記憶と回遊 | ナノ


 月並みな言葉で例えるならば、彼は自分とは全くの正反対に存在する男だった。
 相容れない存在であると思った。しかし忍足にとって、それは自己暗示でもあった。桃城のような人間に心を掻き乱されたくないというちっぽけな意地に起因する、悪あがき。やがて、気付けばそんななけなしの抑制も意味を持たなくなっていた。感情は両手に余りあるほどに育ち、進む肥大化を止める術は当然持ち合わせていなかった。
 ただ闇雲に動揺を重ねていれば疲弊するのは当たり前だが、忍足はそれを回避する方法を知っていた。最早習慣と化しているそれは処世術とも呼べるのかもしれない。感情に歯止めを効かせることも出来なければ消し去ることも無論不可能だったが、深く深く閉じ込めて、自らの乱雑した記憶の一部と化して永遠に寝かせておくことならば出来ると信じていた。
 しかし忍足とて、まだ十五年程度しか人生経験のない少年なのである。人よりも少しばかり経験値は富んでいたが、それでも、たかだか十五年で人生の玄人じみた顔をして、彼は自分の感情に度々麻酔をかけてきたのだ。未来へ及ぼす影響も知らない忍足は、未だ年若い中学生に過ぎなかった。
 桃城に追いつけぬ夢が、毎夜目蓋の裏側に宿る。
 幼い頃から親の仕事の都合で転校を重ねてきたが、転校先でどんな嫌な目にあったとしても、悪夢に魘されるようなことはこれまで一度だってなかったし、自分はそんなやわな人間なんかではないと信じてきた。しかし、今までの短い人生の中で彼が必死に築き上げてきた自らのイメージは、一人の少年によっていとも簡単に崩落することとなる。
 或いは、それは当然のこととも言えたのかもしれない。表現すべきタイミングで感情を発露することなど万人の当たり前であるが、忍足にはその感覚が希薄だった。幼い頃から記憶の中に放り込んできた行方の知れぬ感情の数々で洪水の起こった海馬は桃城武というきっかけを元に、容易に決壊した。それは、これまで募らせては閉じ込めてきた感情の数々が全て同時に襲い来るということを意味していた。
 一際夜遅く、薄ぼんやりとした月明かりの元。一人ベッドに入って固く目をつぶる時、容赦なく体内で荒れ狂う暴発した感情。きっかけとなったものを口に出せば、もしかしたらこの漠然とした強大な感情と決別出来るのかもしれない。そう考え口にしようと試みるも、いつの間にか忍足には、自らの情をすんなりと表現することすら出来なくなっていた。
 だからなのだろうかと、彼の表情が目蓋の裏にじんわりと巡る。
 初め、相容れぬ存在と確信した。それは強ち間違いではなかった。
忍足には感情を表す術が欠如している。しかし、彼には天性の愛嬌があった。桃城は自らの感情を、その目、その唇、その手、その存在全てで、誰に対しても真摯に伝えようとする。それは無論、忍足に対してもそうだ。それでいて屈託が無く、どんなに感情を開けっ広げにさせても誰からも疎まれることはなかった。
 きっと産まれながらにして、コントロールが上手いのだ。見せかけだけの、欠陥だらけの処世術なんかを必死に磨いてきた自分などでは、到底釣り合うはずもないのだ。彼は生来、自分とは合わぬ性分なのだろう。
 しかし皮肉にも周囲は、自分たちを似た者同士だと評する。それは生き抜く上手さにあるのかもしれないが、桃城が中身の詰まった人間だとすれば、自分という人間はがらんどうの空虚でしかない。
 「……不毛、やな」
 呟いて、目蓋の裏に走る屈託のない笑みを押し潰そうと、手の甲で強く、目頭から目尻にかけてをなぞる。ぎゅう、と眼球が痛み、それは自らの鈍りきった神経を過敏にさせる気がした。内心で薄く笑うも、自らの頬は一切の弛緩も見せていないことに、忍足は不意にぞっとする。
 彼のようになりたいなどと、思い違えた願望を抱けるほど子供でもない。自らが築き上げてきた不要なプライドがそれを許さなかった。
 しかし忍足はどうしようもなく、桃城を渇望していた。
 それは、彼の生まれ持った性質を羨み、或いは妬みすら覚えているからかもしれない。だが、それ故の執着だったならばどれほど良かっただろうと思わざるを得ないのだから、これには乾いた笑いを立てるほかない。喉の奥のほうから漏れ出た悲鳴は、声というにはあまりにも粗末なものだった。
 再び眼球に添うように、今度は強く押し潰すようにして手を動かしてみる。一拍遅れて走る鈍い痛みに嬉しさを覚えるほどに、忍足は自らに疲弊しきっていた。
 しかしその感情すらも、今日もまた無意識に、脳に広がる海へと投げ入れてしまうのだろう。


 『忍足さん』
 「やめろ」
 『なあ、忍足さんってば』
 「やめ……」
 『聞こえてねぇの?なあ、俺、忍足さん、』
 「やめろ!」


 蹴り上げた布団が、隣に重さを持って落下する。寝転べば柔らかく優しくて、ひた隠しにしてきた感情が熱となって零れ落ちた。
 「間に合うんかいな……」
 明星が薄く遠ざかってゆく。
 どうしようもない感情は確かに彼への、桃城への慕情だった。
 忍足がそれを認めることが出来たのは、彼の背中を最期に見た日から、もう随分と時間が経った頃だった。
 「もう、……」


イメージソング:夜の向こう/ASIAN KUNG-FU GENERATION

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