光彩はまだ遠く | ナノ


「……あれ、……生きてる」
 目を覚ました第一声は、ある種滑稽なそんな言葉だった。
 口の中が錆臭い。これが血の味であると初めて知ったのは、数ヶ月前のことだ。
 ラケットを握ることに深い決意もなく入部した部活は、しかし蓋を開けてみれば荒廃したものだった。理不尽な虐めは次第にエスカレートしてゆき、ついには暴力へと発展してゆく。最初に殴られたのは誰だったろうか。たった数ヶ月前の話だというのに、もう既に遠い昔のことのように思えてならない。代わり映えもせずに凄惨な仕打ちに遭う日々は、少年たちの身も心も疲弊させていった。
 季節はもうすっかり夏だ。錆臭さに混じる汗の臭いには、まだどうにも慣れない。
 部を辞めていった者もいれば、学校に来なくなった者さえいる。むしろ今残っている面子はどうしてここまでこの部に固執しているのだろうかと、桜井は自らも身を置きながらも常々思ってきた。生来の負けず嫌いがゆえか、はたまた同じ境遇の『仲間』を見捨てられない優しさからか、部活動に過ぎぬはずのテニスをいつの間にかそれほどまでに好きになってしまっていたからか。それぞれの理由は知れないが、少なくとも桜井は、そのどれもを胸の内に抱えていた。
 それでも、やはり日々はやりきれない。増える傷や痣の理由を親の前で繕うのにも、そろそろ限界が近付いている。
 見上げる空は青く、細い雲がいくつも揺蕩っている。鼻を鳴らせば、呼応するかのようにこめかみがつきりと痛んだ。
 今日も今日とて、いつものように殴打された。最早日常と化しているとはいえ、堪えないわけがない。閑散とした体育館裏は、人目につきにくい為に格好の『ロケーション』となっていた。とりわけ今日の『先輩方』は、桜井の目付きがお気に召さなかったらしい。思い切りよく掴まれた自慢の髪型はとうにばらばらに乱れていた。
 他の同輩が暴行に遭ったのかは知らない。ただ、どうやら今日、最も運が悪かったのは自分のようであった。乱暴に突き出された拳のせいで、唇の端どころか内頬も切れている。踏みつけられた手足はどこもかしこも鈍く痛み、恐らく内出血を起こしていることだろう。
 しかし先輩方は皆、一瞬気を飛ばした桜井を見るやいなや、さっさと逃げおおせてしまったようだった。先輩とはいえ歳の一つ二つしか変わらぬ少年に過ぎない連中は、世間に『遊び』が露見することを恐れている。つまり彼らとて、彼らなりに定義したギリギリの範疇で楽しんでいるつもりらしい。だがそれは弄ばれる側の限界とは何ら関係無い。虐げられる少年たちは、とうにリミットを迎えていた。それは身体的な問題も無論あれど、精神的な意味合いのほうが強い。
 どうして今、自分は生きていられるのだろう。疑問に思う瞬間が、桜井にはこれまで何度もあった。つい先ほどもそうだ。降り注ぐ暴力を前にして、途方もない恐怖に暮れるうちに視界にノイズが走ったと思った次の瞬間、まるでぷつりと糸が切れ落ちるかのように思考がブラックアウトしていった時。
 ――ああ、ついに死んでしまうのだ。
 そう思ったものだから、重い目蓋を持ち上げるいなや鼻口一杯に感じた血生臭さに、桜井はついそんな台詞を口走ってしまったのだった。
 ゆっくりと上体を起こそうとして、地面に手を付く。荒れた地の細かい土砂で、体操着も体も一面汚れていた。脇腹がじくりと痛み、一度小さく咳き込んでしまう。
 他の連中は、今日は無事だろうか。出来ることなら、今日、運が悪かったのは俺だけでいい――そのようなことを考えながら重い身を立ち上がらせようと試みていると、不意に視界に落ちる大きな影。咄嗟にびくんと肩が跳ね、目を見開いてしまう。まさか、『あいつら』が戻ってきたのだろうか。軋む体を叱咤して素早く身を捩り、影の主を確認する。
「な、んだ、石田か」
 しかし、蒼白だった桜井の顔は一瞬のうちに安堵に綻ぶこととなった。
 驚かせんなよと小さく口にして、座り込んだままその顔を見上げる。放課後、ただでさえ薄暗い体育館裏、あまつさえ逆光になった少年の表情はあまりよく見えない。
 一言短く謝罪を口にした石田は、すぐに中腰になって手を差し伸ばす。自分のものより一回り大きなそれを一瞥した後、桜井はゆっくりと手を重ねる。土砂に塗れて汚れたそれを気にも留めず引き上げてくれる石田の勢いに任せて、その場に立ち上がった。温かな人肌に安心したのか、心臓がどくんと大量に血液を送り出す音が鼓膜の奥で聞こえる。
「歩けるか?」
 支えるようにそっと脇の下に回された長い腕に、無意識のうちに小さく吐息してしまった。
 しかし未だその表情をしっかりと見上げることが出来ないほど、体は鈍い痛みに占拠されている。そのうち、足の先から頭の頂点にかけて、全身の血脈が逆流するかのような感覚に苛まれてゆく。額に噴き出る脂汗、遅れて届く嘔気。どくんどくんと嫌な音を忙しなく立て始める心臓。
 まずい――そう思った次の瞬間には、大柄な少年の胸板にふらりと倒れ込んでしまっていた。
「桜井!」
 先ほどと同じようなノイズが視界に走り始め、恐怖で呼吸が浅くなる。
 それでも、鋭く鼓膜を打った声は、確かに自分の名前を形作ったものだった。
「桜井、桜井大丈夫か、――」
 平素は澄んだ石田の声が、しかし今は動揺の色を多分に孕んでいる。
 石田の腕に支えられながら、崩れ落ちるようにしてその場にしゃがみ込む。すると少しずつ引いてゆくノイズに、自分は貧血を起こしてしまったのだと遅れて気が付いた。
 息を整えようと、ゆっくりと深呼吸をする。重い目蓋を上下させれば、いつの間にか眦に溢れていたのだろう生理的な涙がぼろぼろと頬を伝い落ちていった。
 勝ち気な少年の滅多に見ることも出来ないだろう弱い姿をどう思ったのか、桜井に合わせてその場にしゃがみ込んだ石田は、精悍な瞳を驚きに揺蕩わせている。やがて頬に宛がわれる、大きな手。同輩の中じゃ飛び抜けて体の大きな石田の長い指が、ぬるい涙で濡れてゆく。
 ぼんやりと滲むその光景に、桜井はぎゅっと奥歯を噛み締めた。未だに、その表情をしっかりと確かめることは出来ていない。無理に頭を持ち上げようとすれば、再び目蓋の裏にちらちらとノイズが走るからである。
「……かっこわり……俺……」
 自慢の髪型はぐしゃぐしゃに崩されており、あまつさえ貧血を起こして倒れかけるような情けない姿など、石田にだけは見られたくなかったと思う。はは、と弱く笑って鼻をすすった。
 黙ったままの石田の親指の腹が、頬を静かになぞる。次いで背中を擦られ、その温かさにいつまでも身を委ねていたくなってしまった。思っている以上に、自分は精神的に参ってしまっているようだ。
「皆は、……お前は。今日は、やられなかったのかよ」
 それでも、口をついて出た言葉は仲間を案じるものだった。
 一瞬間を置いて、石田がこくりと頷く。よかったぜ。小さく零れた台詞は、勝ち気な男の精一杯の虚勢だったのかもしれない。ただ、石田はそれに対して何を言うこともなく、今にも泣き出してしまいそうな顔で薄く微笑むのみであった。やっと見ることが出来た彼の表情は、あまり見たくないそんな類いのものだった。ラケットを握った時の勇ましさとはかけ離れた、穏やかな少年の優しい顔は、時々桜井の心をどうしようもない痛ましさに落とし込むのだ。
 放課後であるにも関わらずようやっと遠くが橙に染まり始めた空は、痛む体を撫でる生温い風と共に、日が長い季節であることを示している。今、何時なのだろうか。体感としてはかなりの時間をここで石田と過ごしているような気がするが、それでも未だ身動きをすることが億劫に思われるのは、ただ単に傷を負わされた体が重いからだけなのだろうか。
 切れた唇の端をぺろりと舐める。錆臭い味に眉を顰めれば、そんな様子をしばらく見つめていた石田が、何を思ったのかそっと顔を近付けてくるのがわかった。驚きに、小さく目を見開いてしまう。
 つい先ほどまで涙で滲んでいた視界は、既にクリアになっていた。初めてこんなにも至近距離で見て、石田の顔が精悍で端正な造りをしていることに改めて気付かされる。だからだろうか、心臓が先ほどとは違った種類の早鐘を打ち始めるのがわかった。
「桜井、」
 やがて、二重目蓋に彩られた瞳に見据えられ、名前を呼ぶ吐息が鼻先を掠めたと思った次の瞬間――傷口に感じる、ざらりとした熱。
 つっと這った感触に、思わずひくんと肩を震わせてしまった。
 何も言わずにすぐに顔を離した石田の視線は、真っ直ぐにこちらを捉えている。突然のことにぼうっとその顔を見つめていることしか出来ない桜井が、口端を舐められたのだと理解するまでには数瞬の時を要した。
 凛とした涼やかな目許から視線を擦らすことが出来ない。遅れて、込み上げてくる熱。
 それでも、先に顔を俯かせたのは石田のほうだった。
「……ごめん」
 図体に見合わぬか細い謝罪を寄越す石田に、桜井は短い睫毛をぱちぱちと上下させる。そのまま、彼の頬にじわじわと朱が滲んでゆくのをじっと見つめていた。
 おずおずと唇に指を宛がえば、人差し指の先に鮮血がまとわりついた。
 突き詰めれば、意味を問いたくなるのは石田の行動のほうだろう。だが桜井はどうしてだか今、石田に謝罪される意味のほうが理解出来なかった。さらに言うならば、すぐに顔を離されたことへの名残惜しさでいつの間にか思考は占拠されていた。
 だから次の拍子、まるでお返しとばかりに今度は自ら彼へと唇を重ねてしまったのは、きっと何度も何度も殴られたせいで頭がおかしくなってしまったからなのだ――石田があんなことをしたのも、そうに決まっている――幼心に理由を見繕いながら、桜井は真似事をするかのような拙い仕草で石田の下唇を舐める。やがてゆっくりと顔を離せば、は、と零れ落ちた熱い息が、石田の通った鼻先をくすぐった。
 体育館裏に届く光は、徐々に徐々に少なくなってゆく。陰になっているせいで元々日が届かぬこの場所は、暮れ時にもなればいよいよ薄闇に閉ざされて何も見えなくなってしまう。
 互いに何を言うことも出来ず、どうして自分たちがそんなことをしてしまったのかも、まだ幼気な少年たちにはわからない。
「……石田、」
 ただ明確なのは、名前を呼ぶ声と、体を苛み続ける鈍い痛みだけだった。
 ――やはり、生きている。
 途方もない感覚に飲み込まれながら桜井は、今一度目の前の少年に紡がれる自分の名前に、じっと耳を傾ける。
 このまま、明日になるまでこうしていたい。光が顔を、覗かせるまで。そんなことを考えてしまう自分はやはり螺子が飛んでしまったのだろうか。それとも――


イメージソング:新しい光/9mm Parabellum Bullet

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