レゾンデートル

の突然の訪問に、私は少なからず驚かされた。街も眠りにつく時間帯にチャイムが鳴って、おそるおそる確認すれば見知った人物が見慣れない衣服をまとって立っているではないか。慌ててドアを開いて中に招くと、玄関先で靴も脱がぬままに、かなり遠慮のない力で抱き寄せられて気が動転した。彼は人であるのにそこにぬくもりはなく、冷え切った身体で包まれるようにして抱かれていた。いつもはおしゃべりなのに、今は一言も発しない。おかしいとは思うものの話しかけることは憚れる。下手に話すこともできないような私の動揺ぶりと、彼の独特の雰囲気がそうさせたのだ。
ドアを開いて彼の姿を捉えた一瞬の間、色んな感情を押し込めたような彼のきれいな瞳と目が合った。恐怖のような、焦燥のような、不安のような、とにかくマイナスなあらゆる感情を押し込めた目だった。私と目が合ったのに気付いたのか気付いていないのか、すぐに視線をよそに向けたと思ったらこれだ。驚きはあとから大きくきた。
どれくらいそうしていたのだろう。やがて、会ってから初めて息をしたように彼は静かに息をつき、とても小さくごめんと呟いて離れた。それから、こうして明るいところでもう一度彼の姿を見て、白いローブのような上着に赤茶色のものがべったりとついていることに気がついた。そして彼の身体が冷たい理由がよくわかるのと同時に、なぜだか訳のわからない悲しさが込み上げてきた。離れて俯いている彼はあいかわらず表情が伺えない。そして「ごめん」という一言が、いきなり抱きしめたことを指しているのか、私の服を汚したことを指しているのかもわからない。あるいはどちらもかもしれないけれど。
その一方で、大いに汚れてしまった服はもうだめだなと諦める。彼の前で脱ぐのも何か違うため、自分のバスタオルと大きめのシャツとジーンズを彼に押し付けた。
「え」
困惑したような顔をする彼が、ようやく顔を上げたのがちらりとわかった。しかし、今度は自分の表情を悟られまいと私が下を向いてしまったので定かではないが。下を向いたまま私は続ける。
「お風呂、入って。お湯は嫌だったら抜いていいから」
「でも、」
「いいから」
言われるままにバスルームへと姿を消した彼は、すれ違いざまにもう一度ごめんと言った。謝って欲しかったわけじゃない。私が俯いているのは、彼のそのような姿から目を逸らしたかっただけなのだ。

魔術師だと、前に朗らかに言っていた。いつだったか、と思い出そうとしても明確には思い出せない。暖かいうちに咲く花が咲いている季節だったから、秋や冬でないことは確かだ。その時も、にわかには信じられないという思いより、ああなるほどと謎に納得してしまったから逆に驚かれた。
「びっくりしないの?」
「……なんとなく、らしいなって」
なにせ掴みどころのない印象だったのだ。そのときだってうららかな日差しの下で、あまり穏やかでない話をしていたのもある。そうして彼の話を聞いていたときに、ほのかな笑顔とともにそう言われて、少し自分の知らない世界が覗けたようで胸が高揚したのをよく覚えている。
シャワーから戻ってきた彼は、まだしょんぼりとしていた。
「怒ってる?」
「怒ってはないけど……」
「…………」
「……自分の血なの?」
「返り血……だけど、服汚しちゃったよね。ごめん。……そんな悲しそうな顔しないで」
言われて、自分は泣きそうになっていたのかと隠すように目元を擦る。「本当はおめでとうだけ言いにきたんだ」と、いつかの風景を思い出させるようなのんびりとした口調で彼が言った。真意に気付き、そして自分の服を変えていないことも思い出した。彼の言葉の続きを聞くのが先か、服を変えるのが先かでまた揺れる。
けれども、いったん気になるとずっと気になるようで、誰のかもわからない血液が付着した服を長々と着られるほどの度胸は持ち合わせていないから、彼には申し訳ないが自分ももう一度シャワーを浴びることにした。ぬるい温度のお湯を浴びながら、あがったら彼はいないかもしれないと思った。なにも言わずにふらりとどこかへ行くような人だ。これ以上私を動揺させまいと今のうちに家を出ようとするかもしれない。
「え、ちょっと、どうしたのその恰好」
彼がいなくなるのは嫌だと、本能的にそう感じたらしい。気がつけば下着だけ身に付けて急いでバスルームを飛び出した私は、ベッドに寄りかかって座っていた彼に、髪が濡れているのもかまわず額を押し付けた。今度は突拍子もない私の行動に彼が驚いたようで、遠慮がちに肩に手が触れて、「だいじょうぶ」と呟いた。
「だいじょうぶ、ちゃんと見えるところにいるよ」
「……うそ」
「それにほら、今日はおめでとうを言いに来ただけなんだってば」
私の顔を上げさせて、ちゃんと目を合わせてからにこりと笑う。
「誕生日おめでとう」
ちょっと過ぎちゃったけど、それは見逃して。いつもの調子でけろりと言う彼に、今度こそ身体から力が抜けてしまった。それを受け止める彼の身体はもう冷たくない。出会ったとき、一回だけ話題にした自分の誕生日を、彼はしっかりと覚えていたのか。そして、自分のことを気にせずにそれを言うためだけに来たと言うのか。
「……ほら、風邪ひくよ」
そう言って私を離した彼は、サービスだのなんだのとおちゃらけたことは一切言わずに部屋着を着せて、ドライヤーをかけ始めた。温風と頭を撫ぜるような心地よい感覚につい、うとうとする。悟ったのか低音が鳴り止み、まだ寝ないでと焦ったような声が届く。意識は半分ここにはなかったけどうんうんと頷き、それから少しして、いたずら心をくすぐってしまったのか、頭ではなくうなじをくすぐられて一気に目が覚めた。勢いよく振り返ると、どうかした?と顔に書いていある彼が小首を傾げる。
「…………」
「髪乾いたよ」
彼も存外眠たげで、体を捻って同じシャンプーを使った彼の髪を指先で梳いた。指通りがどこかが違うのは、元から持っている髪質なのだろうか。ひとつ、欠伸をして私の視線に気がついた彼は、しばらくいてもいい?と子どものように言った。もちろん肯定する。なんなら少しでも寝たほうがいいだろうと提案した。
「一緒に寝るってこと?」
「それがいいならそうする」
私の返答に少し意外そうな顔をした後に、「起きたら隣にいないかもよ?」と私の髪を同じように梳いた。それでもいいと私は答える。
「優しいね」
もとより睡眠時間が人より少ない彼より、人並みの睡眠時間の私のほうが圧倒的に時間は長い。それを比べても今さらである。起きた時に隣にいないかもしれないということは、それだけで怖さがある。あるけれど、彼一人を残して隣からいなくなるよりはずいぶん軽い怖さだ。
優しいねという言葉に返事はせずに、まだ彼が隣にいることに安堵して目を閉じる。どこからか花の匂いがふわりと香った。彼とはじめて言葉を交わした時にも、日にちは全然違ったけれど、彼はおめでとうと私の誕生日を祝ってくれたことを今になって思い出す。今年も、かの景色を吊戯と見られるだろうか。
あの一面に広がり咲き乱れる花の名前は、れんげだった。

松野さんへ happy birthday!!



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -