月の光が降り注ぐ縁側に腰を下ろし、白哉は一人で庭を眺めていた。今年は昨年よりも暑さが増しているらしいが、手入れの行き届いた庭は変わりなく花を咲かせている。見事なものだと少しばかり感心して、静かに茶を啜った。
「あら、白哉様。こちらにいらっしゃったのですね」
「……もう起きて平気なのか」
「はい、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「構わぬ。お前の息災な姿を見て安心した」
ふわりと白哉が微笑みを見せれば、緋真の頬は薄紅色に染まる。隣に座するよううながされ、緋真は頬を染めたまま腰を下ろした。
「熱も引いたか」
「はい。お医者様のおかげであっという間に」
「だが、油断はならぬ」
「もちろんです。また白哉様にご心配をおかけしてしまいますもの。それはとても心苦しゅうございます」
「馬鹿者、私のことを気にかけてどうする。緋真は己の身さえ案じていればそれでよい」
「白哉様ったら、またそのようなことを……」
いつも自分のことを後回しにする白哉に、緋真は眉を下げて笑った。それが白哉の優しさであることはじゅうぶん承知しているが、もう少し自分を大切にしてほしいとも思う。今回だけに限ったことではないのだから、なおさらだ。
「何か温かいものを用意させよう」
病み上がりである自分の体調を考えての言葉だとすぐにわかったが、緋真はやんわりと断った。
「夜でも気温は高いですから、温かいものでなくても平気ですよ」
「む……」
確かに言われてみればそうだ。いくら病み上がりとはいえ、この気温で温かいものはいささか苦しい。まだ冷えたものの方がよいだろう。
「そうだな……では冷えたものにするか」
「白哉様のそれはお茶ですか?」
「ああ。少しぬるくなってしまったが」
手渡された湯呑みをそっと受け取り、緋真は上品な仕種で口に運ぶ。一口嚥下して、確かにぬるいと思った。
「でも、緋真にはこれくらいがちょうどいいです」
「そうか。ではそうさせよう」
白哉が家の者を呼ぼうとするので、緋真は慌てて制止をかけた。不思議そうな顔で見つめられ、微笑する。
「大丈夫です。わざわざご用意してもらうほど、あまり欲しておりませんので」
「水分はとるべきだ」
「ふふ、私は熱中症ではございませんよ? ただの風邪です」
「ただの風邪でも、だ」
自分はよく心配性だと言われるが、夫の方がずっと心配性なのではと緋真は笑った。
「では、こちらを頂きます」
「それは私の……」
「だって、もうお飲みになられないのでしょう?」
ぬるいものをあまり好まない白哉を知っているからこそ、緋真はそのまま湯飲みに口をつける。
冷たいか熱いか、白哉ははっきりとしているものの方が好きだ。
わざわざ飲みかけでなくとも、と白哉は複雑そうな表情を浮かべるが、緋真がそれでいいなら構わないか、とすぐに思い直した。
「緋真、そろそろ……」
「あ!」
部屋に戻った方がいい、と白哉が言い終える前に、緋真が突然声をあげた。
「どうした?」
「ご覧ください、白哉様。桔梗が咲いています」
「桔梗?」
緋真が指を差す方へ目を向ければ、白や紫の桔梗の花が見事に咲き乱れていた。そういえば、緋真はこの庭に咲く桔梗を楽しみにしていたことを思い出す。
「私が寝込んでいる間に咲いたのですね」
「そのようだな」
嬉しそうに弾む緋真の声を聞き、白哉も穏やかに返した。桔梗を見つめる妻の優しい眼差しは、己の心までもを癒してくれる。
「桔梗が好きか?」
「はい。お花はどれも大好きなのですが、桔梗は特に好きです」
「なぜだ?」
数ある花の中で桔梗が特に好きだと言う理由が純粋に気になり、白哉は尋ねた。緋真は笑顔のまま答える。
「清楚で美しく、どこか凛とした芯の強さを感じるからでしょうか。お星様の形をした五弁の花も綺麗ですし、何より花言葉が素敵なのです」
「花言葉?」
「はい」
桔梗の花言葉とはどのようなものであったか。幼い頃に聞いたことがあったような、と白哉は記憶を辿るが、思い出すことはできなかった。
「どのような花言葉だ?」
緋真が素敵だという花言葉を自分も知りたい。知って、同じ感動を共有したいと白哉は思った。
だが返ってきた言葉は、予想外のものであった。
「それは言えません」
あっさりと教えることを拒否し、緋真は悪戯っ子のようにクスクスと笑う。白哉は珍しく、面食らった表情を浮かべた。
「なぜ言えぬ」
「私の口から申しては花言葉の意味がございません。桔梗の花言葉は、私から白哉様への想いと同じなのです」
それを聞いて、白哉の記憶はふっと鮮明になった。そうだ、桔梗の花言葉は確か――
「変わらぬ愛」
ぽつりと、独り言のように白哉は呟いた。
「ご、ご存知だったのですか!?」
「たった今思い出した」
次は、緋真にとって予想外の展開が訪れてしまった。あまりにも恥ずかしい展開である。
かあっと真っ赤に染まった顔を見せぬように、緋真はさっと白哉に背を向けた。
「緋真、こちらを向かぬか」
「い、嫌ですっ」
「それではお前の顔が見えぬ」
そう言って、白哉は背後から緋真を抱き寄せる。驚いた緋真は、「きゃっ!」と可愛らしい声をあげた。気づいたときには、すでに夫の腕の中にいる。
「白哉様……!」
「嫌か?」
白哉も緋真も、それがずるい聞き方だとわかっていた。しかし、たとえ
わかっていたとしても、緋真には頷くことなどできない。それもまた、互いにわかっていることだった。
「白哉様の意地悪」
「お前が先に仕掛けてきたのではないか」
「仕掛けるだなんて……! 私はただ、花言葉の意味を……」
「わかっている」
背後から顔を覗き込むように、白哉は優しく緋真の唇へ口づけた。
「私も、桔梗が好きだ」
「……初めてお聞きします」
「先程好きになったばかり故」
「どうしてお好きに?」
「緋真の話を聞いて、よい花だと思った。それにその花言葉は、私から緋真への想いでもある」
次いで甘く柔らかく、そして力強く耳元で囁かれた。
「変わらぬ愛を誓おう」
その揺るぎない想いは、互いの胸を焦がすかのように熱かった。
緋真はそっと白哉へ向き直り、ゆっくりと両腕をその背に回す。
「私も、誓います」
愛に満ちあふれた視線を交わす中で、白哉の瞳の色が強く脳裏に焼きつき、緋真は幸せそうに目を細めた。
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咲かせし桔梗