*イヴェール:大学生
*サヴァン:大学教授





 今夜は寒くなりそうだ。
 クリストフは窓辺から夕方と夜の狭間の空を見上げた。最近めっきり冷え込んできたが、今日は一段と寒かった。普段より一枚多く着込んで大学へ行ったらイヴェールが目敏くそれに気付き、「サヴァンもこもこだねえ」などと茶化しに来た。言っていた本人だって充分着膨れていたのだが。

 薬缶から甲高い音を立てて湯気が立つ。キッチンへ行き、火を止めてお湯を薬缶からポットへ移し、リビングへ持っていった。
 客人はもうそろそろ来るだろうか。クリストフは壁にかけた時計に目をやり、ソファに身を落ちつけた。彼が来るまで何もやることが無いから時計ばかりを気にしてしまう。気にすれば気にする程、針の進みが遅いような気がしてしまう。他に集中するものが無いから。もしくは訪ねてくる人を待ち侘びている。だから時間の進みが遅いと感じる。
 そんなことを講義中に学生に聞かれて、そう答えたような気がするのを思い出した。今の自分の場合は前者だな。待ち侘びているなど、そんな筈が無いと、考えている内にインターホンが鳴って思わず心臓が跳ねた。時計を見遣るといつの間にか約束の時間を5分程過ぎていた。

「遅刻じゃないのかね」
「5分くらい遅れた内に入らないよ」

 挨拶もそこそこに、講義終わりに、勝手に時間を決めて家に行くからと告げた学生はにこにこと楽しそうに笑みを浮かべながらクリストフに抱きついた。拒んだところで余り意味を成さないことを知っている。むしろ人前でしてこないだけマシである。光を受けると美しく光る銀髪を揺らせて、イヴェールは玄関に上がるとただいま、などと言ってみせた。
 毎度訂正するのも面倒になってきたので、クリストフは無言で彼を見つめて、そのままリビングへイヴェールを通した。

 ソファの横にイヴェールが持ってきた荷物を置く。その鞄がやけに大きいのを見咎めると、平然と泊まっていくと言ってのけた。聞いていない。

「言ってないもん。別に良いじゃない、いつものことでしょ」
「泊まるなら初めからそう言いなさい。私にだって準備する時間くらい頂きたいものだね」
「心の?」
「夕飯の」

 軽口を叩くイヴェールの顔はいつも幸せそうだ。老いぼれと恋人ごっこなんかして、何が楽しいのやらとクリストフはいつも思い、同時に心配もする。イヴェールはいつか大学を出るし、就職もするだろう。まだ先は長いのだ。クリストフ自身だってまだ死ぬ気は毛程も無いが、少なくとも目の前の若い青年よりは先は短いのだ。
 彼は本気だと言うが、そんなこと言っていられなくなる時期が絶対に来る。まず同性であるし、年齢差を考えても元々無理があるように見えるのだ。真剣にそんなことを考える程度に、クリストフはイヴェールに傾いていることを自覚していた。

 イヴェール専用に買ってきたマグカップと自分の物を持ってきて、コーヒーを注いでいく。テーブルにはお茶菓子も置いてあるのに、イヴェールは律儀にクリストフが淹れるのを待っている。知らぬ間にイヴェールの砂糖とミルクの配分を覚えてしまって、先に入れてやってから渡すと嬉しそうに顔を綻ばせてカップを受け取った。

 クリストフの淹れるコーヒーがイヴェールは好きだった。甘党のイヴェールは普段あまりコーヒーを飲まないのだが、クリストフが淹れるコーヒーは何故か飲めるのだった。
 それが愛の力だったら素敵なのに、と以前言ったら心底呆れた顔をして「私の淹れ方が上手い」のだと言われた。その理由も如何なものかとイヴェールは思ったが、クリストフが拗ねたように思えて可愛らしかったから突っ込まなかった。

 己のコーヒーにはミルクは入れず、角砂糖を一つだけ入れて、クリストフは両手でマグを持って指先を温めるイヴェールを見た。視線に気付いたイヴェールがにこりと微笑んで首を傾げた。
 何でもないと返して、こんな可愛げのある青年に自分は組み敷かれているのかと思うと不思議だった。
 身長は大して変わらないが、少しだけイヴェールの方が高い。体格も変わらないのに、力はイヴェールの方が格段に弱いのだ。なのに容易に押し倒されてしまうのは彼が人を絆すのが上手いのとクリストフが思いの外流されやすい質だったからだ。彼との付き合いでクリストフはそれを思い知った。

