春風に煽られて舞い上がった彼の赤い髪が、私の頬を優しく掠めていく。
その感触がくすぐったくて、思わず微笑(わら)いが零れる。
髪が触れるほどすぐ近く。そこが、変わらない彼の定位置。
もっぱらアホ毛と評判の揺れる髪を眺めて、不意に思い出す。
その長く艶やかな髪が、今よりもずっと短く、肩くらいの長さだった頃の事を。
もどかしい恋をしていた。
…彼に。
※ ※ ※
二人の距離は、近くて遠い。
幼馴染として庭を転げ回った頃から、接する時の距離は変わらない。
触れるほどに近く、いつも、側に。
なのに、いつの間にか彼は最も身近な『異性』になっていた。
婚約者との結婚の日取りが決まった事を告げたのは、ある春の、夜。
人混みが嫌いな彼に合わせて選んだ、閑静な公園。
向かい合う彼の表情が青白く見えたのは、月明かりだけのせいではない、と今でも確信している。
それでも彼は…無表情で。小さく、そうか。とだけ呟いて。樹木に溶け込むかのように、静かに立っていた。
いや、小さく一度だけ。
薄暗い中、口唇がひとつふたつ、何かの言葉を形取るのが見えた。
(…聞こえない)
(聞こえないわ、ルーファス)
焦燥が胸を黒く焦がす。
ぐっと拳を握り込んだ。思わず泣いてしまわないように。
聞きたい言葉は、聞こえなかった。望んだ言葉は、何も聞こえてはこなかった。
春の嵐。薄紅の淡い花弁が音を立て、二人の間を割って降り注ぐ。風に煽られた鮮やかな髪がゆるやかに舞っていた。
降る花の向こう。
ただ佇んで、お互いが、お互いの言葉を欲していた。
何か、言葉を。心からの、言葉を。
それが聞けたなら。勘違いなどではなく、もしも、想いを言葉でちゃんと確かめあえたなら…!
そう願いながら二人は長い時間、冷えた身体を風に晒して、ただ静かに見つめ続けた。
先に目を逸らしたのは、どちらだっただろう…もう、覚えていない。
勘違いと片付けてしまうにはあまりにも雄弁な態度で、しかし肝心な事は何一つ言葉に表さない彼が、あの頃の私にはただもどかしく、側に居続けるのは苦しかった。
そして私は選んだ。
レインズワース家の女性らしく、恋に、彼に、振り回されるより、…振り回す方を。
今でも時折、思い返す。
あの時、何か言葉で聞けたなら、何かが変わっていただろうか…、と。
※ ※ ※
あれから数年、十数年、数十年と時を経て、若い頃は残酷としか思えなかった過ぎゆくだけの流れが、この頃は穏やかに移ろうようになった。
横を見上げる。
氷のような冷淡さに包み隠した、本来の激しい気性を映す、燃える赤い髪。
切れ長の涼やかな目、皺ひとつない肌。
青年のままのあなたが。一人、年老いておばあちゃんになっていく私を、それでも大切にしてくれる。
色んな人が、大切な人たちが去っていった後も変わらず、今も側に居てくれる。
手を伸ばせば、届く距離。髪が触れるほど近く。ここが、彼の定位置。
旦那さまにはなれなかった貴方だけど。
幼馴染であり、唯一無二の…特別な相手として。
残りの時間は、この場所で。この距離で、どうか。
「…を、貰ってよ」
漏れた呟きは、風に溶けた。
慌ててルーファスが、シェリルの顔を覗きこむ。
「シェリル、今…なんと?」
「うふふ、残念ね。二回も言わないわ」
「聞こえなかったのだ!頼む、もう一度言ってくれ」
「だめよ、これはあの時の仕返しなんですもの」
「は?いつかとは…いつの事じゃ!?」
言葉にして。口に出して、伝えて。私に、想いを、声で聞かせて。
確かめられなくて、不安がっていた少女はもういない。
そう、今は…、
貴方の声が。聞こえなくても。
どうか、言葉よりも早く、私が触れれる距離にいて。
恋よりももっと強い絆で、私に貴方を縛り付けるの。
【…を貰ってよ(聞こえない)】
(例え、聞こえてなくても)
(この場所は、あなたにあげるわ)