彼のフランス語には少し違和感がある。一体どこの生まれなのか、知った所で何も無いのだが気になるところであった。
 流暢に喋るがところどころ発音の違う、外人の喋るフランス語を紡いで彼は私の部屋へ入ってきた。深緑の仮面を胸元に当てて、恭しく礼をする。構わんと促すと、嫌味っぽく口元を歪ませて彼は封書を取り出し私に差し出した。

「頼まれていた物です」

 その封書を受け取り、代わりに机に備え付けられている引き出しから金貨を詰めた袋を取り出して、彼へ渡す。紙幣の方が都合が良いのではないかと思うのだが、彼は首を横に振る。重みがあるからと。生きている心地がすると。まるで小遣いを貰い始めた子供のような事を言った。金の重みを感じて生きていることを確認するとは、私には理解が追いつかなかった。

 色褪せたマントを翻し、退室しようと背を向けた男を引き止める。
 既に仮面を付けていた彼は外そうか迷ったらしく手を顔の前で彷徨わせて、外さずそのまま立ち止まった。
 何でしょう、と低く短く呟いた。止められた事が不服であるらしい。ただの仕事の依頼人が出身や素性を明かさねばならないことを聞くのは怪しい行動だろう。身元を特定されたら、恐らく彼は捕まってしまうのではないかと邪推する。
 それでも、聞くぐらい構わないだろうと思い、軽く尋ねた。

「お前、故郷はどこだ? フランスでは無いだろう」
「……そのような事を聞いて、何か意味でも?」
「無い。唯の興味だ。詰まる事無く喋る割に少し訛る。フランス人の喋り方ではないから気になっただけさ」
「はあ。……私に、私に帰る郷などありません」

 先程のような嫌味のある笑みとは違う、自嘲のように見える笑みを見せて、男は顔を歪めた。仮面の奥の両目は一体どんな色を湛えているのだろうかと酷く興味をそそられた。
この男は誰も近寄れない程深い闇を抱えている。何故かそう直感した。そして、勝手に私とこの男は、何かが相似していると感じた。
 その闇を暴いてみたいと、私の手に収めてみたいと欲が出た。

 居心地悪そうにしている男に手招きして呼び寄せる。早く帰らせろと顔に書いてある露骨に嫌そうな顔をするから苦笑する。分かりやすい感情を露わにするのは初めてではないかと今までの男の表情を思い出す。
 私の側まで歩を進めた男の胸倉をゆっくりと掴んで勢い良く引き倒した。油断していた彼は難なく私にのしかかられ、動揺を示す。私より背丈がある割に肉付きが無い所為か頼りなく見える。一瞬動揺や焦りが仮面を付けていても分かる程露呈していたが、今はもう落ち着いて静かに私を見上げていた。面白くない男である。

「……何の真似事でしょうか」
「ふん。つまらん男だな。ドイツ人でも無さそうだ。何故こんな仕事をしている?」
「言ったでしょう、貴方に答える義理は無いと」
「金を払ってやっても良い。答えろ」

 仮面の奥の暗い瞳が揺らいだ。くだらない問答で金が動くなど想定していなかったのだろう。私だって勢いのまま口を滑らせたと言って良い。床に散らばった白い頭髪は、何処の国の生まれでも異質で、しかし何処でも納得が出来そうだった。
 暫く黙り込んだ男は、自分の胸倉から私の手を払い除けて薄い唇を僅かに開けた。名も知らぬ男の口を凝視する等、自分の趣味は一体どうしたのだと私は私を疑った。

「娘が、おるのです。あの娘の為なら、私はどんな悪にでも染まってみせると誓ったのです」

 ほう、と感嘆の声が漏れた。勝手に独り身という予想を立てていたが違ったらしい。娘がいる。ならば母親と共にこの男の帰りを待っているのだろうか。倒されたまま起き上がろうとはしないのは何故だ。
 ご理解頂けたか、と皮肉の仮面を取り戻した彼は薄ら笑いを張り付けて私を見た。

「まだ名前を聞いていなかった」
「今更ですか……アビス、…フランス語だとエンフェル、に、なりますかな」

 地獄。直訳するとおぞましい名前になる男は、強張らせていた体を急に緩急させた。抵抗する気など元から無かったように見えたが、完全に力を抜いていた。油断を見せて、隙でも疑っているのだろうか。
 本当に、よくわからない男だ。酷く私の興味をそそる。こんな退屈な男に興味を魅かれるなんて、私も相当退屈らしい。

「アビス、地獄ではあるまい。どういう意味だ?」
「似たような意味ですよ。私が還れる場所と言えば、深い奈落の底、だけではないですか」

 先程も見せた自嘲的な笑みを再び覗かせて、アビスは私の下から這い出ようと上体を起こした。
 咎める必要も無くなったので、私も立ち上がり宣言してしまった通り財布から1枚、金を渡す。口だけだと思っていたらしいアビスは瞠目していた。すぐに特徴的な笑い方で笑い、私の手から札を奪い取った。

 それでは、と改めて彼は礼儀正しくお辞儀をした。深々とした礼をし、彼が頭を上げたタイミングで私は口を開いた。

「娘の為なら、どんなことでもするのか」
「ええ、金の為なら手段は選びませんよ」
「……ならば、明日の夜、また来い」
「……承知致しました。ド・サンローラン伯爵」

 金の為なら、何でもするという男で少し遊んでみたかった。ただそれだけである。どうせゆくゆくは没落する家である。今頃足掻いても手遅れであるのはわかりきっている。ならば賭博に使っても問題はあるまい。何にせよ、私に口出し出来るような者は、この家の中にはもう誰もいない。

 バタン、とアビスが扉を閉めた。遠ざかってゆく足音。あの男は屋敷の中でも仮面を付けているから家の者に見られたら怪しまれてしまう。ふとそう思い、廊下へ出て彼を追う。何処か余裕のある歩き方の男は裏口の目の前まで進んでいた。

「アビス」

 呼ぶと、奴は静かに振り返った。すい、と笑みを作るその口を、私は割と気に入っている。

「夜来る時は、その仮面を外して入ってこい。家の人間に見られると追い返されるぞ」
「わざわざご忠告、ありがとうございます」

 会釈をして、彼はとうとう屋敷の敷地から出ていった。
 明日の晩、さて何をしてやろうかと頭を巡らせる。緩慢な動きで踵を返すと、娘が少し離れた場所から私を見て首を傾げていた。其処で何をしているのかと聞かれたので、考え事だと言って自室へ戻らせる。母親を亡くして以来、情緒不安定気味であったが、最近漸く落ち着いてきたようだった。よく葡萄畑へ顔を出しているのを見かける。

 正体不明の男と夜な夜な逢瀬など、確実に道を踏み外している。私の中の秩序が崩れている気がした。だが満足感を得ているのも事実だった。体に開いた穴を埋める何かを見つけた、そんな気がしていた。








------------------------
伯爵、アビスに興味を持ち出すの巻 みたいな





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -