夫の笑みはとても美しいと、緋真は微笑まれるたびに実感する。
 わずかにそっと下がる目尻は一見わかりにくいが、優しい光を携えていて。ほんの少し上がった気品あふれる唇は、いつだって自分を魅了して止まない。
 どんなに格好いい男性も、どんなに綺麗な女性も、きっと夫の笑みには敵わないだろう。それほど笑った白哉の顔は、本当に美しかった。
 周りの者たちは“奥方限定の笑顔”と囁いているのだが、緋真はそれを不思議に思っている。白哉は、緋真の前で笑みを見せることが少なくなかったからだ。たとえ白哉が表情を表に出さない性格だとわかってはいても、微笑みを見せるくらいならあると思っていた。
 白哉が外では決して笑わないことを聞いたとき、緋真は目を丸くした。微笑みの欠片もあったもんじゃないっスよ、と唇を尖らせた夫の同僚兼昔馴染みの死神の言葉は、今でもはっきり覚えている。
 しかしそれは同時に、緋真を秘かに喜ばせた。あの綺麗な綺麗な優しい笑みは、自分だけのものなのだから。
 こんな考えは浅ましく、愚かしいことだとはわかっている。それでも、「嬉しい」と感じる気持ちを抑えることはできなかった。
 ――ただ、ひとつだけ緋真には気になることがある。

(白哉様が声を上げて笑ったり、にっこりしたところを見たことがない……)

 試しに想像してみるが、駄目だった。まったく浮かんでこない。
 基本白哉の笑みは、ふわりという副詞で表されるものばかりであり、にっこりという表現とは遠くかけ離れていた。だからこそ、興味がわく。

(見てみたい……!)

 緋真は瞳を輝かせ、妙なやる気を育てるのだった。





「それで、私にどうしろと……?」

 夕刻、普段よりも幾分か早めに仕事を終えて屋敷に帰ってきた白哉は、突然の妻の頼みに困惑した。
 それもそのはず。
 緋真が白哉に頼んだことは、「白哉様の満面の笑顔が見てみたいです!」だったからだ。

「にっこり笑って頂けませんか?」
「……にっこり……」

 なぜか期待に満ちた目で見上げられ、白哉は妙なプレッシャーを感じた。緋真の瞳の奥にきらきらとした輝きが見えるのは、きっと自分の勘違いだろう。勘違いであってほしい。

「お願いします、白哉様……!」
「いや、しかし……」

 にっこり笑うといっても、いったいどう笑えばそれは“にっこり”という表現に当てはまるのか。白哉にはまったくわからなかった。そもそも白哉は笑おうとして笑っているのではない。緋真の前では、無意識に笑みがこぼれ出てしまうのだ。

「その……にっこり、の笑い方がわからぬのだが」
「簡単ですよ。ほら、こんなふうに」

 緋真は見本を見せるように、にっこりと笑った。そのひまわりのような笑顔がとても眩しく、とても温かくて、白哉は自分が癒されていくのを感じた。
 この笑顔に、自分は幾度となく救われたのだ。

「はい、次は白哉様の番ですよ」

 言われてはっ、とする。緋真の笑顔に見とれてしまい、本来の目的をすっかり忘れていた。
 白哉は困ったように視線を泳がせる。これも緋真だけが知る彼の表情だ。

「さぁ、白哉様!」
「…………無理だ」

 少し……いや、かなり。白哉には越えるべき壁が高かった。





 あれから三日後。
 未だに緋真はあきらめていなかった。何としてでも夫の満面の笑みを拝んでみせると、燃えに燃えている。
 妻がなぜそんなに必死なのか、白哉にはまるで理解できなかった。

「お帰りなさいませ、白哉様」
「緋真は?」
「お部屋にいらっしゃいます」

 もちろん訊かずとも、緋真が持つごくわずかな霊圧を辿れば瞬時にわかることなのだが、今日は何となく尋ねてみた。清家が言うことに間違いはないので、わざわざ辿って確かめる必要はないだろう。必ず緋真は部屋にいるはず。
 白哉は先に自室へと戻り、死覇装から普段着に着替えて緋真のもとへ向かった。

