更になってようやく気付く。
 そして、そんな桜井がこうやって参っているということは、事態は確実に、最悪の方向へと進んでいるのだろう。
 ここにきて遅れて、桜井を始めとした彼ら『仲間』が、自分だけが知らないところで傷付いていたのだということを認識する。それでもきっと彼らは、自分に知らせなかったのではなくて、共有される痛みは少しでも減るべきだと考えたのだろう。伊武とてそんな状況下に置かれたら同じ選択を取ったろうと思う。しかしそれでも、仮にも『仲間』であるとしたら、共有させてほしい。そんなことを思ってしまうくらいに、伊武はこの数ヶ月の環境の中で、確かに変わっていた。そしてそれは、目の前で尚もちらちらと瞳を揺らす桜井を見て、より顕著になったように自覚する。
「……桜井、」
 普段あんなに口数が多いのに、こんな時に限ってかけるべき言葉を持ち合わせない自分を情けなく思い、少し自嘲的になる。
 立ち上がり、手を伸ばし、その体を包む。どうすることも出来ない自分が次に出た行動は、自身でも驚くべきものだった。こんなことを他人に対してするのは初めてのことなので、無論勝手がわからない。ただ、伊武の人よりも低い体温の手には、少し高いくらいの桜井の熱はひどく心地好かった。
 座ったままの姿勢で、しかし驚いたように上目にこちらを見つめてくる桜井を、伊武はただ静かに見下ろしている。
 平素は人を射抜くような伊武の目が今だけは確かな優しさを孕んでいるのを認めたのか、その深淵色をした瞳にゆらゆらと揺蕩う桜井は、ぎゅっと唇を引き結ぶ。やがて、まるで「今だけだから」と言い訳でもするかのように、乱された前髪の下りた額をこてんと伊武の胸に委ねたのだった。
 二人とも何も言えず、何も言わず、ただ静かに保健室の壁に掛けられた時計が時を刻んでゆく音だけが響いている。
 静かに高まる自分の鼓動が、至近距離にある桜井の鼓膜を打っているのかどうかを確認することは出来ない。仲間内でも人一倍負けん気の強い彼が涙を流しているのかどうかすら顔を埋められてしまえば窺い知れないが、しかしそれでよかったとも思う。そんなものを見られるのは彼自身が望まないだろうし、だがそれに匹敵するくらい自分もまたきまりの悪い姿を晒しているのかもしれないと思うとやにわに羞恥が込み上げてくるものの、ただ、今だけはそんなものは二の次に思えるほどに、伊武は桜井の熱を感じていられることに心底安堵を覚えると同時に、ある種場違いなほどの心地好さを感じていた。
 愛だ恋だなどということに現を抜かしている余裕なんて、今の自分たちには恐らく無いだろう。中学生なんてものはそれを主体として生きている奴らだらけだろうが、生憎として自分たちはそんな世界に、現状生きていない。
 それでも、そんな真っ暗闇の中だからこそ、ほんのりと色付いたこのような感情を見付けられたというのならば、それはなんて皮肉な話だろうか――そんなことを思い巡らせる自分もまた相当に参っているのかもしれないと、伊武は小さく口角を引き下げる。柄ではないこのようなことをしてしまったことからもそれは見て取れるが、笑えやしないはずなのに、おかしさが込み上げてきて仕方がなかった。
 きっと全てが終わってしまったら忘れたくなるような、ちくりと痛むような、そんな、恋と呼ぶには遠すぎるやるせない思いを、しかし今確かに、伊武は胸に抱いていた。


イメージソング:ひなげし/いきものがかり

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