『千尋』



記憶の奥底から聞こえる優しい声、優しく名前を呼ぶ無邪気な声音

あなたはだあれ?

埋もれた暗闇の記憶を必死にまさぐりながら尋ねてもわからない、なかなか思い出せない声の持ち主

涙が零れそうなくらい懐かしいと胸は騒ぐのに、この手のひらに落ちてこない答え、大切だと知っているのに蘇らない思い出

とても大切なはずの、あなたへの想いーーー





千尋には幼い頃の記憶がない

否、次第にうっすらと少しずつは取り戻しているのだが、一度なくした記憶はなかなか取り戻せないまま現在に至っている

千尋を知る者はみな無理に思い出す必要はないと口をそろえていってくれるのだが、そうではないのだと女王装束を揺らしながら千尋はため息を一つこぼした

豊葦原を常世の国から取り戻し、千尋が中つ国の正式な王位についてから早数ヶ月

最初はごたごたとわいて出てきていた揉め事や事後処理、様々な問題も仲間の協力もあって大方がすでに解決され、今のようにほっと息をつける時間も増えてきた

完全な落ち着きを取り戻すまで今しばらく時間はかかるだろうが、喜びが花舞うように満ち溢れるのももう少しだ

千尋達が手に入れた一つの形での終着点

もう、この平和を壊したくはない

例えそれが永遠に続かないのだとしても

はらはらと舞う桜の形は今では遠く、うだるような暑さが湿気の名残を帯びて鼻孔をくすぐり、肌にまとわりつく衣をじんわりと汗ばませる

耳に微かに届く声は兵士たちの訓練に励む気迫の音か、柔らかに滑り込んでくる笑い声は人の持つ日溜まりに触れ合っている戯れの歓喜か

はたはたと絹布を風にはためかせながら千尋は和やかに目元を緩め、ここにはいない仲間に思いを馳せる

欠落した記憶を決して責めず、頼りないと言うこともなく、今のままの千尋でも構わないのだと笑ってくれる大事な人達

交わした言葉を記憶の底に沈めたままでも嫌な顔ひとつしない尊い人達



「気にしてるのは私だけ………」



ぽつり、桜色の唇から言葉がこぼれる

誰も千尋に昔を思い出せなんて強制的な言葉を吐いたことはなく、態度に示したこともない

いつもの千尋ならばーーー豊葦原に来てからの千尋に限るがーーーその言葉に頷いて、思い出せる日が来たら思い出すよねと笑っておしまいのはずだった

おしまいのはずだったのに、



『千尋』


記憶の中にある、心を揺さぶって止まない誰かの幼い声音

一ノ姫と風早達以外とは疎遠だった幼少の頃、千尋と進んで遊ぶような、そんな子供は宮の外にも中にもいなかったはずなのに、確かに存在していたのだと訴えかける喪失に埋もれたかけら

千尋、と姫としてではなく名前を親しく口ずさんでくれたはずの人

いつ、どうやって出会ったのかもわからないその声が記憶の片隅に宿ったその日から、千尋に記憶を取り戻さないと後悔すると無意識下の本能が責め立てる

知らない感情が、千尋の身を焦がす



「あなたは、誰……?」



失ってはならない記憶だったのだろうか

他の、豊葦原の二ノ姫という記憶よりもずっとずっと、優しかった姉よりも



『千尋は優しいね』



見上げた空に瞳を揺らした千尋は首を振ると聞こえてきた知っているはずの声に優しくなんてないわとうつむいた

きっと、この声の持ち主の方が優しい人間であったはずだ

あの頃の千尋と好んでいてくれていたのなら、忘れてしまっている声の人の方が優しい

ーーーそれなのに、どうして思い出せないんだろう

どうしようもない胸騒ぎと無性に募る言い様ようのない、泣き出したくなるくらいの切なさに襲われる揺れ

思い出そうとすればするほどするすると遠ざかり靄がかっていく



『ちひろ』



姿も、出来事も、ぬくもりすらも覚えていない中で、鮮やかではないけれど鼓膜を震わせる過去にあった声

側にいてくれていたのであろう、なくした過去



「ーーー…………」



唇を開き、千尋は音にもならない吐息を地面に落とす

呼ぶ名前すらわからない、忘れているのだと思い知らされる無力感

出会った場所も、わからない



「さよならの合図があったかも、私は覚えていない………」



くっと、呼ぶべき名前が出てこなくて、千尋は苦しげに息を詰めると胸元を掻き抱いた

ぐしゃぐしゃに女王装束を乱しても、その力は緩まない

青の瞳に浮かぶのは苦悩と切実な祈り



ーーー思考に気をとられていた千尋は気がつかなかった

いつの間にか周りの音が途絶えていたことに、生き物の気配が消えていたことに



「………千尋?ーーーっ千尋!!」



ぐらり、と体が傾ぎ、千尋の体が誰かの腕に支えられる

慌てた声も遠く、遠く、

うろ、と何かを探すように左手がさ迷い、誰かの肩に触れてから落ちる

その青い双眸は固く閉ざされていた




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