誰にでも平等に朝は訪れると彼は言った。
 妻に先立たれようと、親に捨てられようと、傷を負っていようと、病に犯されていようと、朝と夜は平等に訪れ時は過ぎると。
 そして、誰にでも平等に死も訪れるとも。

「おはよう。今日は随分早いね」

 そう言って扉を開ける彼はどうも昨日の夜は眠っていないらしかった。
 垂れ目の優しい目は眠たげに細められており、早朝なのに作業着のままだから、昨日から眠らずに彫刻を作っていたのだろう。俺には完成したら見せるからと言って、その彫像が置いてあるアトリエには一歩も入れてくれない。

「寝てないな? 顔色凄いぜ」

 彼は苦笑して俺を中に招き入れた。彼の後に続いて家の中に入る。
 アトリエに篭っていたらしく暖炉は火を入れたばかりだった。だから室内はまだ冷え込んでいた。彼はココアでも入れるよと言って、俺に椅子に座れと促しキッチンへ姿を消した。

 椅子に腰かけ、窓に目をやる。窓の外は一応庭と呼べる場所もあるのだが、そこは閑散としていて寒々しい。以前は花が植わっていたらしいのだが、育てていた彼の奥さんが亡くなって以来、彼自身は目もくれていないのだという。彼女の思い出の場所を見るとやるせなくなるからと。

 時折、彼はふと「もしも」の話をする。
 戻れるなら、もっと賢く生きただろうと。彼女をもっと大事に愛しただろうと。

「彼女と出会わなかった方が、良かったのかもしれない」
「どうして」
「そうすれば、彼女は死ぬ事も無かっただろうし、私だってこんな思いをせずに済んだろうし、あの子だって……」

 そのまま彼は口を噤んだ。「あの子」とは、二人の間にいた子供だ。それを事故か、あるいは病気か、あるいは戦争の影響で、失ったのだろう。
 彼が話したくないのなら、俺は聞かないし、彼が話す気ならば俺は聞こうと思っている。俺にだって言いたいこと、言えないこと、言わない事はある。
 俺が続きを追求してこないのが、気になったのか彼はちらとこちらを伺い見た。聞いてほしいのだろうかとも思ったが、なんと聞いて良いのか、聞くタイミングも分からず、黙ったまま窓の外を眺めていた。

 あの時、聞いていたら彼の為になったのだろうか、と過ぎた事を考える。
 「あの子」を失った事を、彼はとても後悔している様だった。全て私が悪いんだと、彼は嘆く。そんなこと無いと、悪いのは貴方じゃないと、事情を知らない俺は言ってやることが出来なくて、やはり尋ねるべきだったのかと後悔をしてみたりする。
 そうすれば、少しでも気が晴れるのかな。少しでも、彼が楽になれるのかなと、思えば何も知らない人に対して気を使っていた。

「紅茶でも大丈夫かい。ココア、切れてたんだ」
「ああ、うん」
「ミルクと砂糖はご自由にどうぞ」

 二人分のカップをテーブルに置いて、彼はもう一度キッチンへ行き砂糖の入った瓶とミルクを取って来た。この家にはトレイというものが無い。
 俺の向かい側に腰を下ろして、彼は俺の視線に釣られて同じ様に窓へ目を向けた。冬に入り始めた森は、痩せ始めていてちらほらと見える緑と地面の茶が虚しく見えた。

「今年の冬も厳しいのかな」
「どうだろうな」
「今年は生きて冬を越せるかな」
「あ?」
「春にまた君に会えたら良いね」

 窓を向いたまま事も無げに彼は言った。彼なりの冗談だと解釈して、鼻で笑い飛ばす。それきり、彼は口を噤んだ。
 独りで暮らし、他人との交流が少ないからか、元からの性分なのか、感情と表情があまり一致する事が無い。いつもどこか悲しげで、悔やんでいる様に見える。愛する人を亡くしたのだから、仕方が無いのかもしれないが、見ていて辛い時がある。

 ひゅう、と寒そうな風が高い音を鳴らすと、それをきっかけとしたのか分からないが、不意に彼が「もしも」の話を話し始めた。

「戻れるなら、彼女の荷物を代わりに全て持ってやりたかった」
「……どういう意味」
「悲しみ苦しみ、病魔。私が背負ってやれたら、死なずに済んだだろうね」
「それは代わりに、先に死ぬってことか。それは、残された人が同じように悲しむんじゃないのか」
「私が独り死ぬのと、彼女とあの子が生きて育っていくでは、意味が違うよ」
「違わねえよ。あんた言っただろ、誰にでも平等に朝は来るって」
「……君みたいに、若い子には分からないさ」

