この日、俺と隊長は初めて喧嘩をした。もちろん喧嘩といっても、子供のような怒鳴り合いや殴り合いなんかじゃない。そんな喧嘩なら、確実に俺は四番隊の世話になっていた。
 何が原因だったのかは忘れてしまったが、まあマトモな内容だったと思う。でも、今重要なのは、喧嘩の原因や内容ではなく、俺が隊長に言ってしまった一言だった。

『アンタみてえに苦労したことがない人には、わかんねえっスよね』

 そう、言ってしまったのだ。
 どういう流れでそんな発言をしたのか、そんなことはもう覚えていない。言った直後、すぐに頭の中が真っ白になって後悔したのだから。

「……ンなこと、ちっとも思ってねえのによ……」

 流魂街の戌吊りで生活していた俺たちと、瀞霊廷で貴族の嫡子として生活していた隊長。それは到底比べられるようなものではなく、確かに隊長は俺たちが味わった苦労や絶望を知らないだろう。
 だが、それは俺も同じだ。
 隊長には隊長の、俺じゃまったく理解できない苦労や絶望があったはずだ。昔の俺なら、そんなこと思いもしなかっただろうが、隊長と接して、あの日、この人の本心を知ってからは、少しだけわかるようになった。苦労したことがないなんて、絶対にねえんだ。
 俺の環境と隊長の環境、どちらの方が苦しいかなんて俺には知る由もない。ただ、流魂街の最下層に位置する場所で生きてきたヤツと、瀞霊廷の中で衣食住に困ることなく生きてきた貴族とじゃ、確実に貴族の方が楽に見えることだろう。特に隊長みたいな、四大貴族の当主で護廷十三隊の隊長、そんな肩書きを持ってる人なら余計に。
 きっとほとんどのヤツらは、隊長の苦労を知らない。だからあの人には、それを知って支えてやる存在が必要なんだ。俺は、少しでもそんな存在になれればと思っている。なのに、このザマだ。ちょっとした喧嘩なんかで、隊長を傷つけるようなことを言っちまった。後悔してもしきれねえよ。

「……迎えに行くか」

 隊長はあの後、隊首会に出席したため、執務室にはいない。
 迎えに行って、謝ろう。たとえ千本桜を散らされたって、あんなことは少しも思ってないって伝えなきゃなんねえ。
 俺は、執務室を飛び出した。……が、扉を開け放った瞬間、扉が当たるか当たらないかのスレスレの位置にいた隊長の姿が、目に飛び込んできた。

「く、朽木隊長……」
「……」

 予定より早く隊首会が終わったのだろう。
 無言が痛い。何か喋ってくれ。

「……恋次」
「は、はいっ!」
「扉は乱暴に扱うなと、何度も申したはずだが」
「す、スミマセン」

 何で早速怒られてんだよ、俺! そうじゃなくて、他に謝らなきゃなんねえことがあるだろ!

「く、朽木隊長!」
「……何だ」
「あの、さっきは……その、すみませんでした」
「……」
「俺、全然あんなこと思ってません。つい勢いで言っちまっただけで……本当に」
「……」
「隊長、俺は――」
「恋次」

 大事なところで、名前を呼ばれた。下げていた頭を上げると、隊長はすでに視界から消えている。後ろを振り返れば、隊長は自分の執務机に腰を下ろすところだった。

「早く席に着け」
「朽木隊長……」
「残業したいのか」

 そう言われて、俺は複雑な心境で席に着いた。
 隊長は、許してくれたのだろうか。わからない。
 思い切って、俺はもう一度だけ隊長を呼んだ。机に向かう隊長の姿を、まっすぐ見つめながら。

「朽木隊長」
「……」
「俺は……」
「しつこい」

 まさかの一言だった。グサリ、と胸の中を何かに刺された気がする。

「……あの……」
「言わねばわからぬか」
「へ?」
「私が貴様の言葉なんぞに、傷つくとでも思ったか」

 待て待て待て待て。つまり、何だ。
この隊長の言葉から察するに、あんなに必死になって思い詰めていた俺の気持ちは、ぜんぶムダだったってことになるのか?

「じゃ、じゃあ隊長、気にしてないんスか?」
「当然だ」

 嘘だろ……。
 ガックリと肩を落とし、隊長の中で俺の言葉がそれほど影響を持っていないことに、少しだけ泣きそうになる。これじゃあ支えとか言ってる俺がバカみたいだ。

「ハァ」
「……」
「俺、一人で暴走してましたね。すみません」

 ハハ、と乾いた笑い声が洩れた。

「……知っている」
「え?」
「お前が、本気であのように思っていないことくらい、知っている」

 隊長は書類に筆を走らせながら、そう言った。
 それって、つまり。俺の気持ちが、少しでも隊長に届いているということだろうか。

「朽木隊長……!」
「さっさと筆を持て」

 最後まで顔は上げてくれないし、口から出る言葉も素っ気ないけれど。これが隊長なりの照れ隠しだということは、俺にだってわかった。
 緩む口元を隠さず、言われた通りに筆を持つ。この人を支えられる存在に近づいていると、自惚れてもいいだろうか。




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だって世界は広いから

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