「さて、泊まるのなら夕食をどうにかしないとね」
「何作ってくれるの?」
「外食にしようかと思っているが」
「ええっ」

 眉を顰めてイヴェールは露骨に残念がった。別段料理が得意という訳でも無いし、実際格段に旨いという訳でもない。それを好き好んでいるイヴェールの舌は変わっているなあとは、クリストフの思うところである。

「ねえ先生、電話鳴ってるけど出なくて良いの?」

 イヴェールに呼ばれてハッとすると確かにベルが鳴っていた。ぼんやりと考え事を、しかも客人がいるというのに、何をしているんだと自分を叱咤して急いで電話に出ると、時折捜査の意見を聞いてくる警部からだった。ある事件の犯人の考えはと聞かれ、話が長くなりそうだと思いイヴェールを一瞥した。ソファに収まって、コーヒーを冷ましている。
 彼をこれ以上待たすわけにもいかないとまた今度じゃ駄目かと答えたが、急を要すると言う。
 困った。
 少し考えて、今思いつく限りの考察を喋って向こうが納得した様な反応をしたから無理矢理「学生のレポートを見なきゃならない」と電話を切った。

 一部始終を聞いていたイヴェールはくすくす笑っていた。
 彼の正面の椅子に腰を下ろして、肩を揺らすイヴェールを睨んだ。

「何か可笑しいかね?」
「いやあ、だって早く電話切りたいっていうのが分かりやす過ぎてさ」
「そりゃあ、君が来ているんだ。電話で放っておくのも失礼だろう? それに警部は話すと長い」
「警部さんと繋がりがあるのかあ。凄いね、流石『賢者』」
「犯罪心理学者なんか私でなくても山といるだろうに」
「それは先生が凄いからなんじゃないの」

 マグを噛みながら、イヴェールは溜息を吐くクリストフを見た。
 自分の為に事件解決を投げて電話を切ったのかと思うと堪らない。彼は心理学などそうそう役に立たないと言うが、ならば頻繁に警部殿は電話を掛けてくるのだろうか。それほど実績があり、信頼されているということではないのだろうか。

 コーヒーを一気に飲むと熱が喉を通り胃へ通っていくのが分かった。
 さて、と立ち上がる。暖かい部屋から出るのは少々気が引けたが、今から夕食を作りだしたら食べ始める時間は更に遅くなる。
 行こうか、と催促すると慌ててコーヒーを飲もうとするから笑って止める。残したら良いと言うと、勿体無いと返ってきた。

「コーヒーなんて、帰ってきたら淹れてあげるよ」
「でも…」
「それよりお腹減ったよ私は」

 ごねるイヴェールからマグカップを取り上げて、キッチンへ持っていく。
 寝室へ行ってクローゼットからコートを取り出していると、リビングからイヴェールの呼ぶ声がした。今朝人を小馬鹿にした時に着ていたコートを羽織りながら、何処に行くのかと問われた。

「ふむ。最近見つけた美味しいチキンの店があるのだが、そこでどうだね?」
「先生が美味しいっていうなら間違いないよ! そこに行こう!」

 行き先が決まるやいなやぐいぐいと腕を引っ張るイヴェールを緩くなだめながら玄関へ向かう。
 外へ出る直前にいきなりイヴェールが振り向き、頬にキスをされた。行ってきますのちゅうなんだと言って。

「そういうのは、どちらか片方が出掛ける時にするものではないのかね」
「なんだって良いじゃない。じゃあ先生も僕にしてよ。行ってきますのちゅー」

 頬を指差してほらほらと。照れる間柄でも無いのだが、素直に従うのも癪だから、唇に「行ってきますのちゅう」をしてやった。
 驚くイヴェールの顔を凝視してからにんまり笑ってやって、クリストフは先に家を出た。何か言うイヴェールを玄関先で待ちながら、空を見た。雲ひとつ無い。きっと今夜は星が綺麗に見えるだろう。










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心理学以外の分野の知識も長けているから学生から「賢者」と呼ばれてるとか、犯罪心理学者なので警察とたまに協力してたらとかそういう設定を散りばめたら長くなった。先生と呼ばせたかった。




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