 本当は知ってる。
 知ってるんだ。アンタが誰なのかって、察しがついてるんだ。

 彼は自嘲気味に呟いて、紅茶を飲み干して立ち上がった。
 反論しようと口を開いたが、彼の様子がおかしいこと気付いてそれどころでは無かった。立ち上がってから動けずにいる彼は椅子に手を置いたままゆらゆらと緩慢に揺れていた。

「おい、アンタ、……オーギュスト?」

 なんとなく呼ぶのを躊躇っていた名前を呼ぶ前に、彼は床に伏していた。
 一瞬何が起こったのか把握できず、一拍遅れてから慌てて彼の側に走り寄る。声を掛けながら、半身を抱き抱える。口元に耳を寄せてみる。呼吸はある。昨夜寝ていないのは確かだろう。ならば、食事はどうだ? 今朝はまだ食べて無いだろう。昨晩は? むしろいつからアトリエに篭っていたんだ?
 身長の割に軽い体を抱えていて、ぞっとした。


 本当は知ってる。
 この灯はもうじき、消える。

「俺は、俺なら、出来るなら楯になりたい」

 彼を寝かせたベッドの側に椅子を引っ張ってきて、そこに腰掛けて、聞いていないと仮定して「もしも」の話をする。
 捨てられたことは許せない。恨むなというのも無理な話だ。
 だが、彼に抱いた感情も否定できない。親と知る前に、ひとりの人間として出会ってしまったのが不味かった。俺も大切な人を失って不安定な時だったから、自分と雰囲気が似ている彼に優しくされて、次第に傾いてしまって、気が付けばこの有様だ。

 しかし、今の俺に出来ることはなんだろう。夜に向かって祈るぐらいしか出来ない。まだ連れて行かないで。やっと会えたんだ。偶然だったにしても、これが悲劇だったのだとしても。
 彼がもっと、いや、もう少し元気になれるのなら、俺など裂けても良い。
 裂ける位で元気を取り戻してくれるのなら容易い。そう考えて、彼が言っていたことが少し理解出来た気がする。全て荷物を背負えたなら。

 自分の感情に精一杯の俺に、他の人の苦しみや悲しみまで背負える訳は無いから、代わりに楯になりたい。苦しみや悲しみから、彼を守るのだ。
 剣はもう出来る事なら手にしたくない。大事な宝石を奪った輩に復讐を果たしたところで、宝石は手に戻ってこないと知ってしまったから。
 だから、奪われる前に守りたい。今度は間違えない様に。

「……ま、例えばの話だけどさ」
「たて、か」

 目を覚ました彼がぽつりと呟いた。俺の独り言を聞いていたらしい。

「アンタ、いつから飯食ってないんだ」
「昨日は朝食を、ちゃんと摂ったよ」
「夜は」
「一日一食で充分さ」
「足りてないじゃないか。現にアンタは倒れてる」
「少し寝てなかっただけだ」

 「もう大丈夫だから」と指で瞼を揉みながら彼は言った。「心配かけてすまない」と付け加えて、彼はするりとベッドから抜け出した。後を追うと、俺の気配に気付いた彼は振り返って観念した様に眉を下げ笑った。

「見張らなくても、食べるよ」

 本日何度目かのキッチンへ入る彼を見送って暫くすると、トーストを1枚乗せた皿と、半分減ったジャムの瓶を手にして、戻って来た。
 それだけかと言いたくなったが、食欲が無いと言われたらそこまでなので黙っていた。

「なんだか介護でもされてるみたいだな」
「だったらもっと元気だろ」

 皮肉めいたことばかり滑り落ちる自分の語彙が憎たらしい。彼は申し訳なさそうに笑う。この人が純粋に笑わなくなったのは一体いつだろう。常に、子供――俺を、捨てた事を悔やんでいるのだろうか。「彼女」――母を、死なせてしまった事を負い目に感じているのだろうか。
 この人は、きっと俺が自分を父親だと知ってしまったのを知っている。それを知らないフリをしようとしている。「父親」の目で、俺を見る癖に。
 母親の目というものも、父親の目というものも知らなくても、彼の眼差しがそれだと訴えていた。愛情と優しさと、懺悔の念が篭っている悲しげな目。

 今日こそ言おうと思っていた。だが、いつも彼を目の前にすると何を言いたいのか分からなくなる。恨み辛みを投げつけたいのか。告白でもしたかったのか。それは何の告白か。好きだと言うのか。アンタを守ると言うのか。死なないでと懇願するのか。
 彼の家の前で考えていた事は、彼と目を合わせた時点で全て消え去り、結局皮肉ばかり零して彼を困らせている。

 そうじゃないんだ。楯になりたいんだ。声になりたいんだ。
 まだ逝かないで。其処で待っていてくれますか。
 そう、言いたいんだ。







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BGM:倉橋ヨエコ/楯



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