「緋真……?」

 お帰りなさいませ、と笑って迎えてくれるであろう妻の姿を想像していた白哉は、ぱちりと目を瞬かせた。緋真は縁側に腰掛け、柱に体を預けてすうすうと眠っていた。

「このようなところで……」

 きっと自分を待っているうちに、睡魔に負けてしまったのだろう。眠いのならば先に休めばよいものを、と思うが、こうして待っていてくれたことが嬉しいのも事実で。
 白哉はそっと自らの羽織を緋真の肩に掛け、そっと隣に腰を下ろした。

「風邪を引いてしまうぞ」

 自分と同じ漆黒の髪を撫でる。その手つきは、普段の彼からは想像もつかないほど優しいものだった。何度も何度も繰り返し撫で、その柔らかな感触を楽しむ。

「ん……」

 ぴたり。白哉の動きが止まった。
 起こしてしまったか、と顔を覗き込んで確かめると、幸いまだ緋真は夢の中らしく、ほっと安堵の息をつく。

「びゃ……さ、ま……」

 緋真の口からこぼれた己の名に、白哉は柔らかい笑みを浮かべた。
 愛しい。愛しくてたまらない。
 いったいどんな夢を見て、己の名を呼んでいるのか。穏やかな寝顔を見る限り、きっと悪い夢ではないだろう。夢の中でも彼女の隣に自分がいれば、それほど幸せなことはない。
 緋真の額に軽く口づけ、白哉はその華奢な体を抱き上げる。そのとき、うっすらと緋真の瞼が開いた。焦点の合わない瞳で白哉を見上げる。

「ん……びゃ、く……?」
「構わぬ、寝ていろ」

 今度は唇に口づけ、そのまま緋真を寝所へ運ぶ。

「びゃく、や……さま」

 うつらうつらしている緋真を布団の上に下ろしたところで、また名を呼ばれた。

「なん……っ!?」

 返事をしようとして、白哉は瞠目した。
 あの緋真が、自ら抱きついて唇を重ねてきたのだから。

「ひ、さ……」
「びゃくや、さま……びゃくやさま……」

 何度も名を紡ぎ、緋真は満足そうに笑った。そしてまた、小さく寝息を立て始める。

「……」

 白哉は呆然と緋真の寝顔を見つめた。
 今、何が起きた? 緋真が、自分から?

「……心臓に悪いではないか……」

 鳴り止まぬ胸の鼓動を自覚しながら、白哉は赤く染まった顔を右手で覆い隠した。
 まったく、明日どんな仕返しをしてやろうか。そんなことを考えながら。





 翌朝、緋真は目を覚ますなり、声にならない叫び声をあげた。

(な、な、ななななんで……ッ!?)

 なぜこのような状況になっているのだろうか。
 背後からすっぽりと白哉に抱え込むように抱きしめられている緋真は、顔を真っ赤にして硬直した。前に回された両腕のせいで、身動ぎひとつできない。
 小さく漏れる夫の寝息がすぐ頭上で聞こえ、さらに緋真は赤くなった。どうしてこんなに密着して寝ているのか、昨日寝る前はこんな状況だったか、必死で記憶を手繰り寄せる。

(そっ、そういえば……)

 確か縁側で夫の帰りを待っていたのだが、襲いくる眠気に耐えきれず眠ってしまったのだった。何やら幸せな夢を見ていた気がするから、間違いない。
 そうだ、それに自分はその夢の中で――

「びゃ、白哉様に、自分からっ……」
「抱きついて口づけてくれたな」
「!?」
「おはよう、緋真」
「白哉様……! いつからお目覚めに!?」
「つい先程だ」
「あ、あれは、夢では……!?」
「さあ、どうであろうな」

