きっと、他人にはわからない。私たちが抱いている、温かくて優しい痛みの正体は。
同情や慰めなんて欲しくないの。この甘い痛みは、そんな単純なものじゃないから。
「松本、この書類を一番隊に提出してきてくれ」
隊長から数枚の書類を差し出され、机から顔を上げてそれを受け取った。内容を確認すれば、わざわざ副隊長が出向くほどの書類でもなかった。
「あたしが……ですか?」
「今日は、珍しく朝から机に向かってるからな。それを提出した後は休憩に入っていいぞ」
ああ、そういえば今日はまだサボってなかったわ。そんな不謹慎なことを思いながら、筆を置いてぐっ、と伸びをした。慣れないことをしたからか、少しばかり肩が凝った気がする。
ふと時計に目を移すと、出廷してからまだ三時間しか経っていなかった。これで休憩は少し早いんじゃ……とも思ったけれど、もちろんあたしはそれに甘える。椅子から立ち上がり、隊長に「行ってきまーす」と声をかけて、執務室を後にした。
「さて、この後はどうしようかしら」
書類を提出した後のことを考えながら、ゆっくりと一番隊隊舎に向かう。
何となく、執務室には戻りにくかった。隊長がどうしてこんなに早く休憩なんてくれたのか、わかっているから。たぶん、気をつかってくれたんだと思う。
「隊長ったら……そんなの、気にしなくてもいいのにね」
あの戦いから――ギンがいなくなってから、一ヶ月が経っていた。
「はぁ……一番隊って、変に緊張すんのよねぇ」
まあ言うほどでもないんだけど。
書類を提出し終えたあたしは、それからぶらぶらと瀞霊廷を歩くことにした。けれど今日は、お酒を呑みたい気分でも、甘味処に行きたい気分でもなく、ただ静かな場所に行きたかった。
「ちょっとくらい平気よね」
そう遠くない場所なら、流魂街に出ても構わないだろう。休憩時間も正確には告げられていないから、少し遅くなっても何も言われないはずだ。特に、今は。
そう結論づけて、瞬歩でその場を去った。いくら流魂街といえど、治安のいい地区はそれなりに栄えているから、あたしが向かうのはもう少し奥。
「はっ……このあたりなら静かでいいわ」
瞬歩を使ったことでわずかにあがったた息を整え、小川の近くに腰を下ろした。行き当たりばったりで着いたところだけれど、自然豊かで静かないい場所。
「どのへんかしら……ここ」
あたりをぐるっと見渡す。人の気配は感じない。
「ま、何でもいっか」
ふっ、と苦笑して、あたしは小川を覗き込んだ。水面に映る自分の顔は、とても情けない表情を浮かべていた。
「はは……そりゃ気もつかわれちゃうわよねぇ」
水の中の自分が自嘲気味に笑う。ああ、今あたしもこんな顔してるんだ。そう思ったときだった。背後でかさり、と小さな葉の揺れる音がして、あたしはすぐさま立ち上がった。
「誰!?」
「……松本?」
低く凛とした声とともに現れた姿を見て、呆気にとられた。白い髪飾りと襟巻、そして隊長羽織。
「く、朽木隊長……! こんなところで何してるんですか!?」
「兄こそ、まだ執務中ではないのか」
思わぬ遭遇に朽木隊長は驚いた様子も見せず、冷静にそう言った。
「あたしは日番谷隊長から休憩を頂いたんで、ちょっと気晴らしに……」
「そうか」
「朽木隊長は?」
「……似たようなものだ」
そのとき、あたしには朽木隊長が、いつもとは違うように見えた。
「あの」
「邪魔をした」
「ちょ、待ってください!」
さっと背を向けて立ち去ろうとする朽木隊長を、気づけば引き留めていた。汚れひとつない死覇装の袖を掴み、訝しげにあたしを見下ろす桔梗色を見返す。
「せっかくなんで、もう少しここにいませんか?」
何で、こんなことを言ったのだろう。あたしは今、一人になりたかったはずなのに。
朽木隊長なら静かだから? それともやっぱり人恋しかった? ……そうじゃない。この人から、あたしと同じ何かを感じ取れたからだわ。
「迷惑……ですか?」
「……いや」
「よかった」
あたしは小さく笑い、袖から手を離した。
「朽木隊長はこの場所、知ってたんですか?」
「先程見つけた」
「……ぷっ」
思わず吹いてしまったあたしを、朽木隊長が眉間に皺を寄せて見てくる。
「なぜ笑う」
「あたしと同じだったんで、つい」
すっごい偶然ですね、と続ければ、朽木隊長は頷いてくれた。本当にすごい偶然。
それからしばらく、あたしたちはなんてこともないような世間話をした。もちろんあたしが一方的にしゃべるだけで、朽木隊長は時折、相槌を打つ程度だけれど。
「……松本」
不意に名を呼ばれ、あたしは口をぴたりと閉じた。返事の代わりに、その秀麗な横顔を見上げる。
「どうかしました――」
「笑うな」
ドキリ、とした。
「無理に、笑うな」
まっすぐ前を向いていた視線が、すっと自分に向けられる。その瞳は真剣で、ああ、この人には敵わないな、と思わされた。
「兄は以前、私に言ったな。泣きたければ泣け、たまには周りに甘えろ――と」
言われて驚く。まさか覚えてくれてたなんて、夢にも思わなかった。
「その言葉、兄にも当てはまるのではないか」
「朽木、隊長……」
「あの男がいなくなって、痛むのだろう?」
はっ、とする。そっか、そうだったんだ――。
「ははっ……参っちゃう」
「……」
「朽木隊長には、ホント敵わないんだもの」
両目を右手で覆い、視界を隠した。真っ暗な闇の中で、あいつの背中が浮かんで消えた。
「……痛い、です」
あたしはいつの間にか、朽木隊長の背中に顔を埋めていた。朽木隊長は、黙ったまま背中を貸してくれた。
「朽木隊長……痛いんです」
「ああ」
「痛くて痛くてっ……でも、変なの……ちょっとだけ、あったかい、です」
「ああ」
同情とか慰めなんて欲しくないの。ただ、こうしてこの痛みをわかってくれる人が、欲しかった。
「痛むなら、こんな優しい痛みなんか……いらなかったのに……っ」
この痛みは、そんな単純なものじゃないから。もっと複雑で残酷な、遺された人にしかわからない痛み。
「ただ、痛いだけで……よかったのにっ……!」
優しくて温かい、甘い痛み。愛しさであふれ返っているから、こんなにも痛いのかしら。
「……いたい、です……朽木隊長……」
「ああ……痛いな」
最後に聞こえた朽木隊長の声も、ほんのわずかに震えているような気がした。
「すみません、お見苦しいところをお見せしました」
「構わぬ」
「背中まで借りちゃって……」
「よい」
謝罪しても即答で返されるあたり、この人は本当に気にしていないんだろう。
あれからあたしは、朽木隊長の背中で泣き続けた。泣くつもりなんてなかったのに、自然と涙があふれて止まらなかった。まさか朽木隊長の前で泣くことになるなんて、自分でも驚きだわ。
でも、そんなにおかしなことだとは思わなかった。この人はあたしに、同情も慰めも向けなかったから。気なんて回さずに、ずばっと核心に触れてきたのよね。
(知ってたんだわ、この人は)
隣に並んで立っている朽木隊長を盗み見る。そう、知ってたのよ、この人は。あたしがそんなものを求めていなかったことも、本当は泣きたくて仕方なかったことも。――同じ、だから。
「朽木隊長が流魂街に来たのも、痛んだからですか?」
あたしみたいに、一人になりたかった? 静かな場所で、その痛みに溺れていたかった?
「……今日は、妻の――緋真の誕生日なのだ」
「え……」
目を丸くして、あたしは朽木隊長を仰いだ。長い黒髪が、穏やかな風に揺れている。
「こ、こんなところにいていいんですか?」
「今朝一番に祝ってきた故、よいのだ」
そう言う朽木隊長の声は、いつもより柔らかくて、少しだけ寂しそうだった。
「緋真の誕生日は、私たちが出会った日と、そう決めた」
「!」
――なら、ボクと会うた日が乱菊の誕生日や。
「流魂街出身者は、誕生日を知らぬ者が多いらしいな」
「……はい。あたしも、知りませんでした」
――なっ、ええやろ乱菊。
「だから、あたしの誕生日は……ギンと会った日なんです」
呟くように言えば、朽木隊長は少しだけ目を大きくする。笑いそうになっちゃう。こんなところまで、同じだなんてね。
「……私は、彼奴と考え方が同じだったというわけか」
「ぷっ、はははっ! そうみたいですね、残念ながら」
「ありえぬ」
こらえきれず、あたしは吹き出した。眉間の皺を深くする朽木隊長は、かなり不快そうだった。
「ね、朽木隊長」
「……何だ」
まだ少し不快そう。あたしは、ふふっ、と笑って、大きく両手を開いた。
「背中のお礼に胸、貸しましょうか?」
「いらぬ」
「朽木隊長も、あたしの胸で泣いていいですよ」
「結構だ」
うわ、これも即答。何となくわかってたけど、ちょっぴり寂しい。
「松本」
「やっぱり貸してほしい――」
「違う」
ぴしゃりとはね除けられた。
「その痛み、大切にすることだ」
それは、同じ痛みを抱いているからこそ伝わる言葉。この人はこの痛みを、ずっと一人で抱えていたのね。
「強いですね、朽木隊長は」
「……」
「大丈夫。あたしも、前に進みます」
形見はひとつも残っていない。だからこそあたしは動ける。立ち止まっちゃいけない。
「大切に、大切に抱いていきます」
優しくて温かい、甘い痛み。決して消えることはなくて、ずっとあたしたちを疼かせる。それを、人は何と呼ぶのかわからないけれど。
「朽木隊長。また、一緒にここへ来ましょうよ」
「私と?」
「朽木隊長じゃなきゃダメなんです」
「……考えておこう」
「絶対ですよ!」
少なくともあたしたちは、それを愛と呼ぶでしょう。
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私たちは愛と呼ぶ