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丸くあいた窓に交差する格子模様の向こう、大切に育てられた牡丹の花の真上
月は暈をかぶり、私たちにその姿を捉えさせまいと夜空にその光を溶け込ませている
風も空も眠るように穏やかで、我が身がまるで大いなる造化と一つになったかのような心地よさが満ちている
そんな夜だった、私が曹操様の室へと呼ばれたのは


「いい夜だな」
「はい、乱世とは思えぬ静けさでございます」


霞む月に向かい、並んで盃を傾ける
月の落ちる盃の中に滑り込む花弁などない
加えていえば、あの月を覆う暈雲がなかったならばなんと興のない酒宴となっていたか知れない
何故ならば私の求めるのは暈に隠れて全てを与えず、しかし夜闇を照らす輝きをひしひしと感じさせる、
まるで曹操様を思わせるような月だからだ


「なまえよ」
「はい」
「あの月は、言うならばお前に似ているな」
「私に・・・?」
「その真意がわかるか」
「・・・いえ」
「よい。はっきりと暦を教えるように煌煌と昇る月に混じって時折ああして人を惑わす月が浮かぶ」
「・・・それが、私だと・・・?」
「不服か?」
「いえ、ただ・・・そうおっしゃる殿のお心がわかりませぬ」
「ふ・・・なるほど、そうであろうな
あれを見よ。詩に詠むべき美しさなれど姿が霞めばあてる言の葉もあれを捕らえられぬ。
それと等しくわしはお前には鼻が利かん。

すなわち、お前を愛いと痛むほど思えども詠むべきお前の姿は未だこの手に掴めぬのだ」


空を眺めて語っていた曹操様はいつの間にか私を見ていた
自信に満ち溢れた強い目に、私は未だに真正面から向き合えない


「如何に古の宋玉のように言葉に長けようと、如何に伯夷のように詩の才があろうと、
お前の前では無に等しい
我が手で触れることでしか満たされぬ思いよ」


曹操様がその口から語る朧とは、曹操様にしてみれば私を語るが如く、私にしてみればそれはそのまま曹操様を語るが如き詩のようだった
その詩は染み入るように私の心を侵し、鈴の音のように鮮やかに響き、やがて私の曹操様への敬愛の念を狂おしいほど揺さぶった

そう、この手で退けられぬ暈雲への焦燥、
照り輝く孤高の銀月への憧憬、
推計の及ばぬ幻想と神秘
それらは全て知らぬ間に私の心を蝕み、命を長らえさせる核となっていた感情だった

朧月に惹かれるように、歴史上に燦然と輝くであろう奸雄の名を持つ曹操様に私は命まで捧げてしまった


「なまえよ・・・」


故に差し出された手に応えぬ術を私は持たぬ


「往くでないぞ、いづこへも」
「曹操様・・・」


曹操様の指が、私の手を優しく撫でる


「毎晩毎晩わしの前に現れては見事に輝きながらも決してこの手に降りようとはしない
ならば何処へも往かせん」
「私は・・・」
「・・・この齢になり、ようやっと己が心と同じように人を愛でることを知った
わしは生涯絶えずものを学んできたつもりだったが・・・未だこのように未知なる甘美があったとはな」
「未知なる、甘美・・・?」


曹操様の、いつもは遙か彼方を見つめる鋭い目をのぞき込めば、その黒い瞳は私を映した
胸が高揚する間もなくその目は優しく細まり、曹操様の指が私の唇をそっと撫でた
曹操様が口を開けば、微かに嗄れた低い声が鼓膜を揺らして背筋を走る
ああ、この人の胸にいだかれてしまいたい


「・・・あまり語らせるな・・・言葉を積めば積むほどその薫りは薄れていく
言葉とは、惜しむものなのだ」


曹操様の腕が私を包んだ
温かい人の体温と焚いた着物の薫りが心地よい
曹操様は何も言わずに顔を埋めたり私の肩を撫でている
私も思わず曹操様に縋りつくように体を寄せた

求め合い、慈しみ合う
そこには言葉など要らなかった
私は未知なる甘美の味を知ってしまったようだ


「・・・私は、何処へも、往きませぬ」
「・・・ああ」
「この命・・・疾うに曹操様に捧げたもの。
主の側にあらねば屍も同然」
「ふ・・・お前は聡いが趣に欠けるな。
まあよい、言葉など要らん・・・

何も聞かずとも、わしはお前を、この命果てるその時まで・・・離しはしない」


吐息を感じるほど近くで曹操様の声を聞いている
私はかつてない高揚を感じた
熱が出たように頭がくらくらする

ああ、きっと病に冒されてしまったのだ
骨の髄まで届く毒牙を持った、死に至る病であればいい
それが私の愛した奸雄の姿であるから



ふと顔を上げれば、曹操様の肩の向こうに朧月が私たちを見ていた

曹操様が私の名を呟くのを聞くと、私はその月の輝く天にも昇る気持ちで静かに目を閉じ、
曹操様に身体を預けた



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