レスボス島に1つの小舟が辿り着いた。
 小舟には杖を片手にした老人が1人と舟を漕いでいた男が1人。老人は男に礼を述べてから、浜を歩き出した。
 昔と殆ど変っていない風景。戦乱の世の中、この島はいつでも穏やかだ。偶然かもしれないが、訪れる時はいつだって晴れやかな空だし、風も優しく体を撫でる。

 暗誦詩人――ミロスは以前来た記憶を辿りながら、ある場所へと歩を進める。杖が柔らかい砂に埋まり、上手く進めないのは年の所為か。余り力の入らなくなった腕に体重を掛けてゆっくりと進んでいく。急ぐ必要も無いのだ。追われている訳でも、急かす弟子もいないのだから。
 1つの建物の前に着き、ミロスは息を吐いた。肩で息をする程、遠かっただろうか。それともやはり、老いの所為か。乾いた咳を1つ。重心がずれて杖が倒れ、身体がよろけるのを直前でなんとか堪え、ミロスは扉にノックを3度した。

「どなた様でしょう……あら、ミロス様。お久しぶりです」
「おお、フィリスか。ソフィア殿はおいでかな」
「ええいらっしゃいますわ。さ、中へ入って下さいまし。お茶の用意を致しますわ」

 フィリスはミロスを室内へ入る様促し、ミロスもそれに従う。確か段差は無かった筈だ。病の所為か視力が低下したのか、視界が狭くなっている。それを見破られるのは少し矜持が傷付くからミロスは体裁を守ろうと気を張り詰めた。躓くぐらいなら、笑い飛ばせる。

 此処で待っていて下さい、と椅子を引かれる。フィリスはそのままソフィアを呼びに奥へと小走りで去っていった。言われるまま腰掛けて、一息つく。浜から此処まで、そう距離は無い。なのにどっと疲れが肩に圧し掛かる。旅歩きしているから体力は衰えていないと思っていたのだが、病魔には勝てないらしい。

「ミロス先生、お元気そうで」
「貴女も相変わらず美しい」

 詩を詠む聖女と謳われる女性――ソフィアは、ミロスの前で一礼し正面の椅子に腰かけた。其処へフィリスがお茶を運んでくる。
 2人の前にお茶を置いて、ごゆっくりとミロスに微笑みかけて、フィリスは再び奥へと消えた。
 ソフィアは久しぶりに会うミロスを見遣り、前回訪れた時は何時だったかと考える。随分と老けこんだ印象を受ける。こんなに丸い背だったろうか。顔の皺もこんなに深かっただろうか。会わない間に、彼に何があったのだろう。

 ふと、以前は軽く整えられていただけの髭が、3つに分けて三つ編みにされている事に気がついた。大分ほつれているから、ずっと前に編まれたものなのだろう。彼が自分で編んだのだろうか。

「先生、お髭、どうされたのです?」
「ん、ああ。一時期、連れがいてね。その時に編まれたのじゃ」
「大分ほつれていますわ。お直ししましょうか」

 ミロスの指はもう余り細かく動かない。そもそも三つ編みを直そうという考えも無かったが、彼女がそう言うのならとミロスは言葉に甘えた。
 答えるとソフィアは微笑み、ミロスの前へ出て一度三つ編みを解いて髭を整え始めた。そういう性質なのだろう、手を加えていないであろう彼の髭は柔らかい。髪も、年齢の割に豊富だし質も良さそうだ。女にしてみれば羨ましい髪質だ。

 眠る様に目を閉じ、されるがままになっていたミロスは滔々とその連れについて話し出した。出会いから共に旅へ出る事になった理由、その道中、別れに至るまで。暗誦詩人の記憶力は健在だった。
 ソフィアも一時、盲目の少女を側においていたことを話した。舟が壊れて浜辺に流れ着いていたのをフィリスが助けた事から始まり、星が詠めた事から、突然訪れた別離までを。

 やがて、2本の細い糸は運命の意図へ絡み付き1本の糸へと変わる。
 ミロスがその友人と別れる際、困った時はレスボス島へ行くと良いと助言した事を話に出した。だから変わった髪の色をした青年が訪ねて来なかったか、とソフィアに聞いた。

「生き別れの双子の妹を探しているのだと言っていたのじゃ」
「ええ、来ましたよ。此処にいた子も、双子の兄と離れ離れになったと言っていたわ」
「おお。なら……」
「…ええ」

 2人は全て言う前に通じ合った様に静かに笑った。
 ミロスは運命の女神も時には優しいものだと思った。ソフィアはやはり残酷な仕打ちしかしないものだと思った。
 彼らは、その後どうしたのかとミロスが聞いたが、ソフィアは答えなかった。三つ編みを止めてから、事の顛末を語った。
 あの夜。アルテミシアがヒュドラに捧げられた後に良く似た瞳の青年が来たのだった。ソフィアは何も出来ず、何も言えず、彼を見ていることしか出来なかった。

 運命とは、なんと残酷なのだろう。
 ミロスは先程思った事を訂正する。もっと再会に相応しい時があった筈なのに、どうして斯くも酷な仕打ちをするのだろう。
 結い直された三つ編みの表面を撫でて、ミロスを師匠と読んだ友のことを思い出す。自分が思っていたよりも髭が伸びていた事に少し驚いた。
 目を開けると気の所為か、また少し世界が暗くなった様な気がした。
 窓を見て、違うと気付いた。夜なのだ。

「さて、そろそろ出ようかのう」
「もう行ってしまうんですか?他の子達にも会っていったらどうです?カッサンドラ達も今日来ているんですよ」
「いやあいいよ。それより、外まで見送ってくれないかい」

 杖に重心を置いて立ち上がる。ソフィアに先に歩いてくれるように頼むと、彼女は一度動きを止めた。ミロスは彼女の顔を見遣ろうと顔を上げたが、そこに彼女はいなかった。おや、と思うと背後から声が掛かる。
 どうも目が悪いのを聡い聖女は気付いたらしかった。ミロスは声を低くして笑う。

「先生、目が……」
「ほっほっほ……病には勝てないのう」
「外は暗いですわ。今日は此処で休まれては……?」

 先生、ともう1度呼ばれ首を振る。師弟ごっこは随分と昔にやめたとミロスは思っていたが、ソフィアもエレフセウスも彼を敬称で呼ぶ。
 古い友人は自身が先生と呼ばれる程なのに、とミロスはもう1度微笑んで出口まで歩き出す。

 外へ出ると、空は雲1つ無い星が瞬く夜空が広がっていた。この目はあとどれくらい持つだろうか。
 ソフィアが後ろでお気を付けて、と心配そうな声を出している。手を振って見送りを感謝する。

 座りやすそうな場所を見つけて体を休め、空を見上げた。彼の星を探して、彼自身を思い起こす。別れたのは随分前の事になる。あの頃はまだ少年だったが、きっと立派な青年になっているだろう。妹と、悲愴な再会を果たしても落ちぶれない強さを彼は持っていた。
 無事なら、生きているなら、いつかまた会えると信じている。

「友よ、己の信じた道を往きなさい。死すべきもの、我は詠おうぞ。……エレフセイア、愛すべき友を…戦いの詩を…」

 目を閉じるとどこかで狼が唸る声を、聞いた気がした。










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