 くっ、と喉で笑う音を聞き、緋真は発熱したかのように体を火照らせた。そう、あれは夢ではなく、すべて現実だったのだ。

「で、では、この状況は?」
「何を言う。これも緋真が望んだのであろう」
「!!?」

 もう何が何だかわからない。昨日の自分は、そんなに寝惚けていたのだろうか。

「わ、私が……?」
「あれから何度も口づけをねだり、眠る直前まで私に抱きついていたではないか」

 楽しそうに告げられる内容に、緋真は泣きたくなった。顔をうつむかせ、「私……私……」と呟いている。

「ご、ごめんなさい、白哉様…………白哉様?」

 己の醜態を謝ると同時に、なぜか自分を抱きしめる白哉の腕や体がわずかに震えていることに気づいた。不思議に思って振り返ろうとするが、それよりも先に緋真の耳へ声が届く。

「ふっ……」
「あの、白哉様……?」
「くっ……すまぬっ……」
「――!!」

 必死に堪えようとしているが、これは確実に笑われている。そう瞬時に理解すると、今までの言葉が白哉の嘘であることに、緋真はようやく気がついた。

「びゃっ……白哉様!!」
「す、すまぬっ……くっ、つい……っ」
「白哉様!!」

 ばっ、とすでに緩んでいた両腕をほどき、緋真は白哉を振り返る。しかし、涙目でキッ、と睨み上げた視線の先にあった表情が、一瞬で緋真の意識を奪った。

「あ……」

 笑っていたのだ。あの、白哉が。満面の笑みを浮かべて。

「はっ、ふふ」

 “にっこり”とは少し違ったけれど、ずっと見たかった笑みがそこにはあった。思っていた以上に白哉の笑った顔は美しく、それでいて、どこか幼くもあった。

「……ずるい」

 緋真はポツリ、と呟いた。こんな顔を見せられてしまっては、怒るに怒れなくなってしまう。恨めしそうに白哉を見上げ、緋真はぺちり、とその頬を緩く叩いた。

「む、痛いではないか」
「知りません」
「私が悪かった。だから、そう怒るな」
「……」
「緋真」
「……白哉様」
「何だ?」
「遅刻、しちゃいますよ?」
「!」

 すっかり忘れていた。今日は朝から副隊長会議があるので、少し早めに出廷しなければならないのだ。
 慌てて時計を確認すれば、時間はギリギリ。今から支度をし、すぐに屋敷を出て間に合うか合わないかというところだった。こうしてはいられない。

「清家!」
「おはようございます、白哉様。お呼びですかな」
「すぐに出廷の準備をしろ! 副隊長会議に間に合わぬ!」

 先程まで静寂に包まれていた屋敷は、一気に騒がしくなった。こんなにバタバタする朝は何年ぶりになるだろうか、と清家は内心で笑う。

「なぜ起こさぬのだ!」
「ホホッ、起きていらしたではありませぬか」
「わかっていたなら声をかけろ!」
「申し訳ございません。何やら楽しそうに、緋真様とお戯れになっていらしたようですので」

 この屋敷で当主である白哉にこんなことが言える者は、きっと清家以外には存在しないだろう。
 二人の会話を聞きながら、緋真はクスクスと笑った。この場で慌てているのは、白哉ただ一人だけである。

「行ってくる!」

 用意を整えた白哉は、にこにこと自分を送り出す妻と従者を一度睨んでから、瞬歩を使って飛び出した。白哉の姿が消えると、緋真と清家は顔を見合せて微笑み合う。

「このように賑やかな朝は久方ぶりでした」
「ふふ。白哉様は間に合うでしょうか?」
「白哉様なら、何がなんでも間に合わせるでしょう」
「そうですね」

 夫の満面の笑顔を思い出しながら、緋真は幸せそうに頷いた。今夜は絶対に起きて帰りを待っていようと、そう心に決めて。




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